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昔々……  作者: 水川湖海
32/35

30.結章の10

 それは大波かと思えた。しかしそれは波のように、飛沫を上げて崩れる事なく、うねりながら形を整え始める。女性の上半身だ。髪は旋毛から始まる濁流で形成され、その隙間から大きな腕がこぼれ出る。腕は滑らかな柔肌で、所々に竜の鱗を持っており、濁流を髪を払うようにかき分けた。すると濁流が割れて、そこから荘厳な雰囲気を放つ、女性が顔を出した。女性の身体は、その後もどんどん盛り上がっていき、雲に頭をつけるほどになる。そこで膨張は収まり、最後の変化に額から角が二本伸びた。そして女性はゆったりと、波の上に腰を乗せた。


 龍神様だ。彼女は遥かな高みから船を見下ろすと、悪餓鬼を戒めるように、眉根を寄せた。


「これ。ここは国際連合の直轄地じゃ。如何なるものも、国際連合の許可なしに、立ち去ることは許されぬ。お主らは因子持ちの様じゃの。逃亡は重罪じゃが、一度は目溢ししてやろう。早う去ぬことじゃ。これに懲りて――」


 龍神様が司馬懿に目を止める。彼女は腕に濁流を纏い、それを着物の袖のようにして口元を隠す。どうやらしかめっ面を隠そうとしたようだが、皺の寄った目元から、かなり険しい顔をしていることが窺えた。


「むぅ。お主二回目じゃな。残念ながら、上に報告する必要があるようじゃ。盛男の奴も、口だけだったようじゃのう」


 司馬懿は慌てて、声を張り上げた。


「お待ちください龍神様。今日ここに来たのには理由があります。貴方様の首の珠を、譲って頂きたいのです」


 龍神様の顔から険が落ちる。彼女は呆気にとられたように、首元の濁流に手を差し入れ、そこから珠を連ねた首飾りを取り出した。その珠は光が無いにもかかわらず、七色の輝きを見せていた。


「儂の首の珠とな? これを得て如何する?」


 文人が船の舳先に進み出る。そして宝石の詰まった袋を掲げた。


「輝夜姫への求婚に必要なのです。ここに金銀財宝があります。これと交換して頂けないでしょうか? お願いします」


「断る」


 即答だった。戸惑う文人に、龍神様は駄目押しするように、理由をつけ足した。


「彼の者との間で、波風を立てたくないからのう。それにそんな光る石や、透明な珠、集めたところで何もならぬ。そんなものの為に、危険は冒せんわい。お主らぐらいなもんじゃぞ。そんな石ッコロをたいそうに扱うのはのう」


 話を聴いていたジュラキュリオが、憤然として声を上げた。


「じゃあなんでドラゴンや魔女は、金銀財宝を貯めこんでいるんだよ!」


 龍神様は、今度は笑みを隠すために、口元を濁流で覆った。


「それはお主らの様な、欲の皮の突っ張った阿呆を呼び寄せる為じゃ。奴ら人を喰うからのぅ。火に群がる羽虫の様に、わらわら寄って来る寸法よなぁ。話しはそれだけかえ? なら早々に去ね。近頃はじんこうえいせいとやらで、儂が顕現しておることは、連中に筒抜けじゃからのう。怪しまれぬうちに去る事じゃ」


 龍神様は用が済んだと言わんばかりに、船に向かって追い払う仕草をした。だが文人は諦められない。その場に手をつくと、額を甲板に擦りつけて、必死に頼み込んだ。


「そこを何とかお願いします。他に必要なものがありましたら、何でも差し上げます。ですからどうか、その首の珠を譲ってください」


 龍神様はそれを見て、悩まし気な表情を浮かべる。やがて彼女は文人に同情するように、濁流の袖を振るった。


「これ。童。面を上げィ。お主がどれだけ頭を下げようが、無理なものは無理じゃ。ここまで来るとは、うぬは益荒男よ。そのお主が頭を下げるのだから、余程の事なのだろうなぁ。じゃがこの首の珠は譲れぬのじゃ。今風を起こして島まで送ってやる。大人しゅう帰れ」


「珠を頂けるまで帰れません」


「ホ。根比べか。よかろ。つきあうぞえ。長引けば長引くほど、損するのはお主らの方じゃ。聞かん坊は痛い目を見るのが一番じゃからのぅ。そこで好きなだけ喚くがよい」


 文人は歯を食いしばって、龍神様を見上げる。龍神様は同情に眦を下げつつも、瞳に冷ややかなものを宿して、文人の事を見下していた。


「それでは此方で如何でしょうか?」


 文人の背後で、場違いなほど明るい声が上がった。文人が振り向くと、復活したファウストが仁王立ちをしている。彼は一冊の本を、両手で龍神様に捧げていた。


 ピンク色の大判漫画。「乱れ巨乳ふわふ和風ゥ~」だ。


 雷が空を切り裂く。そしてその場にいる人間の、精神をも引き裂いていった。


 最初に動いたのはジュラキュリオだった。彼はバネのように跳ねると、ファウストの横っ面に蹴りを浴びせた。


「バカヤロォォォ!」


 ファウストは上体を反らせて蹴りを躱す。そして本を龍神様に向かって投げた。本は暴風に乗って、龍神様の所まで運ばれていった。


「らめぇぇぇ! それだけはらめぇぇぇ!」


 文人の絶叫が響く。だが龍神様は気にせず、むしろその狼狽えぶりに興味を持って、本を手に取った。


 司馬懿と照が、一緒になってファウストに掴みかかる。今度は司馬懿が頭を持ち、照が足を持つことになった。二人は絶妙なコンビネーションで船べりまで走ると、そこからファウストを海に放り投げた。


 その一方で龍神様は、器用に爪の先で本を摘まむと、ぱらぱらと適当にページをめくっていた。彼女は失笑した。


「何じゃ春画か。ホ。かような技量だけは、ほんに早う上達するのぉ。インキで刷られておるわ。儂の時代じゃ考えられぬ」


 文人たち捜索隊の顔が絶望に引きつり、暗くなっていく。龍神様は彼らに構わず、次第にページをめくる速度を緩めていった。精読を始めたようだ。やがて彼女は気分を害したように、口の端を下げた。


「奇遇じゃのう。儂の若かりし頃と瓜二つじゃあ……初々しいのう……儂もあの頃は因子がはたらく前で、ただの子娘じゃったからなァ……じゃがのぅ……これをしたためた者は、女子を物か何かと勘違いしておるのではないかのう……あまり良い気はせぬのう……ウヌ!?」


 読み進めて行く内に、龍神様は驚きに目を見張った。彼女は自分にとって、豆本以下の大きさしかない本に覆いかぶさるように顔を近づけると、熱中して読み始めた。


「あ、相手役が章人に似ておる……をを……そう見ると中々悪ゥないのう……心が若返るようじゃて。儂らは仕事だけの付き合いで終わってしまったからのう……あの時……もう少し儂の胆が据わっておったらのぅ……章人ものぅ。少しは気付いてくれてもよかったのにのぅ……今はどうしておるかのぅ……まだ彼の者と戦っておるのかのぅ……会いたいのぅ……」


 やがて龍神様は、文人たちの存在を忘れて、読書にふけりだした。


「あの~……龍神様……?」


 文人は遠慮がちに声をかける。すると龍神様は、我に返ったように本から顔を上げた。


「お!? おう。すまぬすまぬ。あ~……儂の首の珠じゃったか。そうじゃなぁ……首の珠と言えど、儂の体の一部。時が経てば新しゅうなる事じゃ。この首の珠も十数年使った事じゃし、そろそろ心機一転してもよい頃じゃと思うのぅ。これと交換でどうじゃ?」


 彼女は大事そうに本を指でつまむと、自分の首の珠を手の平に乗せ、並べて見せた。龍神様の眼には、人をからかう様な怪しい光はなく、純粋な欲望に輝いていた。


 捜索隊の面々は、皆胸中で呻いた。


(((マジかよおい……)))


 ただ一人を除いて。護平は沈黙する捜索隊のメンバーを見渡す。そして異論がない事を表情から知ると、抗議の悲鳴を上げた。


「おい……冗談だよな……? 本気で言ってるのか!? 嘘だろおい! 認めるのか! お前ら嵐でどうにかしちまったんじゃないか! あれは駄目だろ! 俺らのオアシスだぞ!」


「輝夜が戻ってくる方が……良いに決まってるだろ」


 文人が正論を返す。だが護平はさらに憤慨し、弾劾するように文人に指を突きつけた。


「そりゃお前は輝夜と結婚できるんだからな! 好きなだけほじくり回せるんだから、ンなふざけたことぬかせるわけだ! 輝夜は俺にヤらせてくれるのか!? くれねぇだろ! これが無くなったら俺には何も残らねぇ! これだけは嫌だ! これだけは譲れねぇ!」


 話を聴いていた司馬懿は、小さく手を上げて護平の前に進み出た。


「わ……私のおっぱいで良ければ、少しだけなら揉ませてやるぞ……それで我慢しろ」


 護平はじっと、司馬懿の胸に視線をやった。たわわに実った豊満なバストが、護平の目の前にある。司馬懿の胸は、雨に濡れる事で衣服が張り付き、その豊潤な全体が浮き彫りになっている。それだけではない。水に軽く透ける事で、淫靡な魅力を滲ませていた。


 護平は生唾を飲む。そしてゆっくりと司馬懿の胸に、手を伸ばした。だが触れる直前で、彼は雷に打たれたように、全身を震わせた。そして伸ばした手を引っ込めると、龍神様に向けて差し伸べた。


「今はっきりと悟った! 俺は本物じゃ駄目だ! その紙に書かれた――何というんだ……? そう! 二次元! 二次元じゃないと駄目だ! そのふわふ和風ゥ~は渡さん! 今すぐ返せぇぇぇ!」


 文人は護平が龍神様に伸ばした手を、急いで降ろさせた。


「あれは俺のだぞ! 俺に所有権がある! あれで取引だ! これで決まりなんだよ!」


「語部。なぁ考え直せ。アレが無くなったらどうすればいいんだ? どうにもならねぇだろ。この島にポルノはないし、今分かった事だけど、俺は野生のポルノ(三次元)では満足できないんだ。あんな綺麗な絵が描ける奴もいない。アレが無いと俺は死んじゃうんだよ。俺に出来ることなら何でもする。だから頼む。あれだけは勘弁してくれ」


 龍神様は黙って事の成り行きを見守っていた。だが文人たちがもめ出すと。焦ったように話しに割り込んできた。


「そう申すな……儂の首の珠は至宝じゃぞ。最高級の魔術具の素材となる上、美術品としても一級品じゃ。このような紙の束より、遥かに価値があるぞえ? のう……悪い取引ではないぞ」


 龍神様の言葉は、護平の業火のような怒りに油を注いだ。護平は龍神様を睨み上げると、怒声を張り上げた。


「紙の束だァ!? じゃあ返せ! お前にとっては紙の束なんだろ! 俺に言わせればその丸っこいのより遥かに価値のある物なんだよ! その丸っこい球しこしこ擦れば、俺の気は晴れるのか! 俺を癒してくれるのか!? でえきねぇだろ!」


「力ある者が擦れば、未来が見えるぞぇ!」


「黙れ龍神! これは渡さん!」


「黙るのは貴様の方だ! 龍神様になんて口のきき方だ!」


 司馬懿が叱るが、その言葉を、護平も龍神様も聞いていなかった。


「ううむ……そこを何とか! そうじゃ! 儂の髪の毛もつけるぞ! これは嵐の力を宿しておっての、海に垂らせば魚が喰い付き、空にかざせば雷が落ちる、風に晒せば空を舞うことが出来る。使い切りの法具じゃが、そこいらの魔術師が作ったものより、遥かに素晴らしい物じゃぞ! お主らの数だけくれてやる!」


 龍神様はそう言うと、旋毛から垂れる濁流の一つを、指で抜いた。濁流は龍神様の指の中で、瞬く間に流れ切ってしまう。そして濁流の器となった川とも、その芯となった流れともとれる、白く半透明な紐が中から現れた。龍神様はそれを七本用意すると、文人たちに差し出した。


「これで頼む。譲ってくれィ!」


 捜索隊の面々は、苦笑いを浮かべた。


(((いつの間にか逆転している……)))


 兎にも角にも、目的は果たせそうだ。文人は二の返事で頷いた。


「よし! 取引成立です! あ! でもメインは首の珠です! そっちの方を宜しくお願いします!」


「やめろォォォ!」


 護平が絶叫し、文人に掴みかかろうとする。彼はついに血涙を流していた。ジュラキュリオと照が、両側から護平を抑え込む。そしてマストまで引きずっていき、そこに背中から押し付けた。護平は抵抗を続けた。彼の中で何かが切れたのか、鼻血を吹く。そしてついに口の端からも、血を垂らしだした。護平は血を辺りに散らしながら、必死の形相で訴え続けた。


 ジュラキュリオは、これ以上は命に関わると思った。そこで身体を抑えながら、耳元で囁いた。


「俺のコピーのコピー……後で取らせてやる。それで我慢しろ……」


 護平の抵抗が少しだけ弱くなる。しかしすぐに気の迷いを晴らすように、暴れはじめた。次に文人が護平の正面に立った。


「エロくないけど……あのキャラクターのクリアファイルが一つある。お前にやる。お前の物になる。お前の好きなようにしていいんだぞ?」


 護平の抵抗が止まった。だが顔には依然、未練の色が強く残っている。そこでジュラキュリオの反対側で、彼を抑えている照が囁いた。


「見本。ある。お前。彼女を。生み出す。出来る。練習。すれば。きっと。お前。好きな。彼女。描ける。お前。だけの。彼女」


 それを聴くと、護平の身体から力が抜けた。彼は四肢を放り出し、がっくりと頭を垂れた。文人たち三人は、心配そうに護平を覗き込む。護平はすぐに立ち上がった。ジュラキュリオと照の拘束を振り払い、顔の血を拭うと、爽やかな笑みを浮かべた。


「輝夜が待ってる。さっさと取引を済ませて、島に帰ろう」


 護平はそう言うと、取引の邪魔にならない様に、船の艫の方に退いた。途中、文人の脇を通った護平は、念を押すように文人の肩を叩いた。


「文人。嘘だったら、例えお前でも絶対許さんからな。お前を彼女に見立ててファックしてやる。それだけは覚えておけ」


 文人は軽く頷いてそれに答える。そして不安そうな顔で、様子を窺う龍神様の方に向き直った。


「では取引です」


 取引が成立すると、龍神様はまず髪の毛を七本、甲板に投げ落とした。髪の毛は甲板に落ちる過程で、見る見るうちに縮小していき、手の平に収まるほどの大きさになった。龍神様は次に、自分の首に手をかけて、首の珠を外す。そしてそれを文人に差し出した。龍神様の手の先から、水の流れが生まれ、首の珠を文人の元に運ぶ。水流は文人に近づくほど先細りし、首の珠も縮んでいった。やがて文人の手に触れるところまで来ると、それは人間の首飾りに相応しい大きさになっていた。


 龍神様は、最後に微笑んだ。


「お主の恋、実るとよいな」


 彼女は大きな波を起こし、自らを飲み込ませた。大波をまるで布団のようにかぶり、海の中に帰っていく。同時に嵐も治まっていき、海が穏やかになり始めた。


 文人は慌てて、龍神様を引き留めた。


「龍神様。すいませんが、もう一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」


 龍神様を飲み込んだ波の隙間に指がかかる。そしてまるでカーテンを開けるようにして、彼女が顔を覗かせた。


「何じゃ。儂は忙しゅうなった所じゃ」


 文人は今しがた受け取った龍神様の髪を、空に掲げた。


「風を一発。起こしてくれませんか?」

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