29.結章の9
文人たちが沖に出て二日が経った。航海は至って順調である。
司馬懿は時折羅針盤を覗き、文人たちに指示を出す。護平が舵を取り、文人は帆を張ったり、その向きを変えたりする。見張り台には目の良い照が立ち、海獣やセイレーンが潜んでいそうな岩場が見えると、司馬懿に向かって声を張り上げた。ジュラキュリオは陽の光が苦手なので、船倉に籠っている。彼の代わりと言うように、看板ではファウストがトランペットを演奏していた。演目はやはり、賛美歌、主よ御許に近づかんだった。
文人はファウストを横目に見ながら、関わった瞬間負けだとはわかりつつも、話しかけた。
「何でお前がここにいるんだ。しかもその曲、タイタニックが沈む時に流れた奴だろ。不吉だし、故人の名誉が汚れるからヤメロ」
ファウストはトランペットから口を離すと、冗談を笑うように手を扇いだ。彼はトランペットを上着の中にしまい込む。そして上着を広げて見せた。上着の内側には、先ほどしまったはずのトランペットはどこにもない。代わりに駄菓子やポップコーンなどの、映画の合間につまむような食べ物が、ずらりと吊るされていた。
「いやですねぇ~。私がこんな特等席を見逃すとお思いですか? 見て下さいプォ~ップクォーン(妙にネイティブな発音だった)ですよ! チョリソーもあります。これは豚の腸詰でして――」
司馬懿が無言で、ファウストの頭に拳骨を振り下ろして黙らせた。ファウストはうつ伏せに甲板に倒れ込む。本来なら上着に吊るされている駄菓子がばら撒かれるはずだ。だがファウストの内ポケットは萎んでおり、最初から何もなかったかのように甲板にへばり付いた。
「豚はお前だ」
司馬懿はファウストにそれだけ言うと、マストの下にいる文人の方に寄っていった。
「そろそろドラゴントライアングルを出る。許可のない我々が出ようとすれば、龍神様が引き留めにいらっしゃるはずだ。海が荒れるから準備するぞ。語部、帆を畳むんだ」
文人は司馬懿の言う通りに、帆を全て畳んだ。その頃に司馬懿は、照を見張り台から降ろさせ、護平に代わって舵を取り始めた。司馬懿の言った通り、間もなく海が荒れ始める。しじまに均等な波を湛えていた海は、次第に大きくうねり、波の感覚を大きく、そして高く変化させていく。凪はいずこへかと去り、追い立てるようにして豪風が到来する。豪風は雷雲をお供に引きつれており、空を覆い尽くすと、陽光の代わりに雷雨を降らせた。
「船のロープを体に巻き付けろ! 落ちたら助からんぞ!」
司馬懿の怒号に、文人たちは船べりに繋がっているロープに手を伸ばした。照と護平は慣れた手つきで、左舷のロープを体に巻き付ける。文人はファウストと並び、右舷のロープを腰に巻こうとした。
そこで文人は、大波の中に潜むようにして、何かが船に近づくのを見つけた。最初は気のせいだと思った。だが海の胎動である波の動き中で、何かが流れに逆らい、水をかき分けているのが見えた。大きさは人間ほどで、数は二つ。大波で荒れる海の中を、真っ直ぐにこちらに向かって来る。文人は腰にロープを巻くのも忘れ、その影の正体を暴こうと視線を注ぐ。
文人の隣で、ファウストもその事に気付いたらしい。
「わ~! なんか近寄ってきますよぉ!」
ファウストはなんと、文人を押し退けて、その影が良く見える場所に陣取ろうとした。文人は押されてバランスを崩す。そこに波の揺れと、船体の傾きが加わり、彼の身体は船の外に投げ出された。文人は海に落ちながら絶叫した。
「馬鹿の振りした嫌がらせは止めろォォォ! てめぇ絶対に殺してやるからなァァァ!」
文人は小さい波紋を立てて、海に落ちた。それに蓋をするように、上から大波が被さっていく。文人の身体は波に飲まれて、海中へと引きずり込まれる。その際水流で回転し、上下左右の知覚を失ってしまう。彼は青の世界の中、ぽつりと放り出されてしまった。
海の中は暗く、雷雲のせいもあって、光で海面を探す事は出来ない。文人は息を少しだけ吐く。すると空気の泡は、口の端から足の方に向かって動いていった。逆さまになっているらしい。文人は急いで姿勢を戻すと、泡を追って浮上しようとする。
文人の足を、誰かが掴んだ。彼は軽いパニックに陥り、残った脚で水を蹴った。だがその足も何者かに掴まれる。文人の視線の先で、空気の泡がどんどん先に昇って行き、視界から消えいく。文人はその泡に縋る様に、虚しく手を伸ばした。
手は文人の足を手繰り寄せて、その胴体に手を伸ばす。そして拘束するようにきつく抱きしめると、囁きかけて来た。
「何で私が引きずりおろす前に、落ちて来るかなぁ……? こんなバカに惚れるんだから、因子の悪影響に違いないわね」
海の暗さのせいで、相手がよく見えない。だが人間であることは、間違いなさそうだ。反対側から、もう一人が囁きかけて来る。
「うむ。だがこの者にも罪はない。苦しまずに殺してやろう」
どうやら文人は、二人の間に挟まれているらしい。拘束者の二人は、文人ごとお互いを抱き合って、その自由をしっかりと奪っていた。そしてゆっくりと、海中深くに沈んでいく。
文人は必死でもがく。すると声は子供をあやすように囁いてきた。
「可愛い、可愛い、妹の為なのよ。抵抗しないで」
「抵抗しても辛いだけだぞ? 力を抜け。私に身を委ねろ。お前の為に、歌ってやる――」
水が震えて、文人の耳に美しい声が流れ込んでくる。それは意識が蕩けるほど甘美な調べで、それ以外何も考えられない程の中毒性を持っていた。声はヘッドフォンで聞かされるように、両側から絶え間なく続く。ふと、文人は息苦しさを忘れた。そして声がもたらす快感だけが残る。文人の四肢から力が抜け、口からは空気がどんどんこぼれていく。意識は虚無に溶けていき、泥濘に絡め取られるように、暗く広い死の縁へと沈んでいった。
声がやんだ。代わりに頬に刺すような痛みが走った。
文人は微睡の中から、現実の世界に引き戻される。文人の意識が泥の中から引き揚げられ、まず感じたのが水の流れだった。物凄い勢いで、どこかに向かって引っ張られている。次に息苦しさだ。口の中に空気はない。息を吐き切っているので、肺が空気の代わりに水を吸い上げようとしている。文人は喉を抑えてそれを堪えた。それから間もなく、文人は海面を突き破る様にして、海から顔を出すことが出来た。雷鳴が遠くに聞こえ、顔面には風雨が吹きつけた。
文人は水と一緒に空気を吸い込み、激しくむせる。それでもデタラメに呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻した。
(助かったけど……何で? それに海が荒れてるのに、俺はどうして海面に浮かんでいられるんだ?)
文人は酸欠でぼんやりした頭で考える。するともう一度、頬に鋭い痛みが走った。横を見ると、詩舞姫が文人を抱えており、爪を立てた指で頬を抓っていた。彼女は文人をまるでラッコのように抱え込んでいる。そして自分の身体より上に波が立たない様、器用に泳いでいた。
「(死にそうなのに、何デレッてしてんのよこの馬鹿)」
「詩舞姫……? 助けてくれたのか……?」
文人は肩越しに詩舞姫を見つめる。詩舞姫は少しだけ気まずそうに、口元を歪める。だがすぐに文人に微笑みかけた。
「(二回目だけどね。アタシが生きてる限り、アンタが海で死ぬことは絶対ないよ)」
文人と詩舞姫の近くに、ロープが漂ってきた。文人が見上げると、船からロープが投げ込まれていた。船の縁からは、照と護平が文人に向かって叫んでいる。文人は無事を示すように、手を振り返した。その間に、詩舞姫はロープを手に取り、文人の体に巻き付けた。
「あ……ありがとう……本当にありがとう」
文人は詩舞姫に言う。詩舞姫は満足そうに息を吐いた。
ロープが引き上げられ、文人は船に引っ張られていく。詩舞姫は文人が波に飲まれない様に、抱きかかえて支え続けた。
だがまた文人の身体が、大きく沈んだ。同時に文人が足で水を蹴りだす。詩舞姫は舌打ちすると、文人の身体を離れて海中に潜った。水面下では二人の人魚が、文人の足を引っ張って、水底に引きずり込もうとしている。詩舞姫の姉妹の海遊姫と妃美湖だ。詩舞姫は彼女たちから受け取った短剣を抜くと、逆手に構えて肉薄した。
海遊姫と妃美湖は、短剣を見ても動じなかった。実の妹が本当に刺すとは思えなかったのだ。先ほどは不意打ちに驚いて文人を離したが、相手が分かった今、最終的に折れるのは妹の方だと思っていた。だが詩舞姫が目前に迫り、何のためらいもなく切っ先を突き立てようとすると、慌てて手を放して短剣を避けた。
詩舞姫は文人と姉たちの間に割って入ると、威嚇するように短剣の切っ先を向けた。姉らは顔を青ざめさせ、信じられない様に首を振っていた。
「詩舞姫! いい!? そいつはアンタなんかどうでもいいのよ! アンタの気持ちなんてこれっぽっちも理解していない!」
妃美湖が吼える。詩舞姫はきっと彼女を睨み付けると、届かぬ声を発した。
「(でも、アタシはコイツの事どうでもいいって思っていない! 誰になんて言われようが、コイツに分かってもらえなかろうが、そんなこと関係ない! コイツには笑っていて欲しい。私みたいな思いをしてもらいたくない! コイツ以外と恋したいなんて思わない! それが! 私だから……素直な私だから!)」
詩舞姫が何を言ったのかは、妃美湖には分からない。だがその気迫に圧倒され、彼女は怯んだ。今度は海遊姫が前に出た。
「詩舞姫! まだ分からんのか! ここで殺さねばお前は死ぬのだ! 何も残らないのだぞ!」
詩舞姫は悲しそうに笑った。そして文人の足に軽く触れた。
「(何も残らないって……? ここにあるよ……私の全てが……ここにあるよ)」
海遊姫にも、妹が何を言ったのかは分からなかった。だがその表情から、彼女が血迷っていない事だけを察した。
詩舞姫と姉たちは、膠着状態に陥る。やがて文人の身体が引き上げられたのか、足が海中から抜けた。入れ替わりに文人の腕が入り、詩舞姫の手を求めるように水を掻き回した。詩舞姫は迷わずその手を握った。
「(お姉ちゃん。これ以上構わないで。文人に手を出したら承知しないよ!)」
詩舞姫はそう言うと、短剣から手を離す。短剣はその役目を終えたかのように、水中深くに沈んでいった。
海遊姫と妃美湖はじっと詩舞姫を見つめていた。彼女らは詩舞姫が引き上げられる直前に、声を揃えて言った。
「さよなら。詩舞姫」
詩舞姫は海中から引き上げられる。眼の横には船腹があり、文人がそこにへばり付いていた。文人は詩舞姫を左腕で抱きしめると、ロープを握る右手を強く引く。それを合図に、文人たちは船へと引き上げられた。
文人は力を使い果たしたように、甲板に倒れ込む。詩舞姫は文人の傍に寄り添った。照と護平、司馬懿がロープを投げ捨てて、すぐに文人たちの元に駆けよって来る。司馬懿は涙ぐみながら、詩舞姫を抱きしめた。
「水川! ナイスファインプレーだ! ありがとう! ありがとう!」
「(別にぃ~お姉ちゃんたち、アタシを身代りにした分、溺愛してるから。このままじゃあ済まないって、分かっていたしぃ)」
護平は文人を助け起こしながら、鼻の下を擦った。
「流石孔明。バックアップを頼んでくれたんだな」
「(愛の力が為した技なんですけど)」
ファウストは腕を組んで、責めるような眼つきで文人を睨んでいる。
「文人さん。人に迷惑をかけたら、何かいう事があるんじゃないでしょうか?」
「(お前は死ね)」
照と護平が、ファウストを左右から捕まえる。
「全部。見てたぞ。馬鹿野郎」
照はドスの効いた声を出した。そのまま照がファウストの頭を持ち、護平が足を持つ。二人はファウストを抱えて船べりまで走ると、荒波の中に放り投げた。照と護平は船べりに手をついて、結果を確認するように海を覗き込む。だが海には波が渦巻くだけで、ファウストの姿は見当たらなかった。
「死ん。だか……?」
「あれぐらいで死ぬんだったら、今頃奴の墓があるよ。俺が自費でドワーフの隠れ里に発注してやる。反面教師として永遠に残る奴をな」
二人はそれで海に見切りをつけて、甲板の方に戻っていった。甲板には、捜索隊が集まる。船の揺れに起こされたのか、船倉からもジュラキュリオが上がってきた。ジュラキュリオは嵐に見舞われる船と、甲板の中央に寄る仲間を見て、事の運びを察する。彼もすぐに仲間の輪に加わった。
「龍神様がいらっしゃるぞ……」
司馬懿が激しさを増す海を見ながら呟いた。雷鳴が轟き、暗雲の闇が、稲光で照らされる。船は濁流に流れる木の葉のように揺れ、雨が礫となって吹き付けて来た。
突然。目の前の海が、盛り上がった。




