25.結章の5
海への冒険が決まってから、クラスは大忙しだった。航海のための船の確保や、食料の調達、そして龍神に会った生徒を探すため、島の方々を駆け巡った。だが結果は芳しくない。今までの自分がそうだったように、無気力の壁に阻まれたのだ。要領を得ない生返事や、関わりたくない様に向けられる背中に、作業は遅々として進まなかった。日が沈み、今できる手を尽くした後、クラスは解散する。その面々は、疲れと虚しさに表情を曇らせていた。
クラスが各男女寮へ引き上げる中、孔明は独りだけ商店街に歩いた。彼女は寮ではなく、港の一戸建てに住んでいる。成人した姉が家を持ったので、そちらに住むことが許されたのだ。
孔明は一戸建てに住むことに、優越感を持っていた。部屋は広く、シェアする必要もない。トイレや風呂、洗濯機の順番を待たずに利用が出来るなどの、アドバンテージがあったからだ。だがこうしてクラスとの繋がりが出来てみると、一人離れて生活することに、ちょっとした疎外感を覚えてしまった。
孔明は口を歪めて、自嘲気な笑みを浮かべる。彼女は自分がそんなセンチな考えを持つとは、思ってもいなかった。こうなったのも、皆あの語部とか言う生徒のせいだ。孔明はそのような事を思って、くすりと笑った。
孔明は帰宅する。階段状の港町の、上から二段目にあるその家は、比較的新しい。外観は昭和後期を思い出させるが、島では珍しいモルタル造りで、築数年も経っていない。それもそのはず、その家は漁師たちが、司馬懿の就職祝いに建ててくれたものだった。
孔明が玄関戸を開けると、中はしんと静まり返っており、電気もついていなかった。普段ならそれが当たり前だった。メランコリックな末弟陸遜は電気をつけないし、明るい姉司馬懿も、仕事で学校にいるからだ。だが今は、表向き体調不良となっている司馬懿が、家にいるはずなのだ。孔明は溜息を吐いた。これは語部のせいではない。姉に問題があるのだろうと。
孔明は二階に上がり、廊下の突き当りにある大部屋のドアをノックした。
「姉さん。何時まで拗ねているんですか?」
返事はない。孔明は気落ちと共に、視線を俯かせる。そこには今朝置いた朝食が、手付かずのまま残っていた。重症の様だ。孔明はもう一度、強めにノックした。
「語部は姉さんに見捨てられた事を、憎んでいませんよ。リンチしたクラスメイトと笑顔で行動しているんですから。そんな小さい男ではありません。分かったら出てきて手伝って下さい。馬鹿共の個性が強すぎて、上手くまとめられないんですよ」
やはり返事はなかった。代わりに大部屋の隣のドアが開き、末弟の陸遜がひょっこりと顔を出した。頭からすっぽりと毛布をかぶり、手には火のついた燭台を持っている。蝋燭の炎に照らされる彼の顔は、病的なまでに白く、心身ともに健康的とは言い難い。ロングストレートの髪を前に垂らしており、その隙間から覗く隈の浮いた目は、虚ろに蝋燭の炎を見つめていた。
陸遜は卑屈に咽喉を鳴らして笑うと、燭台を孔明に差し出した。
「姉上。そこは火責めでござる。燃やすに限るでござるよ」
「黙れ」
孔明は陸遜を見ようともせず、ドアノブを回した。鍵がかかっていて、ドアは開かなかった。
「とにかく燃やすでござる。燃やしてから考えればいいでござる。拙者、助燃剤を取って来るでござる。ちゃちゃっと着火して、火を眺めるでござる。そうすれば大姉上が出て来るでござる」
「黙れ」
孔明は燭台の蝋燭を吹き消した。辺りが暗闇に沈むと、陸遜が取り乱したような悲鳴を上げた。
「何をするでござるか! 拙者の偉大なる命の炎に! 暗いのは嫌でござる! 暗いのは拙者の人生だけで十分でござる! だからここで派手に燃やすでござる。その炎で未来を明るく照らすでござる。炎はイイでござるよぉ~……あたまがぼ~っとして……気持ちイイでござるぅ~」
何かを擦る音がして、暗闇に火が灯る。火は陸遜の歪んだ顔と、マッチを摘まむ指を照らし出した。
「陸遜君。君は火に関連する物品に触れる事を、禁止したはずだが」
ひょいと、陸遜の後ろから剛腕が伸び、マッチの火を指でもみ消した。間をおかず廊下の電気がつけられる。孔明たちの後ろで、盛男が電気のスイッチに、指を押し当てていた。
「いやぁ~、いくら呼んでも返事が無いから、勝手に上がらせてもらったぞ」
戦車の件で落胆させられた事もあり、孔明の顔は渋いものとなった。彼女は座った眼で盛男を見上げると、軽蔑を隠さない声で言った。
「何をしに来たんですか? 役立た――校長先生」
役立たず――と言われかけて、盛男が一瞬ショックを受けて頭を抱える。だがすぐに立ち直ると、孔明と陸遜を脇にやり、大部屋のドアノブを握った。
「ま。ここは盛男に任せたまえ」
「無理です。鍵がかかってますから」
孔明は苦言を漏らすが、盛男は気にせず力任せにノブを捻った。その膂力に金属製のノブはひしゃげて、ドアの付け根からもげた。盛男は壊れたノブをドアから抜き、空いた穴に手を突っ込んで鍵を外した。
「司馬懿君。入るよ。わぁ~開いた~」
盛男は白々しく言うと、部屋の中にその巨体を捻じ込んだ。そして素早く後ろ手にドアを閉め、ドアの穴から外にいる孔明たちに話しかけた。
「勝手に上がり込んどいて図々しいけど、しばらく二人きりにしてもらえるかなぁ」
陸遜は特に抵抗することなく、自分の部屋に戻っていった。だが孔明は不安そうに、部屋の前に佇んでいた。
「孔明君。この事を持ち出すのは卑怯だと思うが、司馬懿君を連れ帰った私を、もう一度だけ信じてくれないかね?」
孔明が考えるように唸る。彼女はしばらくドアの前で足踏んでいたが、そろりとそこから離れ、階段を下りていった。
人の気が無くなると、盛男は司馬懿の部屋を振り返った。彼女の几帳面さを代弁するように、室内は整然としていた。家具は壁と平行に置かれ、趣味や嗜好品の類は一切見られない。代わりに壁には、司馬懿が今まで受け持ったクラスの集合写真が、額縁に入れられて飾られている。だがそのどれもが裏返され、年号を示す裏書しか見られなかった。棚には学級日誌やアルバムが、年度順に並べられている。だが一つの棚が、何かを抜き出したことで荒れていた。
盛男は部屋の中央の床に視線を落とす。そこには穴の開いた棚に、ちょうど収まるぐらいの冊子が投げ出されていた。それを拾い上げると、冊子から紙屑が零れる。びりびりに引き裂かれた、司馬懿の教員免許状だった。
盛男は少し寂しそうに眉根を下げる。これを手渡した時の、司馬懿の笑顔が脳裏をかすめたからだ。盛男は免許状をかき集めると、部屋の隅へと歩んでいった。そこで司馬懿が、カーテンに包まっていた。彼女は身体を抱え込むような三角座りをして、膝に顎を埋めている。その上からカーテンを身体に巻き付けて、ぼぅっと虚空を見つめていた。
「あちゃ~……かなり参っているようだねぇ~」
盛男は司馬懿の前で屈みこみ、目線を彼女に合わせる。司馬懿はそこでようやく、盛男の存在に気付いたらしい。戸惑いに表情を引きつらせたが、すぐに忸怩たる思いに顔を伏せて、盛男の眼から逃れた。彼女はカーテンの隙間から、震える声を絞り出した。
「失望させて……申し訳ありません……私には人に教える資格がありませんでした……」
盛男はあっさりと、それを否定した。
「怒ったけど、失望した訳じゃあ無いよ。そもそも君に何の期待もしていない。ただ、君が望むまま、のびのびとして欲しいと思っていた。私からこうなったら素晴らしいとか、こうすれば一流になれるとか、そんな期待は一度もしてはいない。ただ君には出来ると思って、免許状を渡したんだ」
その言葉に、盛男がこの島に抱く思いが集約されていた。因子に縛られていようとも、それは些細なことなのだ。彼らが如何なる神族に由来する英雄であろうが、如何なる定めが待ち受けていようが、結局どうするか(・・・・・)は本人次第なのだ。実を言うと、その点は英雄も通常人も変わらない。人間にだって避けられない定めや由来は存在する。ただ英雄には、これから立ち向かわなければならない、人生の課題が見えているだけなのだ。
人生において、素晴らしい物語を作る必要も、一流の英雄になる必要もない。ただ自らの行動を、どれだけ受容し、そして赦し、更には誇れるかなのだ。
人生とは、たったそれだけなのだ。この島の住人は、たったそれだけを、諦めたのだ。
「もう諦めるのかい……?」
盛男はそう囁くと、司馬懿の肩を優しく叩いた。司馬懿は微かに身じろぎしたが、何も言わなかった。時間がかかると踏んだ盛男は、そっと司馬懿の隣に腰を下ろした。
盛男は司馬懿の言葉を待つ間、裏返された集合写真に視線をやった。埃の積もり具合から見て、昨日今日裏返されたものではなさそうだ。盛男もその写真に、迂闊に手を出そうとは思わない。写真には生徒が魂の抜けた眼で、一斉にカメラを見つめているのが収められている事を、盛男は知っている。司馬懿は教師らしくそれを飾ったが、受け持った生徒がそのような眼で見つめて来るのに、耐えられないのだろう。そしてそのような写真を残した、自分を許せないのだろう。
だから、元凶である文人を、憎んでしまったのだろう。
「語部は……大丈夫ですか……?」
不意に司馬懿が聞いて来る。盛男は額縁から目を離さないまま答えた。
「うん。元気、元気。今クラス一丸になって、輝夜君を助けようとしているところだよ」
途端に司馬懿が顔を上げた。彼女は焦りに満ちた表情で、盛男の方を向く。
「展開が速すぎます。我々のメランコリーは、今に始まった事ではありません。一時の気の昂ぶりで行動しては、いざという時に語部が孤立するのでは……?」
「私もそう思って、ちょっと生徒と戯れてきた。だが皆本心で文人君と行動しているようだ。文人君もしかりしているし、問題ないだろう。一応鯖戸君が水晶で見張ってるよ」
「戯れたって……」
司馬懿が不安を引きずったまま呻く。盛男はふふと、優しく笑った。
「鳩の戦車を覚えているかい? 直しても必ず壊れる、不戦を誓った戦車だ。それを目の前で壊して、希望を砕かれた生徒の反応を見たんだ。結果生徒は私を頼らず、自分の力で方法を模索し始めた。遊び半分なら、爆発して、それでお終いさ」
司馬懿はそれを聴いて、神妙に黙り込んだ。そして膝の間に顔を埋めて、静かに泣き始めた。
「私って……駄目ですね……私が何年もかけて出来なかった事なのに……語部は……一月もかけない内に……私って……私って……」
盛男は震える司馬懿の肩を撫でる。
「君は夢を叶えたじゃないか。教師になりたいと言い、他の英雄たちが運命に飲み込まれる中、最後まで努力したじゃないか」
だが司馬懿の嗚咽は治まらない。それどころか震えは大きくなり、司馬懿は自分を否定するように首を振った。カーテンは彼女を包み切れず、カーテンランナーから千切れ落ちる。彼女はカーテンに埋もれながら、激しい嗚咽を上げ続けた。
「そんなの……私の因子が、他の英雄と違って、破滅を迎え難いものだったからです。ですから運命に飲み込まれる級友を尻目に、一人だけ生き残ったんです。なのに私は……何もできていないんです……のうのうと生きているだけなんです。夢を叶えても……まともに仕事が出来ないんじゃ……」
その言葉を聞いて、盛男は衝撃を受けた。まさか英雄である司馬懿が、伝承者である文人と同じように、責任感に突き動かされていたとは思いもしなかったのだ。彼女も彼女で、章人のように戦っていたことを今更知り、盛男は申し訳なくなった。
「君だからできない事があり、文人君だから出来る事もある。無力に感じる必要はない。それは無い物ねだりだ。それに君の仕事はあくまで、学問を教える事だ。因子を解放することではない」
盛男は事実だけを述べる。だが司馬懿には受け入れられない。
「そんなこと……いなくなった人たちの、なんの慰めにもなりません……」
「しかし君の苦悩が彼らの慰めになる訳でもない。君は良くやってくれたと私は思っているよ」
盛男はそう言って、司馬懿の背中を軽く叩いた。司馬懿の嗚咽が少し小さくなり、盛男はほっとしたように息を吐いた。やがて彼は、遠い昔の事を思い出して、忍び笑いをこぼした。
「ここに来た時の君は、凄くのびのびとしていたな。出会い頭に、私に馬乗りになって、派手にかましてくれたじゃないか。商店街を荒らしたり、勝手にユニコーンを乗り回したり、海から脱出しようとしたりな……あれから随分大人になったじゃないか?」
司馬懿は過去の話をされて、恥ずかしそうに息を飲んだ。彼女は今にも消え入りそうな細い声で、しどろもどろな弁明を始めた。
「あれは――その……私は暴力以外、ルサンチマンを発散する方法を知らなくて――あの……はい。言い訳になるんですが若気の至りというか……あそこは私の居場所が無い気がして、もっといい場所に逃げたくて……大きな英雄の力があるのに、狭い島で腐るのも嫌で……」
司馬懿はそこで、体裁を取り繕うのを止める。そして栓が抜けたようにふっと笑うと、懐かしむようにしみじみと語りだした。
「でも……私がいなくなった時、島の人が総出で探してくれて。盛男は船まで出してくれて。あんな私だったのに、皆受け入れてくれて。龍神様の処罰からもかばってくれて。その時……壊すんじゃなくて、この人達みたいに、私に何が出来るのかなぁって……」
彼女はそこで言葉を切る、そして再び泣き始めた。自らを不甲斐なく、そして島民の期待を裏切ったと思っているのだろう。盛男は愛娘にするように、司馬懿の頭を抱いた。そして司馬懿が落ち着くまで、離さなかった。
「だから教師になったんだろう? そうしてここにいるんだ。ここまで来れたんだ。それだけで十分に意味がある。後はその過程で、君の中に何があるかだ」
しばらくすると、司馬懿が落ち着きを取り戻し、静かになった。盛男は彼女を解放すると、のそりと立ち上がった。
「彼らは海に出るだろう。君の力が必要になる。君にその気があるのであれば、あの時どうやって龍神様まで辿り着いたか、教えてあげるのもいいだろう」
そこで盛男は、唇をへの字に曲げて、頭を掻いた。
「だが私としては……君に口を閉じていて欲しいがね……これを機に、逃げようとする生徒が出ては……困るからな。それに君も、あれ以来カナヅチだろう?」
盛男は壊れたドアを押して、司馬懿の部屋を出て行こうとする。司馬懿は包まっているカーテンを投げ捨てると、盛男の名を読んで彼を引き留めた。盛男はドアを閉めようとした手を止めて、彼女を振り返った。
「わた……その……私! ど……どうすれば……私盛男が困るようなことは出来ないし……語部は私を……え? あ……教えてください!」
彼女の相貌は、親とはぐれた子供のように頼りなく、そして儚いものだった。自分が何処にいるのか、そしてどうしていいか分からず、誰かに縋りたくて仕方ない悲痛なものだ。
だが盛男はそんな彼女を見て、冗談を笑い飛ばすように言った。
「おいおい……今教員免許も無い事だし……上品ぶらなくてもいいんだよ? それに君も青春したことなかったんじゃないかな……一度は羽目を外さないとね」
彼は顎をさすって、考える仕草をする。そして何か思いついたように、天に指を立てた。
「久々に、派手にかましたら?」
盛男はそれだけ言うと、ドアを閉めた。