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昔々……  作者: 水川湖海
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20.転章の8

 文人は痛む頬を押さえながら、校舎前の崖下に降りていった。彼は詩舞姫が使っているものと同じタライを抱えている。これは文人が登山で用意した物の一つだった。


 崖下の浜辺は、酷く様変わりしていた。稚拙な桟橋は取り壊されて、かき集めた木材は回収されている。その残骸が微かに残っていて、哀愁を漂わせていた。しかし一から作っている余裕なんてもうない。


 文人は波打ち際に、タライを放り投げた。派手な水飛沫が上がり、タライは波に揺蕩い始める。文人は踏みつけるようにしてタライに乗り込むと、桟橋の残骸である木っ端を引っ掴んで、それをオールにして海へ漕ぎ出そうとした。


「待て!」


 照の声がした。そしてタライが浜へと引き戻される。振り返ると、照がタライの縁を掴んで、浜辺へと引きずり上げたところだった。


「照! 俺に構わないでくれ!」


 文人はがむしゃらに浜辺を突っついて、再びタライを海へ出そうとした。しかしオールの木は腐っていたらしい。湿った音を立てて折れた。文人はバランスを崩して、タライから落ち、波打ち際に倒れこんだ。


 照は倒れた文人の胸倉を掴み、無理やり立たせる。そして文人の顔を、自分の真正面に持ってくると、下手糞な日本語でがなり立てた。


「馬鹿! お前馬鹿! 死ぬのが怖い無いのか!? 死んだ終わりだぞ! 残る無い! それでいいのか!?」


 照の剣幕に、文人は俯く。


「怖ェ……」


 そして、自らの思いを吐露した。照はほっとしたように、胸を撫で下ろす。自暴自棄になっている訳ではない、死にたくて輝夜を助けようとしているのではないと、確信できたからだ。照は文人の胸倉を掴んだまま、崖の上へ引きずって行こうとした。


「一回。帰る――」


 それから輝夜を助ける策を練ろう――照は最後まで言うことは出来なかった。文人に胸倉を掴み返されたからだ。文人と照は、互いの胸倉を掴みあい、睨みあう形となった。


 文人は悲惨な表情をしていた。怒りで滾っていつつも、悲しみに暮れているような、無茶苦茶な顔だ。照は正視できなかったが、眼を反らすこともできなかった。だから上ずった息だけを吐いた。


 文人は照の胸倉を締め上げながら、喚き始めた。


「正直怖ェよ! でもそれは死ぬことにじゃない! 俺が俺自身に失望することが怖いんだ! あいつらみたいに失望して、何もしたくなくなって、ただただ時間が過ぎていくのが怖いんだ!」


 照は頭に来た。文人が自分を特別だと思っているからだ。照は文人の胸倉を掴む手に力を込める。


「思い上がるなクソヤロウ! 自分特別か!? 違い! お前因子に苦しい一人だろ! 俺同じだ!」


「違う! そうじゃない!」


 文人は否定の言葉と共に、照を突き放した。照も抵抗せずにあっさりと手を離す。そして文人が何を言うの待った。


 文人は限界だった。ぼろぼろと涙をこぼしながら、情けない声で言った。


「俺の人生にはあいつらほどの意味はなくて! それでもあいつらを終わらせたほど業が深くて! なのに何もできず、どうしようもなくなるのが怖いんだ! のうのうと生きるだけで、あいつらに無駄にさせた人生を、俺がさらに駄目にするのが怖いんだ! だから……だから……俺が終わらせた分、俺が意味も価値もあって、綺麗なことをしなくちゃいけないんだ!」


 文人が必死になった理由が、そこに集約されていた。この島に来てから、文人は伝承者で、彼の運命は、彼の意義は、それだけにあった。


「俺が……俺が……ちゃんとやれば……皆……きっと笑えるんだ……」


 文人の嗚咽が大きくなり、次第に言葉が不明瞭になっていく。


「俺だよ。俺がみんなをああさせた。俺だ。俺にしかできない事なんだ。俺。俺がやるべき事なんだ。俺! 俺……俺……俺……俺……」


 文人は泣くのを堪えるように、大きくしゃくりあげる。そして額に手を当てて、きつく目を閉じ、涙を封じるように努めた。感情の渦が引くと、文人は疲れ切った顔を上げた。


「もう……俺しか残っていないんだ……」


 文人はそう言うと、別のオールになりそうな木っ端を拾い上げた。そして浜に上がったタライを、波打ち際まで押し出してその上に乗った。


「もう行くよ……今まで……ごめんな……」


 文人は別れの挨拶として力無く照に笑いかけた。照は素早く文人の腕を掴んで、引き留めた。


「俺も。行く」


 照はしっかりとした眼差しで、文人の瞳を射抜く。文人は動揺しているようだった。それは照を少し悲しくさせた。だがこうなるまで踏み込まなかったのは、照本人なのだ。照はしがみ付くように、文人の腕を掴む手に力を込めた。


「今まで。都合よく。振る舞って。悪かった。だけど。今度は。もう逃げない。頼む。信じてくれ」


 文人はどう対応していいか分からなかった。このまま振り切って行くことは出来ない。そして共に行くこともできない。死ぬ可能性の方が高いのだ。タライはもう一つあるが、それを取りに行かせるのも、馬鹿げた案だった。


「責任、取りに来たよぉ!」


 坂から響子の声がした。崖の上から坂を走って、響子が降りて来る。彼女は文人たちの前まで来ると、膝に手をついて呼吸を整えた。


「好き勝手やって、痛い目見たけどさぁ……これからも好き勝手やるよぉ」


 響子は言うと、ムスッとして文人の乗るタライを指さした。


「行くのはいいけど、それでは絶対許さないかんね。手伝うから、頑丈なやつ一から作ろ。今度はシャレや冗談じゃないからぁ。私本気だから」


 そして響子は笑った。あの自分の為の、壊れた笑いではなく、文人を安心させようとする、温かい笑みだった。


 文人の思考は完全に止まってしまった。こうなることを望んでいたはずなのに、どうしていいか分からない。こう言った時何と言えばいいのか、彼は忘れてしまっていた。


「文人。頼む。俺たち。信じて。くれ」


 照はタライの上で棒立ちになる文人を、タライの外へと引っ張る。文人はあっさりとタライから降りた。


 文人は助けに来てくれた、照と響子を見ようと、彼らが立つ坂の方に視線を向けた。そして息を飲んだ。照と響子も文人の異変に気付き、同じ方を向く。そして驚きに眼を見開いた。


 崖の上では、クラスメイト達が、文人らを見下ろしていた。彼らは細い坂道の上に集まり、互いに押し合いながら、文人たちを窺っている。だが文人たちに気付かれると、気まずそうに視線を伏せた。


「見ていたのか……?」


 文人の問いに、クラスメイトは曖昧に頷いた。彼らはそのまま、しばらく待っていた。今までの様に、時間が全てを解決するのを待って、黙り込んだ。クラスメイトの一人が、時折身体を押し合って前に出ては、文人たちを見る。だが何の進展もないと、逃げるように引っ込んでいく。やがて誰かに突き飛ばされて、新藤が崖から海へ落ちた。


 新藤が派手な水飛沫を立てる。それを皮切りに、男子生徒が一人声を上げた。


「その……俺ら……」


 だがそれ以上の言葉は続かない。その男子は尻込みするように声を窄めた。


 だから文人は頼んだ。


「助けてくれるのか……」


 聞かれてクラスメイト達は、一斉に顔を上げた。そして各々が肯定の仕草――ある者は頷き、ある者は「ああ」と答え、ある者は腕を掲げて見せた――をする。そして文人たちを目指して走り始めた。その際人混みから鉄の棺がこぼれ落ち、皆に足蹴にされていった。


 やがて文人はクラスメイトに取り囲まれ、もみくちゃにされた。それは暴力の嵐ではなかった。憎しみから解放されたクラスメイトが、まともに文人と触れ合おうとしているのだった。


「八つ当たりしてごめん!」「伝承者だってばらすなら、必死になってた理由も言えよ!」「あんたの言う通りだよ! なら少なくともいいと思えることをやるよ!」


 クラスメイトが文人に語りかけて来る。そこで文人は何と言えばいいか、思い出した。


「ありがとう」


 それは大きな声ではなかったが、クラスメイト全員に届いた。やがてクラスメイトたちの騒ぎが収まっていく。彼らは支持を乞う様に、文人を見つめた。


「作戦を練らなきゃ。一回教室に戻ろう」


 文人の言葉に、全員が強く頷いた。騒ぎが落ち着くと、文人は自分と離れた場所に、数人クラスメイトが立っている事に気付いた。彼らはいわゆるクールな性質なのだろう。輪に加わることはなかったが、それでも思いは同じである事を示すように、文人たちを真摯に見つめている。その中で孔明が、何かに気付いたように、口元に羽扇を当てた。


 その場にいた全員は、孔明と同じ方角に視線を重ねる。そして「あ」と、短く呻いた。


 視線の先では、新藤が波にさらわれ、沖へと流されている最中だった。


「助けないと!」


 文人はタライに乗り込もうとする。それを止めたのは、僧兵の格好をした、毛深い男子だった。彼は孫護平といい、西遊記の因子持ちだ。未だに天竺で新たなお経が書きあがったり、修正版が出たりすると、お経を取りに行かなければならないそうだ。


 護平は手でひさしを作って、冷静に――というより、面白そうに海面でもがく新藤を眺めた。


「海では絶対に死なないから大丈夫だ。シンドバットの因子は『異界流し』と言って、航海に出ると、一定の確率で酷い遭難をする。そして異界に流され、冒険をすることになる。今行ったらお前も巻き込まれるぞ。だから帰って来るまで待て」


「冒険で死ぬかもしれないんだろ!」


「船に乗ってないし、そう遠くには流されんよ。大丈夫だろ」


 護平は落ち着かせるように文人の肩を叩く。文人は釈然としないものを抱きながらも、タライから降りた。


 遠くの海面では、豆粒ほどになった新藤が、必死で砂浜に戻ろうとしている。だが新藤の背後で、海が盛り上がった。そして海面を突き破って、巨大な蛸の足が天に伸びた。


「うわぉ。クラーケンだ。あれ何代目だっけ?」


 成り行きを見守っていた響子が、誰にという訳でもなく聞いた。たまたま隣にいた『ジャックと豆の木』の因子持ち、植木ジャックが答える。彼は中世の農服を纏い、腰には豆の入った巾着を吊るしている。


「確か四代目。昔の伝承者で、あれを二回も倒した化け物がいたんだよな。だから俺らもお前が強いと思っていたんだけど」

 ジャックは何か期待するように、文人に流し目を送る。だが文人は偉大な先祖に委縮する事しか出来なかった。


「二回……二回もか……」


 そうこうしている内に、海では新藤が捕まった。何本もの足が新藤に絡みつき、ぐいぐいと海中に引きずり込もうとする。さしものの新藤も、もう因子に身を委ねるしかないと悟ったのか、もがくのを止めた。そして浜辺にいるクラスメイトに敬礼をした。クラスメイトたちも、直立不動でその敬礼に応える。


 新藤は皆が見守る中、少しずつ海中に沈んでいった。


 どこからか、トランペットの奏でがする。ファウストがいつの間にか現れ、浜の大岩の上に立ち、トランペットを一心不乱に演奏していた。曲題は賛美歌「主よ御許に近づかん」だった。


「その曲はヤメロ。洒落にならん」


 清音はファウストに駆け寄ると、その手からトランペットをもぎ取った。

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