18.転章の6
これ以上ここにいてもどうしようもない。文人は立ち、寮へと帰る事にした。盛男は文人が立つのを支える。そして文人が坂を上がっていくのを、じっと見送った。
文人は呆然自失のまま、崖上まで辿り着く。途端に敵意の乗った視線が、矢の嵐の様に降り注いだ。それは学び舎の窓から、正面玄関から、寮の窓から飛んでくる。あれだけ無関心だったクラスメイトの関心、そしてやりきれない思いのはけ口が、一斉に文人に向けられているのだ。
文人は委縮した。逃げるように、速足で寮へと向かう。文人は一刻も早く、自室に逃げ込みたかった。校舎の東に向かい、そこに立つ×型の建造物に入る。
そこで文人はファウストと出くわした。ファウストは盛男からもらったボトルに口をつけて、ラッパ飲みをしている最中だった。それはファウストらしからぬ下品な飲み方で、燕尾服とその前掛けには、ボトルの内容物がこびり付いており、ドリアンの強烈な臭気を放っていた。
文人は思わず腰を引き、ファウストから距離を取る。そしてファウストを避けて、寮の壁沿いに中に入ろうとした。ふと。文人の心に魔がさした。ファウストは奇跡を起こせる。それに縋れば、一発逆転もあるかもしれないのだ。文人はジュースを浴びるようにして飲むファウストに声をかけた。
「ファウスト……あの契約の話だが……」
「駄目です」
即答だった。今までのアプローチが嘘のように、ファウストの態度は冷たかった。彼は大きなげっぷをして、ボトルを懐にしまい込む。そしてぞんざいな目で文人を見た。
「契約をしたものの命が果てるまで、私はその方に仕え、共に旅をすることになるのです。今の貴方のような、陰気臭いお方は、私から願い下げです。私はサタデーで、ナイトで、フィーバーしたいんですよ。今の貴方に何があるんですか?」
ファウストはポケットからハンカチを取り出して、埃を払うように服を擦った。それだけで服の汚れは綺麗に落ちて、ファウストは普段の佇まいを取り戻す。それから彼は、値踏みするように、文人を不躾な眼で見た。そして口の端を歪めて笑うと、肩をすくめて見せた。
「何もないでしょう? という訳で却下です」
ファウストはそれっきり文人に興味を失ったようだ。戸惑う文人を取り残して、寮内へと引き上げていった。残された文人は、もう怒る気にもなれなかった。
「惨めだ……」
文人は項垂れながら、自室へと向かった。部屋に入ると、しっかりと鍵をかける。そうしないともう落ち着けない。だが鍵をかけたところで落ち着けない。部屋には文人が打ち込める物が、何もないのだ。あるのは生活必需品だけ。数着の衣服。見たくもない教科書。カバンが一つ。布団、椅子、棚、机、そして卑猥な本が一冊。そして男が一人。自分が自分足るために、何もできない惨めな男が。
文人はベッドに倒れ込む。そして仰向けになり、天井をぼぅっと見上げた。全身から力が抜けていき、走馬燈の様にここに来てからの記憶が駆け巡っていった。この島に来て、喚き散らした。無駄だと分かると青春をしようとした。詩舞姫と出会って、照に助けられ、響子に振り回され、ファウストに付きまとわれた。楽しい記憶もあれば、苦々しい記憶もある。だが幸せだった。楽しい記憶だけを抜きとっても、苦々しい記憶を消し去っても、幸せにはなれない。全てをひっくるめて幸せな時間で、その記憶には必ず誰かが存在した。
文人は本棚にある、『堺島ニテ』を手に取った。そして古さのわりに、綺麗な本を適当にめくっていった。この本の著者は、堺島を知り尽くしているようだ。時空の揺れや、それにより出現する異郷や法具が、地図に記載されている。しかも本自体が法具なのか、時刻によって地図の記載が、まばたきする合間にころころ変わった。他にも彼の者についての記述のあるページや、黒く塗りつぶされたページがある。謎の多い本だ。
文人は全てのページをめくり終え、奥付に至る。手製の本なのか、そこには出版社や、編集者の記述はない。代わりに署名欄が九つあり、そのすぐ下の空白に後書きのような物があった。
署名欄は七つが空欄で、一つには震える筆跡で、『うりあむ・てる』と記されていた。そして最後の一つには、『語部文人』と記されている。
語部文人――もとい語部章人の署名は、まるで後書きの為に書きこんだような位置にあった。文人はその文面を眼で追った。
『堺島ニテ、我コノ書ヲ認メン。我精魂、彼ノ者共トノ戦ヒニ尽キ果テ、是以上ノ伝承ヲ望メズ。故ニ此ノ書ヲ残シ、後続ノ礎ト成サン』
どうやらこの本の題名は、この後書きから取られているらしい。文字は達筆だが、仮名と漢字を組み合わせられて読みにくい。だがそこまで読むと、文人の顔に、自然と乾いた笑いが浮かんだ。
「もうどうしようもねぇよ……叔父さん……」
『是ヲ読ム我子孫ニ告グ。努々理想ノ為ニ、友ヲ蔑ロニスル事勿レ。己ガ無力ヲ、痛感スベシ。我コノ書ヲ認メシトキ、戦友コノ世ニ在ラズ。故ニコノ書ヲ友ト分カツコト叶ワズ』
「だからどうしたってんだ……お前さんクラーケンを仕留めて、英雄と殴り合うほど強かったんだろ? 俺と違って、一人で何だってできるんじゃあないか……独りで……俺は何もできない……」
文人は本を閉じて、虚しく息を吐いた。今までがむしゃらに頑張ってきたせいか、不意に睡魔が押し寄せてくる。文人はそれに抵抗せずに、深い眠りに落ちていった。
文人が目を覚ますと夕方だった。窓からカーテン越しに、朱い光が差している。文人は目を擦りながら、のそりと身体を起こした。結構な時間寝ていたはずなのに、身体は気だるく、頭の中は霧がかかったようにハッキリとしない。酷く憂鬱だった。
文人は気をしっかり持つため、頬を強く引っ叩く。しかし夢に溢れた自分は帰ってこない。それどころか自分の身体を叩いているのに、まるでぬいぐるみを殴ったかのような、虚しさだけが残った。心が腐り始めているのだろう。
「気分転換しないとな……」
無意識にそう独りごちる。だがここで出来る事は何もない。あるとすれば堺島ニテで紹介されている、スポットを観光することくらいだ。文人はそれでも何もしないよりましだと思った。ベッドを降りると、部屋を出る。待ち受けていたかのように、敵意が文人を包み込んだ。廊下では数人の男子が待ち構えており、今にも飛びかかって来かねない勢いで、文人を睨んでいる。文人は再びリンチに合う前に、足早に寮を出た。
文人は頭の中で、本の内容を思い返す。現時刻は夕刻で、場所は学校周辺だ。その近くで気分転換が出来そうな場所は一つしかない。文人は裏山へと続く坂を上り、森の中に入っていった。茂る枝葉をかき分けて、目的地へと続く獣道を歩く。歩きなれた道で、文人は道を遮る枝を、すいすいと躱して進んでいく。やがて視界が開け、小さな広場に辿り着いた。三面を森に囲まれ、残りの一面に、未踏の大地へ繋がる荒野が広がっている。荒野への入り口付近には、小さな丘があり、土をくりぬいてごんの秘密基地があった。
詩舞姫に連れられて、輝夜に出会った場所だ。文人にとっては、ここが全ての始まった場所だった。
文人は未踏の大地の方を向くと、広場の中央に腰を下ろす。そして荒野に吹く風を眺めた。荒野には何もない。荒れた大地が延々と続き、申し訳程度に枯れ木や雑草が生えているだけだ。しかし文人の第六感は、未踏の大地に見えない何かを、敏感に感じ取った。まるで空間が揺らいでいる様な不思議な感覚が、未踏の大地から伝わって来る。やがて堺島ニテに記された時刻が近づくと、違和感は増大し、空間は目に見える変化を始めた。
風が荒野の砂を、砂塵と巻き上げる。すると砂の下から、あたかも埋もれていたかのように、若草が顔を出した。同じ要領で、空間自体も風に流されていく。先ほどまで見えていた景色は、霧が晴れるように失せていき、代わりに壮大なる幽谷を露わにした。
中国仙界。その入り口だ。
幽谷には霧がかかり、神秘的な霞を身に纏っている。霞からは霊長と思しき、白く大きな鳥が飛び出したり、その中に消えたりしていた。幽谷の隙間には川が流れており、真っ直ぐ文人の方に伸びてきている。だが川は未踏の大地と、この広場の境界線で、ぷっつりと切れていた。川の途切れは一見、不自然そのものだが、境界を見つめても違和感が湧かない。まるでリアルな掛け軸を眺めるように――掛け軸とその背景を、異世界とこの世界を対比するように、冷静に判断することができた。
「綺麗だな……」
文人は荘厳なる神の大地に、心を奪われる。普通に生きていては、まずお目にかかれない絶景だ。
だが……それだけだ。
感動は一瞬にして醒め、再び暗い気分が文人を支配した。この神秘は文人を癒してくれない。文人を励ますように、霞の中から竜が首を出す。川から仙桃が流れて来る。仙女が谷の頂に立つ。それでも文人の気は、晴れなかった。
やがて未踏の大地の空間が揺れる。霞が風に吹き散らされ、幽谷が蜃気楼のように歪んでいく。そして一陣の強風が吹きつけると、まるで幻の様に幽谷は消え去り、荒野だけが残った。
寂寥とした荒野を前に、文人は酷く陰鬱な気分になった。文人は美しい仙界の景色を見た。しかしそれを共有する者がいない。するとあの景色も、感動も、経験も――全てが幻で、景色と共に消えたように感じてしまった。そして感動も経験も消えると、自分の意味すら消えたように思えた。そうなると、何もかもが空しく感じた。
文人は章人が病んだ理由を悟った。そしてこの島に巣食う倦怠感の正体を見破った。
「綺麗だけど……それ以外何もなかったんだ、誰もいなかったんだ……だから楽しむことも……苦しむことも……出来なかったんだ……何も感じることが、出来なくなってしまったから……檻島に行くことにしたんだ……もう心が死んでしまったんだ……この島の住人と同じだ」
敵の正体を見た今、それを打破しなければならない。誰かと付きあって、笑って、悩まなければならない。だが文人はすぐに首を振って否定した。
(いや――ならない? そんな不自然な付き合いがあるか! 打算で付きあうのか!? 目的の為の道具とするのか!? 事が済んだら付き合いも終わらせるのか!? それは違う! 違うだろ! 連合国と枢軸国が、戦争に英雄を使うのと変わらない。俺の戦いに英雄を使おうとしているだけだ!)
ならば健全な付き合いとは何か。どうすればこの戦いに、英雄を参加させることが出来るのか。そもそも言葉遊びをしている時点でおかしいのではないか。文人は複雑かつ無意味なロジックの迷路に落ち込んでいった。
森の方から、木が揺れる音がした。文人の頭から、考え事が吹き飛ぶ。彼は抱えた頭を上げると、音のした方を向いた。そこでは丁度、森の中からごんが出てきた所だった。
ごんはまた神隠しに会されたのか、散々な出で立ちだった。緋色の着物は泥で装いを新たにし、蜘蛛の巣と葉っぱで装飾が為されていた。更に袖には、木の枝が何本か刺さっている。まるで高所から、木の枝の中に飛び降りたようだった。ごん自身もかなりやつれていた。頬は少しこけ、顔は青ざめている。そして飛び跳ねるほど元気な彼女は、無残にも足を引きずって歩いていた。
ごんはさめざめと泣いていた。両手の甲で目を擦りつつ、低い嗚咽を上げている。俯いているせいで、文人には気づいていないようだ。彼女は寂しげな足取りで広場を横切って、秘密基地へと歩いた。
「ごん」
文人は名前を呼んだ。ごんはびくりと肩を跳ね上げて、首を巡らした。そして文人の姿を認めると、表情を憎悪に歪ませた。
「あっち行け! みんなお前のせいだ! お前が来たからお姉ちゃんが連れていかれたんだ!」
どうやら文人が伝承者だという事は、島中に知れ渡ってしまったらしい。文人は向けられた激しい憎悪に一瞬怯んだ。だが自らを奮い立たせ、留まった。
怖気づいていても仕方がない。逃げ場なんてとうに無い。傷つくことを怖がっても始まらない。文人は英雄に対する怖気や負い目を、捨てる事にした。立ち上がり、ごんに歩み寄っていく。ごんは堂々とした文人の振る舞いに、怒りを滾らせた。
「こっち来るな!」
ごんは足元の石を拾って、文人に投げつけた。石はろくに狙いを定めてないため、明後日の方に飛んでいく。だが石の一つが運悪く、文人の頭に命中した。文人は激痛に頭を仰け反らせた。鋭い痛みに、患部に手をやる。額の右側が切れて血が出ていた。
「あっ……ごめ……」
ごんは流血に驚き、石を投げるのを止めた。あっという間に怒りが醒めて、彼女は自らの行き過ぎた行いに戦慄き始める。文人は歩みを再開すると、ごんの前で足を止めた。
ごんはきつく目と両の手を閉じて、視線を伏せている。逃げないのは、彼女も心身と共に疲れ切っているからに違いない。文人とは違う方法で、輝夜を救い出そうとしたのだろう。
文人は労わる様に、ごんの頭に手を置いた。仕返しを想定していたのか、ごんはびくりと身体を震わせる。だから文人は、できるだけ優しい声を出そうと努めた。
「悪戯する気持ちが分かったよ……こう皆が構ってくれないと、独りで寂しいもんな……」
「何も知らないくせに……私の気持ちなんか分からないくせに! どうせ次のチャンスがあると思ってるんでしょ! 輝夜姫はまた生まれるんだから! 次成功すればいいと思ってるんでしょ!」
ごんは全身を緊張させる。そして小さいが、弦が切れるような金切り声を出した。心を掻き乱す幼子の悲鳴に関わらず、文人はほっとした。何故ならこの島に来て、やっとまともな心に触れる事が出来たと感じられたからだ。
「助けたいのは輝夜姫じゃない。竹取輝夜だ。一緒に登山してくれた、クラスメイトだ」
ごんがきつく握りしめる手から、少し力が抜けた。文人はクシャクシャっとその頭を撫でた。
「すぐに輝夜を連れて帰る。絶対助けるから。お前は少し休め」
ごんはその言葉を聞くと、身体の力を抜いた。そして文人にしがみ付くように抱き付き、堰を切ったように、激しく泣き始めた。
「今まで良く一人で頑張ったな」
文人は溜まったものを全て吐き出させるように、ごんの背中を撫でた。ごんの瞳からボロボロと大きな涙が溢れた。
「しょうがないじゃん。みんなどうでもいいと思ってるんだもん……独りで頑張るしか……どうせ新しい輝夜姫が来るから、どうでもいいと思ってるんだもん……でもそれ……お姉ちゃんじゃ無いんだ……わたしの事知っている、私が知っている、お姉ちゃんじゃないんだ」
ごんは激しい嗚咽に、言葉を詰まらせながら言った。
「絶対助けるよ」
文人はそう言って挑むように天を見上げた。辟易した心は滾りを取り戻し、新たな決意に燃え上がり始めていた。




