2.起章の2
青い海が、何所までも延々と続いていた。面白みに欠ける青一色という訳ではない。小波が陽光を反射し、白い波紋を時折見せて、海に縞模様を作り上げている。海は内包する生命を息吹かせるように、大らかにうねっていた。
海と同じように蒼い空が、果てしなく悠久に伸びている。空には雲が千切れており、太陽に白く輝いている。雲は凪の中、亀のようにのそりと蠢き、その姿を様々に変化させていた。
都会では見る事の出来ない、神秘的な美しさだ。だが文人はその青と白に挟まれても、憂鬱な気分を晴らせずにいた。
文人は輸送船の甲板から、気を紛らわすように自然の神秘を見ている。だが景色は、日本から追放されたという惨めな現実を、文人に突き付けるだけだった。文人はもう何度目かもわからない溜息をついて、欄干に腹を預けて寄り掛かった。
ここは日本列島の南方。野崎島、小笠原諸島、グアムを結んだ、三角海域の中である。この三角海域は、俗にドラゴントライアングルと呼ばれ、昔から超常現象が起こることで有名な場所だ。旧日本軍の戦闘機が消息を絶ち、漁船が何艘も行方不明になっている。船はそんな魔の海域を、悠々と進んでいた。
「何なんだよ一体……国際法立伝統学園て……本当にこんなとこに学校があるのかよ」
登校初日、文人は黒服の男たちに拉致され、近くの裁判所に連行された。そこでは政府関係者と思しき黒服が数人と、裁判官が待ち構えていた。文人は必死に、自分の身に何が起こったのか、聞きだそうとした。だが英雄権とやらには、発言権はないらしい。発言をことごとく無視され、進行の妨げになる程喚くと、スピーカーで騒音を鳴らされた。文人は黙って、裁判官の判決を受けるしかなかった。
判決は日本国籍の剥奪と、ドラゴントライアングルにある孤島、境島への強制移住だった。
あれよあれよという間に、文人はこの船へと連れて来られた。そして文人の家族が用意してくれた荷物を、黒服が船に積み込むと、島に向けて出港した。それが昨日の夜だ。
最初文人は酷く陰鬱だった。息子の自分が訳の分からない事態に巻き込まれていると言うのに、家族は助けに来ず荷物だけを送ってよこしたからだ。心の何処かから、捨てられたという、負の感情が湧き上ってきた。文人は与えられた個室の隅で、いじけていた。だが黒服は蹲る文人に、一通の手紙を見せてくれた。それは母からの手紙で、涙を吸ったのか、斑点状の染みで歪んでいた。
「文人君。君と家族の尊厳を守るため、この手紙の存在だけは知らせておく」
そう言って黒服は、文人の目の前で手紙を燃やしてしまった。
そこでようやく文人も、抗う事の出来ない、運命の濁流に飲み込まれたのだと悟った。腹を決めて、いじけるのをやめた。とはいえど……具体的な話を聞かされず、昨晩からずっと船に揺られていると、不安が鎌首をもたげてくるものだ。
きぃと、文人の背後でドアの開く音がした。振り返ると船内から、黒服が一人出てきた所だった。彼は真っ直ぐ文人の所まで歩いてくると、親指で船内を指した。
「文人君。中に入りたまえ。そろそろ海が荒れる」
「え? でもこんなにいい天気ですよ?」
文人は意外そうに空を見上げる。空には僅かばかりの雲が、細く糸のように伸びるだけだ。海を荒らすような、厚く黒い雲はどこにも見当たらない。文人としては出来れば外に居たかった。個室なんかにいたら、文字通り腐ってしまう。だが黒服は首を振った。
「もうすぐ龍神様がいらっしゃる。そうなると、嫌でも海は荒れてしまうんだ。それに君を見せたくない。龍神様は、子供が英雄機関に送られるのに、酷く心を御痛めになる。そうなると一週間は海が荒れてしまうんだ。無用な被害を出さないためだ」
龍神様。黒服が口にした突拍子もない単語に、文人は目を丸くした。
「あの……今龍神様って言いました? あの竜宮の主と言われている……?」
黒服は当然そうに頷く。彼は当たり前のように、おとぎ話の存在を認め、それが常識のように話を続ける。
「そうだ。今の因子持ちは女性だがな――何が何だか分からないって顔をしているな。詳しくは伝統学園の校長に聞くといい。残念ながら私の口から多くを語ることは出来ないんだ。それにだ――」
黒服は、質問を浴びせかけようとした文人を手で押しとどめ、語尾を強めて黙らせた。
「気分を悪くするだろうが、なるべく君と話したくない。巻き込まれたくないんだ。子細を語ることは出来ないが――その……自重してくれ」
黒服ははっきりと、文人の事を拒んだ。文人は人としてではなく、荷物のように扱われ、怒りを覚えた。両手が力強く握られ、軽く震える。だが彼が腹の内に溜め込んだ、怒りや不平は、口を出る事はなかった。黒服は明らかに文人に怯えて、腰が引けていたからだ。嘲笑を浮かべ高飛車な態度をしているならまだしも、最低限の礼節を尽くす彼を、怒鳴る気にはなれなかった。
思い返せば、他の黒服は文人を徹底的に無視したが、この人だけは手紙の存在を知らせてくれた。それにさっきの龍神の話も、話せる範囲で納得してもらいたかったから、わざわざしてくれたのだろう。決して悪い人ではないのだ。
文人は大人しく船内へ入ることにした。割り振られた個室に入り、ベッドの上に腰かける。室内にはベッドと、壁に固定された机が一つ。そして黒服が持って来た、文人の旅行カバンしかない。調度品はなく、海が見えるはずの丸窓は、ビニルカバーと接着剤で、しっかりと封がされていた。
することが無い。あの空と海が、どれだけありがたかったか改めて実感する。文人は暇を持て余し、しばらく目の前で組んだ手を、すり合わせていた。やがて、黒服の言った通り、海が荒れ始めた。先ほどまでの静けさが嘘のように、船は次第に揺れ始め、雨風が丸窓を叩く音がし始める。文人の荷物は揺れを堪えることが出来ず、船内の床を転がった。文人は慌てて旅行カバンを、膝の上に抱え込んだ。旅行カバンは楕円形の袋の形をしており、コーヒー豆の割れ目のようにジッパーが取り付けられている。文人が中学生の頃から愛用している品だ。
「そう言えば……何入ってんだコレ……」
文人は現実を認めたくなくて、出来るだけ荷物を避けてきた。だが今となっては、これが文人の全財産なのだ。文人はごくりと生唾を飲むと、ジッパーに手をかけて、勢いよく開いた。
まず目についたのが衣服類だ。シャツとパンツが七着ずつ、普段着が三着ずつ、そして制服が一着だ。制服は本来通うはずだった高校の物で、綺麗にアイロンで均されていた。
「ありがたいんだけど……今となっちゃ嫌味だな」
文人は苦笑いを浮かべながら、制服を鞄から取り出す。すると服の端に、それが引っ掛かっていたらしい。カバンの中から、一冊の本がこぼれ落ちた。
その本はピンク色の表紙で、胸を強調する可愛らしいキャラクターが描かれている。彼女は熱に浮いた瞳で読者を見つめており、火照って上気した身体を冷やすように、まとう着物を着崩していた。題名は『乱れ巨乳、ふわふ和風ゥ~』とある。
「えええええええええええ! 何でココにあるのぉぉぉ! オカシイでしょぉぉぉ!」
文人は膝の荷物を放り投げて、床に転がった本を、掴むようにして持ち上げる。
これは確か、黒服に捕まる三日前に購入し、部屋の天井裏で保管していたものだ。それがどうしてここにあるのか、文人には理解できない。文人は取り乱しながら、外装を確認する。まだ読んでいないはずなのに、ビニルの梱包が剥かれている。開けたばかりなのか、本には汚れはなく、帯も綺麗なままだった。
「何で開いてるんだ……親父か? 親父なのか?」
文人は表紙から背表紙に向けて、ぱらぱらとページをめくった。紙面では和服の女性が踊り、次第にあられもない姿で、組んず解れつし始める。特に変わったところはない。そして全てのページをめくり終えると、裏付けに『国際連合英雄機関――検閲済』と判が押されていた。
「らめぇぇぇ! 検閲しちゃらめぇぇぇ! しかも通ったぁぁぁ! ヤベェぇぇぇ! こんな気使いいらねぇぇぇ! どうせならゲーム機寄越せえぇぇぇ!」
ぐらり、と船が大きく揺れた。文人は驚いて、本を握りしめたまま顔を上げた。船体に大きな波が叩きつけられたようだ。雨風の吹き付ける音が、一段と激しくなる。風切りの音に混じり、稲光が空を切り裂く音もし始めた。揺れも大きくなり、船体はブランコのように揺れた。どうやら黒服の言っていた通り、海が荒れているようだ。
そして、その声が響いた。
『待てぃ。ここは国際連合の直轄地じゃ。如何なる国、祖織も、証無しにここを通る事はまかりならぬ。証を示せ。でなければ去ね』
不思議な声だった。声の主は静かに、落ち着いて語りかけている。耳に染みるような、優しい女性の声だ。それは雨風や稲光の轟音にかき消される事無く、天啓を授かったように、船内にいる文人の耳にすら届いた。文人は声の主が室内にいると錯覚し、慌てて首を巡らせる。しかし人影はなく、自分一人がポツリと座っているだけだった。
「龍神様。番号1145141919番の、新しい住人です」
看板から、黒服の叫ぶ声が聞こえる。こちらはスピーカーで拡声されているのか、ノイズが混じっていて、戸板を隔てる事でくぐもって聞こえた。
『そうかえ。今確認する……ホ、番号は良し、証もあい違いないな。よかろ。通れ』
竜神と呼ばれた声はそう言う。黒服は軽く挨拶を返し、操舵室に船を進ませるように伝えた。
『また童かえ?』
龍神様が問いかけて来る。心なしか、嵐が強まったような気がした。慎重に言葉を選んでいるのか、黒服の声はしばらく聞こえなかった。しばしの沈黙を置いて、彼はゆっくりと嵐の中、ぎりぎり聞こえる声で呟いた。
「お聞きにならないほうが宜しいかと」
船が大きく揺れた。文人はベッドから投げ出され、床にうつ伏せで倒れこむ。同時に雷鳴が間近に聞こえ、聴覚が一瞬狂った。
『早う去ね』
文人が目を白黒させて、這うようにしてベッドに戻ろうとする中、そんな声が耳朶を打った。文人はベッドの手すりにしがみ付き、天井を睨むようにして見つめた。恐らく未知との遭遇をしたのだ。身体が震える。黒服は慣れているようだが、文人は違う。この先何が起こるのか分からない。島に行くと言っていたが、ひょっとすると海の中にあるのかもしれない。もしかしたら、空に飛ばされるのかもしれない。不安が腕に力を込めさせ、手の平を汗ばませた。
文人の不安を余所に、波は次第に引いていく。そして凪が息を吹き返し、船はまたゆったりと漂い始めた。
「一体……何が……どうなっているんだ?」
龍神と呼ばれる超常的な存在が、嵐を起こしていたとしか考えられない。まるで御伽噺の中に迷い込んだようだ。だがここは現実だ。黒服が現実から、この世界まで連れて来たのだ。文人は得体の知れない世界に連れて来られて、言葉を失った。
ドアがノックされた。文人は驚いて跳び上がる。同時に黒服がドアの隙間から顔を覗かせた。
「文人君。もう外に出てもいいぞ――」
黒服はベッドに蹲る文人、床に散らばる荷物を見て、口元を引きつらせた。嵐で怖がらせたと思ったのだろう。一瞬の躊躇いの後、彼は部屋に踏み込んでくる。そして荷物に混じる、ピンク色の本を、爪先で蹴飛ばした。文人と黒服の視線は、同時にその本に向いた。そして二人は一緒に凍り付き、その場を気まずい沈黙が支配した。
「すまない。私としたことが……外にいるよ」
黒服はそそくさと部屋を出ていき、後ろ手にドアを閉めた。
文人は絶叫した。そして弁明するために、黒服の背中を追いかけた。
「ちょっと待って下さい! 誤解です! こんな状況でナニするほど、俺の胆は座ってませんよ! あれは家族がなぜか詰めてくれたんです! 何でか分からないけど隠し場所――いやそうじゃなくてッ!」
文人は甲板への階段を駆け上り、黒服の注意を引こうと声を大きくする。だが一変した外の景色に、彼は喋るのを忘れた。
黒服は背中で手を合わせて、振り返らぬまま文人に言った。
「見えるだろ。あれが境島だ。君はこれからあそこで生きる事になる」
島が見えた。いつの間にここまで接近していたのだろうか。文人の視界に収まらない大きな土の塊が、目の前の海に浮いている。港付近で作業をする漁師との縮尺から、島が大きい訳ではなく、船が島に近い事が分かった。島の大きさは目測で、野球ドームほどだった。
浜辺には港町が展開している。町は浜辺の縁をなぞる道路という段差で、階段状に区切られていて、全部で三段あった。道路は所々が階段で、上下に繋がっている。しかし車が通れそうなのは、街を区切る道路だけのようだ。そもそも車なんて見当たらない。あるのは荷車だけだ。ほとんどの建物が民家で、二階の窓から布団が干されている。商店らしき看板を掲げるものは、片手の指で事足りるほどしかなかった。
市街地は、恐らくここだけなのだろう。島の中央には鬱蒼と生い茂る森があり、ひび割れた道路がぐるりと囲んでいた。森は人の手が入った様子は無く、人の気配すらしない。鬱蒼と生い茂り、外目から見るだけでも、その懐と内包する闇の深さが感じられる。
ド田舎だ。文人の頬が引きつる。ここにはパソコンもネットもないだろう。こんな娯楽も何もない所で生きていけるのか、甚だ不安だった。
船が浜辺から伸びる、桟橋に横付けされる。桟橋は広い浜辺の三分の一を塞ぐように展開されており、文人から見て右手の方にずっと伸びている。そして桟橋の端と思われる場所には、古びた灯台がそびえていた。
文人は灯台へと視線をやるとき、桟橋に船をつけて作業をする漁師を、何人も眼で撫でた。彼らは今朝方の漁で獲った魚を、黙々と木箱に詰めている。そこに漁師特有の覇気は感じられない。まるでロボットのように、ただ作業に没頭している。漁師は全員、桟橋についた文人の船に気付き、虚ろな目で文人を見た。文人は会釈で挨拶したが、漁師たちはそそくさと眼をそらし、自分の仕事に集中した。
(なんか酷く活気が無いな……誰か死んだのかな?)
文人は他の人影を探して、市街地に視線を走らせる。目につくのは、生気のない大人たちだ。虚ろな目で、ただ有り余る時間を使うように、各々の仕事をしている。布団を叩いたり、洗濯物を干したり、店を開けたり、農具を担いで出かけたり。それは見慣れた情景だが、あまりにも静かすぎて、異質だった。
「子供の姿が見えませんが?」
「島の南――ああ失礼。我々から見て左の方に校舎がある。そこで寮生活をしているんだ。さ、荷物をまとめてきたまえ」
黒服は船を桟橋に、ロープでつなぎながら文人に言った。文人は慌てて踵を返すと、船内に戻って、散らばった荷物をカバンの中に押し込めた。ピンク色の本は少し迷ったが――置いていく方が問題だろう。下着に包んで鞄の中に入れる。
文人が荷物をまとめ終えて船から出て来ると、黒服は文人の背中を押して、船から降ろさせた。文人が桟橋の痛んだ板に足を乗せると、それは酷く軋んだ音を立てて、文人を脅かした。
「文人君、中央の森には入っては駄目だ。神隠しに会うからね。龍神様にあった君ならわかるだろ? 洒落や冗談でこんなこと言っている訳ではないと。この島にはそう言った不可思議が起こるから、まずは南の校舎に向かいたまえ」
黒服は他人事のように言う。実際他人事だろうが、文人はこのまま島に入りたくなかった。
「すいません。やっぱり教えてもらえませんか? ここって一体――」
文人は船を振り返った。目に入ったのは、黒服が桟橋に結んだロープを解いて、海に乗り出そうとしている姿だった。
「では文人君。これからの君の健やかなる生活を祈っている」
黒服は文人に手を振った。船がエンジン音を発し、次第に加速していく。文人は唖然としていた。やがて我に返ると、カバンを放り出して、桟橋から離れていく船を追った。
「えっ、ちょっと待って下さい!」
必死の形相で追う文人に、黒服は笑いかける。
「本の事は誰にも言わないよ。安心してくれ」
「ばっちり検閲された後だよボケェ! そうじゃなくて案内してくれないんですか! すごく心細いんですけど!」
「ここには英雄権を持つ者しか立ち入ることは出来ない。我々の様に、人権で守られた人間は、保証の対象外なんだよ。我々にできるのはここまでだ。それと多分、迎えがいるんじゃないかな? その場で待ちたまえ」
桟橋が終わりを迎え、文人は止まらざるえなくなった。船はしぶきを上げて走り、どんどん文人の手の届かない、青の霞の中に消えていく。
「ふざけんなバカヤロー!」
文人は唯一届く声を大にして喚くと、船が残す波の軌跡を、未練がましく見つめていた。一分も経たない内に、派手なエンジン音は聞こえなくなり、船の軌跡も波に飲まれて消えた。そして静寂に、小波とカモメの声が満ちた。
文人は助けを求めるように、作業を続ける漁師たちを見る。だが漁師たちは、我関せずと言った様子で、使った網を干す作業をしていた。
迎えが来るまで待つ他なさそうだった。文人は覚悟を決めて島に向き直り、荷物に手を伸ばそうとして――固まった。
「あ」
文人の荷物を、子供が覆いかぶさるようにして、抱え込んでいたのだ。
「あ」
その子供も文人に気付き、そんな声を出した。奇妙な少女だった。髪は動物の綿毛の様な、ふさふさの金毛で、頭には狐の耳がひくひくしていた。かなりの童顔で、歳は幼稚園児ほど。背中には体で隠しきれない、大きくもっこりとした尻尾が、ゆっくり左右に揺れている。それは着つけている、きめ細やかな美しい赤の着物を、より栄えさせていた。