16.転章の4
翌朝。文人は寮の食堂で配給の握り飯を貪り、一度部屋に戻って身支度を整えた。洗面所の鏡に映る顔は冴えなくて、疲れ切っている。肉体は連日の作業に音を上げ始め、心は無力感に荒みつつあった。文人は自身を蝕みつつある無力感を追い払うため、頬を両手で強めに叩く。そして学校に向かった。
文人は独りで登校した。とても照を誘う気にはなれない。見せかけだけの付き合いは意外と気を遣うものだし、見せかけと分かった今、執着する気も無かった。そして教室に着くと、机に膝を立てて、物思いに沈んだ。
(海も駄目、陸も駄目、空は飛べない。じゃあどうする? このままだと、このままだと……)
焦りが心臓を鞭打つ。文人の視線は、自然と輝夜の席に向いた。その席には、彼の者が来て以来、輝夜は座っていない。椅子には薄っすらと埃が積もり、机の上には花やお別れカードが何枚か置かれている。クラスメイトはこれで輝夜の問題が、美談で終わると考えているらしい。だが文人に言わせれば、最低のイジメと同じだった。
「文人さん」
文人は不意に声をかけられた。顔を上げると、一人の女子が、文人の席の前に立っていた。背丈が文人の腰ほどしかなく、あどけない顔をしている。しかし眼つきは鋭く、先端の尖った錐のようで、身に纏った中国の礼服を着こなしていた。
文人は彼女に見覚えがあった。
「三国――孔明だっけ? 司馬懿先生の妹の……?」
「ええ。碌に挨拶もしていないのに、覚えて頂いて光栄です」
彼女は慇懃無礼に言った。実は三国家は三人姉弟で、中等部にもう一人、陸遜と呼ばれる三男がいる。文人の聞いた話によれば、彼らは三国志の因子を持った英雄だそうだ。三国家に生まれた三人の秀才は、決して志を同じにすることはなく、大陸を割る争いを引き起こす。そのためかなり初期の段階から、堺島に収容されているらしかった。元の契約は歴史に埋もれて判然としないが、より強力な国家を創ったり、国の腐敗を防ぐためなど諸説がある。今では運動会を、疑似的な戦争に扱い、平和的に因子の定めを消化しているのだそうだ。
「司馬懿先生に、あれだけ誇らしげに授業されたらな」
文人が忍び笑いを漏らす。だが孔明は面白くなさそうに、口をへの字に曲げた。
「馬鹿な姉の事はどうでもいいです。実はクラスの皆でお話があります」
突然の事に、文人周囲を見渡した。いつの間にかクラスメイト全員が、輪になって文人を取り囲み、視線を注いでいた。
文人は一瞬淡い期待を抱いた。英雄たちが手伝ってくれる事を願った。それならばもっと状況は良くなる。だが英雄たちの眼は、あの空虚に魅入る虚ろな眼のままで、文人の希望を粉々に打ち砕いた。文人は表情を取り繕う余裕が無かったので、露骨に顔をしかめた。
文人の反応に、クラスメイトの半分が同じように顔をしかめる。残りの半分は、文人から視線を反らした。しばらく文人とクラスメイト達は睨みあう。やがてクラスメイトの中から、ジュラキュリオが進み出る。文人は彼の顔を初めてまともに拝んだ。青い顔に気だるげな表情をした、まさに吸血鬼と言った男だった。
ジュラキュリオはまず、深く、重いため息をついた。そして重い口を開いた。
「なんで輝夜を助けたい? どうしてそこまでする?」
「俺がそうしたいからだ」
文人は即答した。ジュラキュリオは、その要領を得ない答えに、ほっとしたようだった。
「やはりな。お前も照や清音みたいな英雄なんだな。救済の物語で縛られている。困っているお姫様が居たら、助けずにはいられないんだ」
ジュラキュリオは嘲笑を浮かべる。文人を因子に振り回される、未熟な者だと思ったのだ。ジュラキュリオは文人へと距離を詰めると、机に手をついた。
「いいか。お前は因子に振り回されているだけだ。因子に定められた運命を、自分の思いと勘違いしているだけだ。これ以上頑張って何も残らない。それどころか自分の寿命を縮めるだけだ。分かったらもう止めとけ」
「俺がどうなろうと知ったことか。お前らに関係あるか? 無いだろ。ほっといてくれ」
文人は言うと、いつの日かジュラキュリオがしたように、机に突っ伏して無視することにした。すぐに誰かが文人の襟首を掴む。そして無理矢理顔を上げさせた。文人の目の前には、侍の恰好をした、少女の精悍な顔があった。彼女は、岡本『桃太郎』清音だ。桃太郎一族の末裔である。
清音の表情は、乱暴な振る舞いに反して優しかった。そして文人に顔を寄せると、優しく言い聞かせるように囁いた。
「そうもいかない。因子の力は絶大だ。ジュラキュリオは死なない。不死者の理を因子として持っているからな。ジャックが豆を埋めると、巨人の国に繋がる。そして私は鬼に対しては最強だ。私はお前が、何が出来るかが知らないが、私たちに迷惑をかけずにそれを振るうことが出来るか? それに下手に因子を使えば、それだけ物語の舞台は肥大化する。ここまで言ったら、もうわかるな。巻き込むな」
清音は念を押すように語尾を強めて、文人の肩を叩いた。それから形だけの虚しい笑みを浮かべる。
「それさえなければ……私たちもお前と交流してもよいと考えている。お前の言う通り、腐っていても仕様が無いからな」
その言葉は恐らく真実だろう。だが文人はそれが如何に虚しく、悲しい事か身に染みていた。照や響子、詩舞姫と過ごした時間が、槍の切っ先となって、深く文人に突き刺さっていた。
「知ってるんだよ。見せかけだけの付き合いなんて、辛いだけだって。だからお前らもつるんでいないんだろ? それに俺は、輝夜が自分を慰めるための道具だと思っていない。俺は――」
文人は目元を覆って、そこで言葉を切る。文人は薄々感づいていた。自分の正体を隠して、因子に関わるのは卑怯な行為だと。クラスメイトと同じで、安全圏から物申すのに等しい。いや、それ以上に卑しいと言える。何故なら自分が当事者である事から、逃げているからだ。あくまで第三者が、輝夜を助けようとしているように見せかけているからだ。
文人はもうウンザリだった。周囲に。何より自分に。そしてどうせ疲れるのなら、自分を偽るよりも、自分を貫くために疲れた方がマシだと思った。
文人は制服の上着を脱いだ。そして腕をはだけると、そこの皮膚を擦ってメイクを剥いで、因子の刺青を露わにした。
クラスメイトの視線が因子に注がれる。そしてその行為の真意を図りかねるように、眉根を寄せた。ただ一人、孔明にはそれが何か分かったようだ。彼女の眼が驚愕に見開かれ、すぐに憤怒に濁った。
文人はその憤怒に少しだけほっとした。肩の荷が下りたようだった。そして腕に浮かぶ、ぎょろつく目玉を、クラスメイトに見せつけた。
「俺は『伝承者』だ。だから誰にも迷惑をかけないし、因子に突き動かされている訳でもない。俺の因子には奇跡を起こす力が無い。俺の力はお前らを縛る事だからだ。だから助ける。それだけだ」
クラスメイトは、鳩が豆鉄砲を喰らったようだった。呆気に取られた様子で、文人の顔と、その刺青を交互に見やっている。しかし文人の態度から、それが冗談ではないことを知ると、徐々に敵意を募らせていった。
「何だって……? お前が……?」
ジュラキュリオが聞き返す。文人はあっさりと頷いた。
「ああ。だから――」
文人の襟首に、力が込められた。そして頭から机に叩き付けられる。文人は苦痛に呻きながら、脇を見上げる。そこでは清音が、親の仇を睨む様に文人を睨んでいた。
「お前かぁ!」
清音は喉の奥からドスの効いた声を絞り出しながら、文人を机ですりつぶすように力を込めた。それだけに留まらない。周囲で罵声が上がり、怒りが臨界を迎えたクラスメイトが、文人に飛び掛かっていった。
「返せよ! 俺の人生を返せよ!」「ふざけないでよこのクソバカヤロー!」「お前のせいで! お前のせいで母さんと離ればなれになったんだ!」「へらへらしてんじゃないわよこの腐れ外道!」
うつ伏せに抑えつけられた文人の背中が、滅茶苦茶に殴打される。やがて机が倒れて、文人は床に放り出された。それからもクラスメイトの殴打は続く。今まで抑え込んできた感情を爆発させるように、文人を踏みつけ始めた。
教室のドアが勢いよく開く。そして司馬懿がなだれ込んで来た。彼女は廊下の時点で教室の異変に気づいたらしく、人だかりに目をつけた瞬間、その中に割って入った。
「何してる!? 止めろ! 止めんか!」
司馬懿が体を張って、クラスメイトを引き剥がそうとした。彼女は殴られ、蹴られつつ、懸命に人だかりを散らそうとする。だがそれが叶わぬと悟ると、文人の上に覆いかぶさって、盾となった。そうなるとクラスメイト達も冷静さを取り戻して、ぞろぞろと文人と司馬懿から離れていった。
司馬懿は攻撃が止むと、文人を支えながら立ち上がる。文人は口から血を滲ませ、背中にはいくつも足跡が残っていた。かなり痛めつけられたのか、足元も危うかった。司馬懿は文人の埃を手で払い、殺気立つクラスメイトを見渡して叱りつけた。
「何があったかは知らんが、これはやり過ぎだ!」
だがクラスメイトは引かない。文人を取り囲んだまま、隙あらば再び襲い掛かろうと、にじり寄り始める。その包囲の輪に加わっている白雪姫――雪白が、冷たい声を上げた。
「司馬懿先生。邪魔しないでよ。そいつが全ての元凶なんだから。そいつ、伝承者だよ」
司馬懿の動きが止まる。そして信じられないような眼で、文人を振り返った。彼女が文人を支える手は、恐怖とは違う意味で、小刻みに震えていた。そして震えから逃れるように、司馬懿は文人から離れた。代わりにクラスメイトが進み出て、文人を廊下側の壁際に追い詰める。
司馬懿の裏切りは、もう文人を傷つけない。身をもって英雄たちの憎しみを知ったからだ。司馬懿の熱弁が生徒に響かなかったのも頷ける。所詮彼女も、虚を眺める無気力な島の住人でしかなかったのだ。
結局、この島には虚無以外何もない。そして文人は、虚無すら失った。
文人は冷めた目つきで、自分を取り囲むクラスメイトと、教師を睨み据えた。文人には言いたい事が、腐るほどあった。
「お前らは人生を諦めたんだよな。無駄だと思ってるから諦めて、独りで塞ぎ込んでんだろ!諦めた癖に、未練がましく人生に縋ってんだな! 不満ならやれよ! やりたい事やれよ!」
「開き直りかよ伝承者!」
ジュラキュリオが即座に言い返す。だが文人は怯まなかった。
「貴様らに言われたくねぇ! 自分を憐れむのがそんなに好きか!? そりゃそうだよな! 何もしなけりゃ悲劇のヒーローでいられるんだからな! お気楽なもんだなこのクソッタレ!」
「そんなに殺されてぇかぁ!」
ジュラキュリオは再び文人に掴みかかろうとした。周りのクラスメイトもそれに倣い、文人に飛び掛かる。司馬懿は止めようとせず、未だ自分のスタンスを決めることが出来ずに、ただそれを見ていた。
文人に暴力の手が伸びる。その瞬間、文人の背後の窓が開け放たれた。そこから筋骨隆々の腕が伸びて、文人の襟首をむんずと掴み、教室から引きずり出した。クラスメイトは追撃しようとしたが、その腕の主を見て一斉に立ち止まった。
盛男だった。彼はその凄まじい体躯を以って、片手で文人を宙づりにし、残った手を腰に当てていた。盛男は溜息を吐くと、殺気付いたクラスメイトを一望した。
「コラ。暴力は駄目だ。ウン。暴力反対」
盛男の言葉は、しんと静まり返る教室に響く。盛男は一人、一人の生徒の顔を、覗き込んでいく。そして苦虫を噛み潰したような顔をした。
「皆ギンギラギンだねぇ~。その調子で青春に打ち込んでもらえると嬉しいんだけどねぇ~。それはさておき、とても学業に勤しめる雰囲気じゃあないなぁ~。今日はこの学級は閉鎖だ。各自解散。バイバイ。鯖戸くーん。急患だ」
盛男は摘み上げた文人を、廊下に下ろす。そして付き添っていた鯖戸に、その身柄を預けた。盛男は文人が鯖戸に支えられながら、階段の踊り場に消えるまで見送る。それから再び教室内に視線を戻した。そこではクラスメイトが微動だにしないまま、盛男に憎悪の眼差しを向けていた。盛男はそれをさらりと受け流し、普段のおどけた調子に戻る。
「ん? 解散だぞ。さっきの威勢はどうした? 今日一日は自由だ。遊んできなさい」
だがクラスメイトは動かない。盛男も態度を硬化せざるを得なかった。
「それとも……目に見える感情のはけ口が無いと、元気が出ないのかね? 胸中の苦しみを、相手を苦しめる事でしか、発散することが出来ないのかね? 恥を知りたまえ」
盛男の言葉に、クラスメイトの表情に影が差す。そして忸怩たる思いに顔を俯かせた。だが一度火のついた憎悪が、決して消える事がなかった。彼らは恥で憎しみの業火を隠していた。
一人、一人と、人だかりが散り、自分の机に戻っていく。それからカバンに教科書を詰め直すと、教室を出ていった。
司馬懿は唇を噛みしめて、生徒が全員出ていくのを待った。やがて盛男と二人きりになると、認めたくないように言った。
「どうして私にも隠していたんですか」
盛男は口元を引き締めながら、頭を振って見せる。
「君に隠し事をしたのは謝る。だがその判断は間違っていなかったよ……」
司馬懿は生唾を飲む。確かにあの土壇場で文人から離れたのは、教員としてあるまじき行為だった。だが司馬懿にも言い分はある。
「私にも、覚悟や心構えというものがあります。事前に知らせて下されば――」
司馬懿の釈明を、盛男は聞く価値もないと言いたげに遮った。
「馬鹿者! その覚悟と心構えを決めて教職に就いたのだろう! 君に話さなかったのはそれが理由だ! 君が因子に偏見を抱いているからだ! 真っ直ぐに彼を見ろ! 他の生徒とどう違うというのだ!?」
「ですが彼は伝承者です!」
司馬懿は金切り声を上げる。だが盛男も負けじと声を張り上げた。
「それが偏見だ! 彼も『英雄』だ! 古く歪んだ過去に、人生を狂わされている一人だ!」
司馬懿は声を詰まらせて、数歩後退った。盛男は失望したように肩を落とすと、司馬懿に歩み寄る。そして彼女の足元に転がっている、出席簿を拾い上げた。
「輝夜君が月に帰るまで君は停職だ。とても生徒は任せられん。自宅謹慎を命じる」
司馬懿ははっと顔を上げて、首を横に振った。
「そんな……輝夜を一人に出来ません! せめて見送ってあげたいです!」
「偏見のある目で輝夜君を見るな! まだ人を傷つけ足りないか!」
盛男はきっぱりという。そして彼女を残して教室を出ていった。これだけの騒ぎがあったというのに、教室の周りには野次馬一人いない。それどころか、この騒ぎに巻き込まれない様に、学校全体が息を潜めている。それは痛ましい沈黙を作っていた。