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昔々……  作者: 水川湖海
17/35

15.転章の3

「司馬懿君から話は聞いたぞ! 勝手にイカダを作って沖に出たらしいな! この島では許可なく沖に出る事は禁じられている! 校則にも書いてあっただろ! 知らないとは言わせんぞ! 授業で習うんだからな!」


 夜の校長室に、盛男の怒声がこだまする。文人は首を縮めて、頭を肩の間に入れた。


 文人はあの後、響子たちのいる崖下に戻ろうとしたところを、盛男に捕まった。盛男は問答無用で文人の襟首をつかんで、校長室まで引きずりこんだ。


 盛男は乱暴にドアを閉めると、文人の両肩を掴んで、真正面から彼を睨み付けた。文人はまずぶたれると思った。そうされても仕方のないという自覚はある。だが盛男は無事を喜ぶように、熱い抱擁を交わした。そしてその存在が確かなものだと分かると、安堵に優しい抱擁へと変えた。文人は申し訳なくなった。それから盛男は、文人の頭に拳骨を落とした。そして頭を抱える彼に、冒頭の言葉を浴びせかけた。


 盛男の憤怒の声は続いた。その声量たるや、まるでヘビメタを演奏中のスピーカーの前に、立たされたような心地だった。


「いいか! この事が下手に国連に知られたら、君は危険人物として軟禁状態に置かれる。無期限にだ! これがどういう意味か分かるかね!?」


 文人にとってそんな事はどうでも良かった。彼は拗ねるように横を見た。


「大げさ過ぎはしませんか……?」


 盛男は文人の頭を掴むと、捻って自分の方へと向けた。


「大げさなものか! 国連は各国の各都道府県州に、因子持ち専門の捕獲部隊を置くことを義務づけている! そのような徒労を払ってまで、因子持ちをこの島に閉じ込めようとしているのだ! それが檻を破ろうとしたと聞いたらどうなる!? 逆上するに決まっているだろう! 何も分かっていないようだ! これはまだ説教する必要があるな!」


 盛男は延々と文人を叱り続ける。ただ盛男は一言も輝夜について言及しなかった。ひたすら文人の校則違反と無謀行為を責め続けた。


 文人はそこで盛男に対して、深い敬意の念を抱いた。彼は教育者として腐るまいとしていた。だから自分の生徒を見捨てろとか、見て見ぬふりして差別しろと言わないのだ。恐らく彼が本当に怒っているのも、違反行為に対してではないだろう。盛男はやり方と選び、自分を大事にしろと言っているのだ。文人はその意を汲んだ。少なくとも前者の方だけは――


「すみませんでした……度が過ぎました……」


「何がだ!」


 盛男は矢継ぎ早に聞いて来る。


「乱暴なやり方でした。それに自暴自棄になっていたかもしれません……」


 これで碌な答えが返せなかったら、説教は夜中にまで及んでいたかもしれない。盛男は口を閉じて、それ以上怒鳴るのを止めた。


「よろしい」


 盛男は自らのデスクまで歩き、そこにどっかりと腰を下ろした。そして額に手を当てて、興奮を治めるように溜息を吐いた。盛男は肩で息をし、肌にはうっすらと汗を滲ませている。彼は疲れ果てた顔をしていた。その疲れは今に始まったものではなく、長年彼を蝕んでいるものだと文人には察しがついた。因子と、定めと、子供についてだろう。


 やがて盛男は落ち着くと、明後日の方を向いたまま、文人に聞いてきた。


「文人君。気負っているのかね? これだけは言っておく。それは君が担う必要のないものだ」


「ええ。分かっています」


 感情の篭らない声に、盛男はすぐに嘘を読み取った。だがそれ以上踏み込むことは出来ない。


 盛男はここの校長を長く務めて、一つだけ分かった事がある。人に思いを失えとは言えない。島民の持つ極度の絶望でも、文人の抱く危うい希望でも、それにだけは手を出してはいけない。それも一つの選択で、それが彼らの明日を創るからだ。それを捻じ曲げてはいけない。運命に抗えとも、定めに従えとも言えない。ただ教職者は良識の範囲で、選択肢を増やす事しか許されないのだ。


 盛男は辛かった。これから自分の為さなければいけない事が。


「私の監督が行き届いていなかったのもある。それはすまなかった。今後は司馬懿先生に、君の助力を頼んである。頼るといい。帰ってよろしい」


 いわゆるお目付け役だ。盛男は少なくとも良識で、文人の悪い選択を潰すことにした。


 文人は不服そうに、何か言おうとした。だが盛男は文人に手の平を向けて、それ以上の言葉を禁じた。文人は仕方なく、盛男に一礼をして、ドアノブに手をかけた。


 文人が校長室を出る時、後ろから声がした。


「文人君。怒鳴ってすまなかった」


 文人は無言でドアを閉めた。文人が校長室を出ると、そこには思わぬ人たちが待っていた。詩舞姫、響子、照、そしてごんだ。彼らは文人を取り巻き、口々に話し始めた。


「盛男がマジギレするところ初めて見た」


「基本。悪ノリ。好き。でも。今回。やり過ぎ」


「まぁさか。あのボロ舟で、ホントに行くとは思わなかったからぁ。驚いたよぉ」


「ねぇ。輝夜おねぇちゃん何か言ってた?」


 しかし文人は黙り込んだままだ。だから周りも空気を読んで、それ以上何も言わなかった。やがて文人はある程度の気持ちの整理をつけた。彼は迎えに来てくれた友人たちを、気にする余裕を取り戻す。


「何かごめんな」


 文人は口だけで謝った。自分は特に間違ってないと、心では思っていたからだ。そして抱えている、たった一つだが大きな隠し事が、彼を素っ気なくさせた。


「べ。別に。謝る。事じゃ……」


 照はどもった。照は恥ていた。さも文人の友人のように振る舞うくせに、都合のいい時にしか付き合わないからだ。この事件に立ち会わなかったからだ。更には事件の後も、彼と論争する勇気もなかった。


「仕方ないよぉ……ねぇ?」


 響子は歯切れが悪い言い方をする。後ろめたさがあるからだ。彼の事件に加担したにも関わらず、責任から逃れ、そのことを知りつつも取ろうとは思えないからだ。


 ごんはもうこの場から居なくなっていた。期待した答えが得られず、興味も失せたからだ。


「危ない目見たでしょ。もうやめときなって。また助かるとは限らないんだからさ」


 詩舞姫はもう、体裁を気にするのを止めた。自分に残された時間が短く、これ以上遠くに行かれたら愛せないからだった。


 痛々しい沈黙が、またもや場を支配した。誰もが感じていた。この集まりが歪で、見せかけだけの中身を伴わない事を、痛感していた。


 文人は清冽な溜息をつく。そしてさっきよりも口調を冷たくした。


「海に出るのは諦めたよ。盛男にも皆にも迷惑がかかるから。だから今度は陸にする。未踏の大地を探すことにした」


 詩舞姫はタライを揺らすほど驚いた。


「なンッ~にも分かってないこの馬鹿! それだけはやめた方が良いよ! 未踏の大地は神の世界に続いているんだよ! 常に揺らいでいて、何時のしかも何所に繋がってるかも分かんないの! そこで迷ったら戻ってこれなくなるんだよ!」


「でも俺、輝夜に助けられたんだ。少しでも出来る事はしないと」


 文人は淡々と言った。そして独りで廊下を歩いて行ってしまった。その背中を誰も追おうとはしなかった。ただ詩舞姫は、悲しみと絶望に頬を引きつらせながら、誰にも聞こえない声で呟いた。


「待ってよ……それ……アタシが……助けたんだよ……」


 言ったところで誰にも信じてはもらえない。彼の者は何だってできる。そしてこの状況だ。何を言っても輝夜を諦めさせるためだと取られてしまう。詩舞姫は気が狂いそうだった。


(どうしよう……文人がどんどん遠くに行っちゃう!)


 詩舞姫は自分を縛る水面に視線を落とした。響子が気まずさに耐えられず、パンツの紐を引っ張り始める。そして無理に明るい声を出した。


「あはは~、付き合いきれないねぇ……」


 響子はその一言を、場を和ませようと思って呟いた。とてもキレが無く、冗談としては滑っていた。だが今の詩舞姫をキレさせるには十分だった。詩舞姫はタライの水をすくうと、響子に向かって投げつけた。


「アンタは冗談で生きてるからそんな事言えるんでしょ! でもあいつは本気なの! 本気で生きてるの! 他人の分まで……正直に……! それが何! マジになっているから付き合えないって!? 黙れアバズレ! じゃあアンタは勝手に一人で死ね! 文人を巻き込むな!」


 響子は突然の事に目をぱちくりさせた。顔に引っ掻けられた水を拭う事もせず、吐きつけられた言葉を理解するように、口をパクパクさせた。そして彼女はいつもの笑みを浮かべた。この状況は、その笑みの隠れた特質を浮き彫りにする。それは壊れた笑みだった。


「あは、あはは、はは……うぇぇ……」


 響子は膝を折って崩れ落ちた。そして目頭を押さえて、さめざめと泣き始める。本人も自分の軽率さが、文人を危険に晒したことは承知しているのだ。


 照はかける言葉が見つからず、ただ響子の肩に手を置いて、宥めるようにさする事しか出来なかった。


「詩舞姫。言い過ぎ。謝れ」


 照は言う。だが詩舞姫はそっぽを向いた。


「泣きたいのはこっちの方よ」


 彼女はそう吐き捨てると、オールを漕いでその場を後にした。だが真っ直ぐに池に戻らず、彼女はさまよう様に校舎を徘徊した。


(早くどうにかして、本当のこと伝えないと……文人は無理して死んじゃう。どうしよう……どうしたらいいだろう?)


 詩舞姫は校舎をうろつき続ける。こんな事していても、物事が進展しないのは、彼女も重々承知だ。だが彼女は、何故か帰る気になれなかった。まるで運命に導かれるように、タライを漕ぎ続けた。


 暗く無人の校舎は、彼女から自我を奪っていく。周りの景色は無意識の中に溶けていき、彼女はまるで、鏡の回廊を歩くような錯覚を覚えた。やがて詩舞姫は、校舎の隅にある部屋の前で足を止めた。理由は何となくとしか言いようがない。彼女は暗がりに浮かぶ、表札を改める。そこには「保健室」と記されていた。詩舞姫は迷うことなく、保健室に入り込んだ。


 保健室は一見、何の変哲もなかった。デスクと、ベット、身体計測用具に簡単な医薬品の入った棚、仕切り壁など、保険に関わるもの以外ない。だが詩舞姫は何かを感じて、保健室の奥へと進む。そこには敷居に隠れてドアがあった。先ほどから刺青が熱を帯びて、詩舞姫をのぼさせている。


 詩舞姫は保健室奥にあるドアノブを捻った。軽く軋んだ音を立てて、ドアがゆっくりと開く。中はとても、何の変哲もないとは、言えない場所だった。そこは保健室に、新たに壁を作って出来た空間らしい。年老いた校舎と比べて比較的新しく、板ではなくコンクリート造りだった。部屋全体は長方形をしており、壁には吊り棚が何段も下げられていた。棚の上にはラベルの張られた瓶が陳列してある。書かれている文字は見た事のない文字ばかりだ。しかも文字の形、綴り方が大きく違う事から、恐らく様々な言語で記されていた。床にはプランターが所狭しと並べられている。そこではハーブや薬草などが育成されており、近くに園芸バサミと採集籠が放り出されている。そして部屋の最奥部には机があった。そこには蒸留器やすり鉢、そしてアルコールランプが置かれている。机には鯖戸が突っ伏しており、彼女は安らかな寝息を立てていた。


 どうやらここは調合室らしい。薬のない田舎の島では当然の施設だが、彼女はまさか鯖戸が、しかも校舎で運営しているとは知らなかった。


 詩舞姫はきょろきょろと忙しなく、吊り棚に視線を這わせた。鯖戸は魔女の因子持ちだ。そして人魚姫に足を与えたのも魔女だ。詩舞姫の求めるものはきっとここにある。


 詩舞姫は一つの瓶に目を止めた。無色透明の液体を湛える、小さな丸瓶だ。何となく、詩舞姫にはそれだと分かった。そしてそれが、因子の力によるものだとも分かった。詩舞姫は迷うことなく、棚からその瓶を抜き出した。そして口を切ると、一気に飲み干した。


 液体はするりと詩舞姫の喉を滑っていく。液体は無味無臭で、矛盾する表現だが、まるで液体化した空気を飲んだようだった。しばらくすると、変化が詩舞姫を襲う。彼女は空になった瓶を、タライの中にとり落とした。


 息が出来ない。まるで首を絞められているようだ。足も痛い。我慢できないほどの痛みだ。決して誇張している訳ではない。例えるなら尾の部分を、包帯でぐるぐる巻きにして、待針で直接肉に仮止めされたような痛みだ。


 詩舞姫は喉に手を当てつつ、鱗に爪を立てて、懸命に痛みを堪えた。やがて痛みは嘘のように引いていく。そしてそこには、詩舞姫だけが取り残された。詩舞姫は酷く惨めな気分だった。彼女は思わず毒づく。


「(アタシ、ドMじゃないのに、最近こんなのばっか……)」


 詩舞姫は震えた。今のは口に出したはずだったのに、擦れた息だけが出たのだ。彼女は口の前に、手でお椀を作り、懸命にそこへ言葉を吐き出そうとした。しかしぜいぜいと、荒い息しか吐くことが出来なかった。


「(こえが……でない!)」


 詩舞姫は困惑に身じろぎをする。そして下半身の違和感に気付いた。


 魚の尾はそこに見当たらない。詩舞姫の尻は綺麗に割れて、そこからすらりとした美しい足を伸ばし、タライの水に浸っていた。詩舞姫は恐る恐る足を動かしてみる。すると足はずるりとタライの底を擦った。


 動く。詩舞姫は歓喜した。


「(これで文人の所に行ける! 文人にアタシが助けたって信じてもらえる!)」


 詩舞姫は急いで立ち上がろうとする。だが今まで尾という一本足で過ごしてきたせいで、思うように足が動かない。つい癖で両方の足を、前へ後ろへと動かしてしまう。その足の動きは、魚の尾のそれによく似ていた。


 詩舞姫は癇癪を起して、タライを拳で殴りつける。そして少し余裕を取り戻すと、ゆっくりと足を逆に動かして、股を開いていった。


「(この調子……こうやって動かすのね)」


 詩舞姫はある程度股を開くと、膝を折りたたんで上半身をタライから起こした。そして足の裏を底に着けて、上半身を乗せて立ち上がろうとした。彼女の上半身が、タライの底を離れて足に乗る。そして足はジャッキの様に、詩舞姫を上へ持ち上げてくれた。


 詩舞姫は立った。


「(やったぁ~!)」


 彼女は無邪気にはしゃぐ。そして陽気にタライの外へと、一歩を踏みだした。足の裏が床を捉え体重を支える。その瞬間彼女の足に、激痛が走った。人魚姫の昔話で語られた通りの、ナイフで抉られるような激痛(・・・・・・・・・・・・・)だ。詩舞姫は声にならない悲鳴を上げて、床の上に倒れこんだ。


 幸いタライはひっくり返ることはなかった。だが物音に、鯖戸の眠りが浅くなり、唸り声を上げた。


 詩舞姫はそれに追い立てられるように、部屋から逃げ出した。タライを引っ張り、這いずるようにして、保健室から出ていく。そして外に出ると、壁に手を付きながら、校舎の外へと歩いた。


「(痛い……痛いよ……痛いよ! 文人……助けて……文人……)」


 詩舞姫は学校の玄関を出て、四方に視線を配る。そして文人の姿を探した。


 文人はすぐそこにいた。学校正面にある断崖の上に座り込み、ぼうっと海を眺めている。詩舞姫は足をもつれさせながら、その背中めがけて走っていった。夜のしじまに、不規則に力強く土を蹴る音が響く。文人はびくりと肩を震わせて、背後を振り返った。そして詩舞姫に気付くと慌てて立ち上がり、彼女を受け止めるように両手を広げた。詩舞姫は迷わずその腕の中に飛び込んでいった。


「(文人! 文人ぉ!)」


 詩舞姫は文人の胸に、顔を埋めて泣いた。その押し倒さんばかりの勢いに、文人は冷や汗を流しながら、崖っぷちから詩舞姫を移動させた。


「馬鹿! こんなところで走るなよ! 落ちたら死ぬぞ!」


 文人は詩舞姫に叫ぶが、彼女は聞いた風も無かった。文人の服を掴み、遠くに行かない様に自分の身体に引きつけ、そして胸に顔を埋めたまま震えていた。文人はそこで心配されていることを知り、そっと彼女の背中を撫でた。


「ごめん……そんなに心配かけたとは思わなかった」


 文人は詩舞姫が落ち着きを取り戻すまでの間、そのままでいた。やがて詩舞姫は文人からゆっくりと身体を離した。彼女は気恥ずかしさと、居た堪れなさに顔を赤くしていた。


 詩舞姫はそれを誤魔化すために、ブラウスの裾を摘まんで、軽くたくし上げる。そして太腿を文人に見せた。


「(見てよ! 足だよ! 足! これから一緒に遊べるよ!)」


 彼女は表情を嬉々とさせ、必死に喋ろうとする。しかし喉からはゼイゼイと荒い息しか出なかった。文人は詩舞姫のあられもない仕草に赤面し、彼女の手をブラウスから離させた。


「嬉しいのは分かった分かった。でも足が生えて間もないんだから、あまり無茶せずにタライ使った方が良いぞ。それといい加減にパンツをはけ。お前も響子の同類になるのは嫌だろ」


 詩舞姫は困惑した。無かったはずの足の存在を、文人がすんなりと受け入れたからだ。彼女は何らかの反応を引き出そうと、躍起になって文人に足を見せた。指でさしたり、地団太を踏んだり、文人に触らせたりした。文人は詩舞姫の真意をはかりかねて、難問に悩むように頭をかく。


「どうした? そりゃ急に生えてきたら驚くのも分かるけど、今保健室に行って、異常が無いか鯖戸先生に見てもらったんだろ? もし因子のせいだったら、俺もなんとかするのを手伝うし、落ち着けって」


 詩舞姫は頭の中が真っ白になった。


「(因子のせい……? アタシの足が……既に生えたことになってる……しかも保健室という継ぎ目で……)」


 文人は詩舞姫が黙り込んで俯いたのを見ると、落ち着きを取り戻したと思った。文人は詩舞姫を宥める手を休めぬまま、崖から海の彼方を望んだ。


「まずは輝夜だ。このままだと連れて行かれちまう。助けてもらったんだ。俺もやれるだけやらないと」


 それは下手な侮蔑の言葉より、詩舞姫を傷つけた。事実、拷問の様な詩舞姫の足の痛みは、心痛に消し飛ばされたほどだった。詩舞姫は文人の服を掴んで揺さぶった。


「(違う! 助けたのはアタシだよ! アタシだよ!)」


「危ないのは分かってるけどさ。でも俺がやらなきゃ……」


「(アンタが命をかける必要はないの! 分かってよ……分かってよ!)」


 声が出ないなら――詩舞姫は生徒手帳を取り出して、メモのページに文字を書こうとした。しかしいざ文字を綴ろうとすると、詩舞姫の手は止まってしまう。思いを言葉にするのに、どのような形を書けばいいのか分からない。彼女は最初、ちょっとした物忘れだと思った。だがどれだけ待っても文字が思い浮かばず、言い換えも出来ないことが分かると、じわじわと絶望が彼女を蝕んでいった。


 失語症だ。薬の副作用らしい。全てが筋書き通りに進んでいる。


「(ハハ……アタシ死ぬんだ……。このまま焦がれて、狂って、忘れられて……)」


 詩舞姫は観念の溜息を吐いて、生徒手帳をしまった。文人は心配そうに詩舞姫に付き添っている。彼はタライと彼女を交互に見ると、納得したように頷いた。


「タライが嫌なのも分かったけど、足が悪いんだから無茶するなよな……ほら。いつもの」


 文人はそう言って、詩舞姫の背中に手を回し、膝の下に腕を入れる。そしていつの日かの登山と同じように、彼女を抱え上げた。そして森へと歩いていく。


「まだ池に住んでるんだよな。早いとこ女子寮に移れるといいな」


 文人は詩舞姫に笑って見せた。詩舞姫は酷く憂鬱で、惨めな気分だった。だがその笑顔を見ただけで――それが自分だけに向けられていて、その気持ち以外不純なものが何もないと分かっただけで、不思議と心から笑うことが出来た。彼女は文人に全てを預けるように、身体から力を抜いた。


「(でも……もう死んでもいいや)」


「あー……オホン」


 暗闇から咳払いがした。二人が声をした方を振り向くと、丁度司馬懿が、崖下に続く坂から、上がってきた所だった。司馬懿は雰囲気を壊したり、二人の邪魔をしたくないらしい。「語部にだ」と短く告げて、詩舞姫に麻の袋を渡すと、そそくさと校舎の方に戻っていった。


 手の塞がった文人の代わりに、詩舞姫が袋を開いてみる。中には銀貨が数枚と、銅貨が数十枚詰まっていた。文人は眉根を寄せた。


「何のお金ですか?」


 司馬懿は立ち止まった。


「没収した大工用具、その他もろもろの代金だ。それでデートでも行け」


「ちょっとそれは!」


 すかさず文人は非難の声を上げる。


「購買でも、食品や筆記用具以外は、売らない様に話が通してある。言わずもがな、未踏の大地にはいかせん。この件について、私からは以上だ」


 司馬懿にしては珍しく、早口でまくしたてるような口調だった。そして彼女は速足で、逃げるように去っていった。

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