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昔々……  作者: 水川湖海
16/35

14.転章の2

 詩舞姫は放課後を迎えると、今日も文人を見守るつもりで、校舎裏へとタライを漕いだ。そこには小さな脇道があり、裏山ののる崖下への浜辺に、続いているのだ。この浜辺は詩舞姫が島に来てから、遊泳中に見つけたものだ。そこは入り組んだ崖の内側にあり、三面を崖に囲まれた小さな浜辺だった。入り江の岩肌が防波堤の代わりとなり、波も優しく、凪で満ちている。詩舞姫のとっておきの場所だった。


 校舎裏にそびえる裏山は、海側に険しい崖を作りあげている。垂直にそそり立つ崖に、天を衝く岩肌、打ち付ける波が飛沫を散らして、覗き込むものを吸い込もうとする。そのせいで人は全く寄り付かず、この小さな浜辺に気付く者は他にいなかった。ただ前に一度、詩舞姫は輝夜を連れて来た時があった。


「あの時は友達になれると思ってたんだっけ……私も島に来たばかりだったからなぁ」


 詩舞姫は過去を思い出して、口元を皮肉気に歪めた。詩舞姫もここに来たときは、楽しく生きたいと思っていた。そして取っつきやすそうな、輝夜に声をかけた。彼女はいつも一人でいたが、周りの生徒とは違い、敵意で壁を築いていなかったのだ。しかし輝夜とここへ来たはいいが、話は弾まなかった。お互いが傷つかない様、気を使いあっただけだった。それからも、互いを気付つけない様に、腫れ物に触る様な付き合いを続けた。それもごんが来てからは、希薄になった。


「友達じゃないんだ。文人とは違うんだ。はっきり文人にいっときゃよかった。そしたらコソコソしなくてもよかったのに」


 文人に輝夜と関わるなと言った手前、詩舞姫は堂々と文人と会いに行くことが、出来なくなっていた。どう言い繕っても、会ったところで悪くしかとられないからだ。しかし文人を捨て置くことは出来ない。それが因子のせいなのか、自分の感情からくるものか、詩舞姫には判別できなかった。


 詩舞姫は浜辺の上を、タライでのろのろと進む。キャスターが砂を噛んで、思うように進めない。詩舞姫は気張ってオールを押す。普段ならそれで砂浜を乗り越えたが、今回は上手くいかなかった。やがて手元を狂わせた彼女は、タライをひっくり返して、砂浜の上に倒れこんだ。


 詩舞姫は砂浜に大の字になる。周囲の砂に、タライからこぼれた水が染み込んでいく。詩舞姫は目元を、手の甲で覆った。


「最近あの馬鹿に頼りっきりだったから、すっかりナマッちゃったじゃないもう……最後まで責任取りなさいよねまったく……」


 詩舞姫は悪態をつきながら、タライを引きずり、海へと匍匐前進で進んでいく。そして洗う意味を含めて、タライを海に沈めると、彼女は海に潜った。目指すは校舎正面の崖の下だ。そこで文人が作業している。詩舞姫は海を漂う木っ端や海藻、回遊する魚の間を縫いながら考えた。


「今作ってるイカダは試作品だろうし、安全なイカダが出来るのは十日目ぐらいかな? 文人は馬鹿じゃないし、間に合わない上に無理だって分かるでしょ。そしたら慰めてあげよ……そしたら……どうしよう……」



 詩舞姫はブラウスの裾を引っ張った。へそには、浮き出たばかりの因子の刺青がある。詩舞姫は分かっている。相手は文人で間違いない。だとしたら、これから詩舞姫は文人を殺すかどうか、葛藤することになる。


 詩舞姫の気分は沈んだ。だがそれもすぐに晴れた。文人が教えてくれたのだ。出来うることをやり切り、自らの精一杯を楽しむことの素晴らしさを。例え定められた運命でも、その時が来るまでは自由だという事を。詩舞姫は最早、腐ってまで生き延びたいとは思っていなかった。


 彼女は自分の思いに反して、昔話に屈することを、腐っていると思っていた。


「別に殺したいとは思わないし……最後まで付き合ってくれたら、勘弁してやろうかな……フフフ。死ぬまで二人で、何所までいけるかな……」


 詩舞姫はくすくすと笑う。そして余生への期待に思いを馳せた。やがて彼女は、崖下の海岸を覗くことが出来る、岩陰まで来た。そこは暗礁から突き出た大岩の陰で、崖下の浜から三十メートルほど離れた場所にある。丁度浜の正面にあり、波が光を乱反射しているので、あまり派手なことをしない限り、気付かれないベストスポットだった。


 詩舞姫はいつものように暗礁に上がり、岩陰から浜をそっと覗いた。いつもと様子が違う。文人たちが作った拙い船着き場には、響子とファウストしかいなかった。文人の姿も、創りかけのイカダも見当たらない。当の響子たちは、遠く海の彼方へと視線をやっている。


 詩舞姫は鳥肌を立てつつ、響子たちが見ている物を確かめた。海の彼方、水平線近くで、帆も無い安造りのイカダが揺られている。イカダは沖の大波に打たれる度、全体をまとめるロープが緩んで、その形を失していった。イカダの上では文人が奮闘している。余計な荷物を捨てて、荒縄で応急処置を施そうとしていた。


「何してんのよ! あの馬鹿! バカぁ!」


 詩舞姫は絶叫した。そして即座に海に飛び込み、矢のように文人へと泳いでいった。詩舞姫が海に飛び込んでからしばらくすると、イカダは決壊した。バラバラになった丸太が、海の中に影を落とす。そして水中には、バランスを取るための重りが続々と沈んでいった。詩舞姫は焦った。まだ半分も近づいていない。


 重りは麻袋に石を詰めたもので、沈む際に空気を巻き込んで、水中に泡沫を立てていく。それで視界が僅かに悪くなり、詩舞姫は文人を見つけ出せずにいた。やがて泡が消え去り、視界が晴れると、詩舞姫は胆を潰した。文人は重りと共に、暗い海の底に引きずり込まれているのだ。応急処置に取り出した荒縄が、文人の首にまとわりついている。そして荒縄は文人と重りの一つを、繋ぎ止めていたのだ。文人は必死になって、縄を解こうとしているが、水を吸った荒縄に、重りがかかっているのだ。無駄な抵抗だと言えた。文人の抵抗が徐々に弱くなっていく。そして身体から力が抜けて、彼は糸の切れた人形のように、波に揺られ始めた。気を失ったのだ。


 その時ようやく、詩舞姫は文人の元に辿り着いた。彼女は荒縄を外そうと、がむしゃらに引っ張った。だが外れそうにない。そこで詩舞姫は重りの方に泳いでいった。袋を引き裂かんばかりに開けて、中に詰まっている石を、次々と放り出していった。全ての石を放り出すと、彼女は文人を抱きかかえて浮上した。


 水面に出ると、荒波が二人を出迎える。詩舞姫は器用に波に乗りながら、辺りを見渡した。詩舞姫の周りには、荒縄や荷物袋、丸太などが散乱している。詩舞姫の頬が引くついた。


「海を汚しやがって……このバカチンが……後で説教してやる」


 詩舞姫は文人の容体を診る。文人は水を何回か吐いた後、荒く呼吸をし始めた。意識はまだ戻っていないようだが、命に別状はなさそうだ。だがこのまま海にいては、体温が下がり、体力が落ちてしまうだろう。詩舞姫は自分の体温を分け与えるように、きつく文人を抱きしめる。そして島に戻り始めた。


「さて、どこに行こう? 港の方の浜は島民がいるし大事になっちゃう。かといって崖下にはファウストがいるしね~。ちょっと遠いけど――いいか……」


 詩舞姫は文人を抱えたまま海に潜る。水面より水中の方が、速く泳げるのだ。詩舞姫は海に潜る際、たくさんの空気を泡として持ち込むのを忘れなかった。それで文人の頭をすっぽりと覆い、息が出来るようにした。人魚なら誰にでもできる技だった。


 詩舞姫は校舎裏の、例の小さな浜辺まで、文人を運んだ。詩舞姫のプライベートな場所として、あまり他人に知られたくない場所だが、文人はもう他人ではなかった。


 詩舞姫は砂の上を這いずって、文人を砂浜の上に横たえさせた。ここまで来ると流石に疲れたのか、詩舞姫も文人の隣にYの(・・・)になった。


「ホントに疲れた~。アンタよくアタシを抱えて走って、愚痴一つ漏らさなかったわね」


 詩舞姫は大きく伸びをしながら文人にそう語りかける。だが文人は呼吸を繰り返すだけで、反応しなかった。詩舞姫は砂浜を転がってうつ伏せになると、頬杖をついて文人の顔を覗き込む。そしてその頬を突いた。


「まぁだを気を失ってんの? いい加減起きたらどう?」


 それでも文人は反応しない。ただ呼吸を繰り返すうちに、激しかったそれが次第に安定していき、表情も穏やかになっていった。


 詩舞姫はその変化に魅入る。ドクンと、彼女の心臓が跳ねた。まるで吸い付けられるように、彼女は文人に覆いかぶさっていく。別に混乱している訳ではない。欲情している訳でもない。ただ自分の感情に素直になっただけで、真っ白な頭の中で、彼女はふと悟った。


(あ……アタシ……ホントにこいつに夢中なんだ……)


 詩舞姫は、そっと文人に口付けた。彼女は波の音を聞きながら、しばらくそのままでいた。少なからず、彼女は今が永遠であればいいと思っていた。


 やがて詩舞姫は文人から離れる。彼女ははにかむ様に口元をもにょもにょと動かす。そして火照った顔を隠すように、両手で顔を挟んだ。次第に彼女は落ち着き、さっぱりした顔で、小波を湛える浜を眺めていた。


「これだけ痛い目見たら、文人も助けようなんて、馬鹿な気を起こさなくなるでしょ」


 詩舞姫はそう独りごちると、這いずって海に戻っていった。


(助けを呼びに行こうかな? でもここは私と文人だけの場所だし、他の人を呼びたくないなぁ。それに急を要するわけでもないからね。薬効のある海藻がこの辺にあるし、それをあげて体を温めれば問題ないか)


 詩舞姫は海藻を摘むために、深く水底近くまで潜っていった。







 それは異様な光景だった。


 筋骨隆々の半裸の男たちが、神輿を担いで脇道を通っている。後方には随身が一人、周囲に気を払いながら後詰めをしている。先頭には笏を持った男が立ち、神輿の中の人物に、しきりに道を確認していた。


「輝夜様、此方で宜しいのでしょうか?」


 笏の男が振り返らずに聞く。話す相手を見ないのは無礼かもしれないが、輝夜の様な神族の場合、見ること自体が無礼に当たる。笏の男は弁えていた。


「はい。この先に小さな浜辺があるのです」


 笏の男は咎めるように、少し口調を厳しくした。


「輝夜様がそのような御転婆を為さっていたとは……とても雅とは言えませぬ。あの狐めもそうです。あのような妖怪変化とあそばれたとあっては、天帝様も悲しみますぞ」


 輝夜は笏の男の忠言を無視した。どうせその時が来れば、羽衣を被せられて、無駄な物思いが出来なくなるのだ。


 後ろから誰かが追いついて来る。二人目の随身だ。彼はそっと神輿と笏の男の間に入り、神輿の警護を始めた。


「方はついたのかえ?」


 笏の男の問いに、随身は頷く。


「は。丁重にお断りを入れ、聴き入れて頂けなかったので、神隠しに会わせました」


「よろし」


 輝夜は彼らが、諦めきれずついてくるごんの事を、話していると知っていた。彼女は僅かに怒気を孕む声で呟いた。


「其の方らの振る舞いも、雅とは言えぬと思いますが?」


 笏の男は心底おかしそうに、笏を口に当ててくすくすと笑った。


「それは我々、下々の為す事ゆえ」


「そのまま道沿いに真っ直ぐです」


 輝夜はこれ以上問答する気にはなれなかった。淡々と通る要求だけを告げた。


 やがて神輿の一行は、浜辺へと出た。三面を崖に囲まれ、入り組んだ場所に広がる、小さな浜辺だ。輝夜は降ろされた御簾をたくし上げ、神輿の中から外を覗いた。崖の三面以外の、解放された最後の一面。そこには海が広がっていた。遠くには青が湛えられ、中程にある岩場には波が荒巻いている。そして浜辺近くには、小波が打ち寄せていた。この小さな一面に、海の全てが集まっていた。さらにここは、周りが圧迫感のある石壁の為、開けた海の一面はより広く感じられる。さながら空間を切り取ってできた絵画だった。


「これはこれは、美しゅう御座いますな」


 流石の笏の男も、この絶景に唸った。


「ここ。お友達が教えてくれたんです」


 輝夜は遠く過去を想いながら、そう呟いた。輝夜が島の外にいた頃、彼女の周りには、人がたくさんいた。因子の力による、魔性とも呼べる美貌のせいだった。輝夜は物心つくまでは、別段気にも留めていなかった。しかし次第に群がる人が、輝夜を巡り傷つけ合い、破滅していくようになると、流石の彼女も無関心ではいられなくなった。それでも輝夜の育ての親は、輝夜の露出を控えようとはしなかった。テレビに積極的に出演させ、そのおこぼれで生計を立てていた。


 輝夜がアイドルとしての道を、歩まざる得なくなったある日、黒服がやってきた。そしてこの島へと連れて来られたのだ。輝夜は内心ほっとしたが、それも束の間――この島には希望と呼べるものはなく、全てが輝夜に無関心だった。唯一声をかけてくれたのが、詩舞姫だった。輝夜は外と同じように、詩舞姫が自分を盛り立ててくれると思っていた。しかし輝夜が外では気付かなかった自分の傲慢を知った時、詩舞姫は輝夜を諦めていた。


「私……馬鹿だった。もっと……話せばよかった……」


「左様で御座いますか。では見納めという事で御座りまするな」


 笏の男は両手を合わせて打ち鳴らした。すると彼の目の前の空間が弾け、煙をばら撒いた。煙が晴れると、法被を着たウサギが二匹現れた。彼らは肩に杵を担ぎ、余った手で臼を支えている。ウサギは笏の男に恭しく首を垂れた。神界の獣。つまりは神獣だろう。


「今団子を拵えますゆえ、しばしお待ちを」


 笏の男はウサギたちに仕事をするようにと、笏を揺すって促す。だがウサギたちは何かに感付き、耳を揺らして砂浜の方を見た。笏の男は眉をひそめた。


「御両人、如何した?」


 ウサギの片割れが、砂浜を腕で指す。砂浜はやや盛り上がっており、その向こうのなだらかな傾斜は、神輿の位置からは隠れて見えなかった。


「主殿、浜に何者かが潜んで居ります」


 ウサギの言葉に、随身が腰に手をやり、刀の柄を握った。そして一人が神輿の警護に付き、もう一人が浜へと向かって行く。随身は浜のやや盛り上がった丘を乗り越え、その向こうに潜んでいる物を確認した。彼は屈むと、その男の襟首を摘み上げて、神輿の位置からも見えるように持ち上げた。


 文人だった。


 輝夜は思わず神輿から飛び出した。笏の男の制止を振り切り、裸足のまま砂を蹴って、文人に駆け寄っていった。彼女は随身の手から、文人を奪うようにして降ろさせた。


「なんてことをするのですか!」


「しかし姫君。この者もあの変化の様に――」


「聞きたくありません!」


 輝夜は威喝して随身を黙らせた。そして文人の隣に膝を付き、様子を見た。どうやら気を失っているようだ。全身がずぶ濡れで、身体には荒縄と麻袋がまとわりついている。船か何かで沖に出て、災難にあったのだろう。輝夜の心は痛む。文人が沖に出る理由は一つしかない。至宝を探しに出たのだ。


「あの……大丈夫ですか……?」


 輝夜は文人の頭を撫でながら、そっと囁いた。


「輝夜姫。そのような下賤なものに触れてはなりませぬ」


 笏の男が苦言を漏らす。


「お黙りなさい」


 輝夜はぴしゃりと言い放つ。彼女は文人を軽く揺さぶって、何らかの反応を引き出そうとした。刺激を受けて、にわかに文人の表情が歪む。やがてうっすらとその眼を開き、夢でも見るかのように輝夜を見上げた。


「あれ……輝夜? なんでここに……」


 輝夜は文人の意識が戻った事に、ほっと胸を撫で下ろす。だがすぐにその表情は、罪悪感に塗りつぶされてしまった。輝夜は文人を惑わし、その命を危険に晒したのだ。輝夜は己の存在の罪深さに、口をきつく結んだ。


「申し訳ありません……私のせいで……」


 文人は起き上がり、健全であることをアピールしようとする。しかし起き上がる途中で、荒縄が巻き付いた胴体に、鈍痛が走った。同時に倦怠感も。文人は起き上がれずに、仰向けに伏してしまった。仕方なく文人は笑顔を作り、明るい声を出した。


「助けてくれたみたいだな。ありがとう」


 文人は勘違いをしていた。彼は海に飲まれる自分を輝夜が救い出してくれたものと思っていた。


「いえ……そんな。私はただ……」


 輝夜はそれ以上、言葉を紡ぐことが出来ず俯いた。その返事は否定ではない。謙虚な肯定だ。輝夜もまた勘違いをしていた。彼女は島に漂流して戻って来たクラスメイトを、介抱しただけと思っていた。


 しばらく、沈黙が二人の間に流れる。やがて文人は気恥ずかしそうに、目元を手で覆った。


「カッコ悪いところ見られたな……けどまだ諦めたわけじゃないからな。どーんと構えてろ」


 輝夜の顔が固まった。まだ挑むつもりなのだ。彼女は努めて冷たい表情を浮かべ、突き放すような声を出した。


「文人さん。余計な事を為さらないで下さい。私は下界を離れて、神代の国に帰る事に決めたのです。邪魔をしないで頂けますか? あなたのやっていることに意味はありません」


「違う! お前がそんな事言っているのが、意味のある証拠なんだ!」


 いきなり文人は叫んだ。輝夜は目を丸くして怯む。随身も素早く反応し、刀を抜いて振り下ろした。刀の切っ先は砂浜にめり込み、刃の部分が文人の首にあてがわれた。


 文人は首筋の冷たい感触に、身体を強張らせた。ひょっとしたら妙なことを言うと、真っ二つにされるかもしれない。極度の緊張は文人にそう思わせる。だが文人は勇気を振り絞った。


「初めてあった時さ、彼の者が来るのを怖がってただろ」


 輝夜はぴくりと肩を跳ねさせた。文人としては、無反応でも良かった。だが確信は文人に活力を与えた。自らの首にあてがわれた刀を、剣の腹を押すことで離させる。そして彼はふらつきながら立ち上がった。


「俺はあっちの方が本心だと思っている。だから一回助ける。それでも神代の国に帰りたいんなら好きにしろ。選べるだろ。それに意味が無いなんて事はない」


 輝夜はますます文人が分からなくなった。どうやら因子に惑わされている訳ではなさそうだ。輝夜に対する恋慕が希薄だからだ。だがその執着は凄まじいものだ。輝夜の胸中に、仄かな恐怖心が湧いた。


「どうしてそこまで……何でそこまでするんですか……?」


 すると文人はたじろいだ。まるで核心に迫られるのを恐れるように。実際文人は恐れていた。意識を取り戻した時より、随身に刀をあてがわれた時より、はるかに怯えていた。四肢は疲労とは違う意味で震え、表情には先ほどまで見られなかった、情けなさが滲んでいる。やがて文人は、逃げるように顔を反らした。


「やりたいからやる。それだけだよ」


 人付き合いが苦手な輝夜にでもわかる、下手糞な言い逃れだった。最早話すことも無くなり、互いが今できることも無くなる。輝夜は踵を返し、神輿へと戻って行く。


「興が醒めました。戻りましょう」


 随身の男が刀を鞘に戻し、神輿の警護に引き返していった。笏の男はウサギに軽く会釈をして、両手を打ち鳴らした。ウサギは来たときと同じように、煙に包まれて消える。神輿を支える男たちは、輝夜が座に着くのを待ってから、神輿を抱え上げた。神輿の一行は、静々と来た道を帰っていった。


 その一部始終は、海藻を取って戻った、詩舞姫の眼に入っていた。


「なんでアンタがいるの……」


 詩舞姫は怒りを覚えた。輝夜が覚えていてくれた喜びなど一片も無い。ただただ都合よく利用され、美味しい所だけを持っていかれた。そうとしか感じなかった。詩舞姫は怒りに突き動かされ、魚雷の様に浜辺へと向かった。


 不意に詩舞姫を激痛が襲った。丁度刺青のある個所からだ。それで彼女の動きは止まる。まるで腹に剣を突き立てられたようだ。だが構わず彼女は、猛進を再開した。しかし痛みは文人に近づこうとすると、一層強くなる。まるで自分に突き立てられた剣の柄の方に進み、より深く突き刺しているみたいだ。苦痛は詩舞姫の内臓を掻き回し、脳を焼いた。


(痛い……? 何でこんな時に痛いの……!? 本当の事言わなきゃ! アタシが助けたって! 痛い! 痛い! 痛い!)


 詩舞姫は必死で水を掻いた。そして少しずつ、少しずつ進んでいった。


 結局。


 詩舞姫は痛みに負けた。彼女は涙を流しながら、水底へと沈んでいく。文人と輝夜から離れると、腹に突き刺さった剣が抜けるかのように、痛みが引いていく。やがて彼女は海の底の、大岩の上に横たわった。


 海中に採取した海藻が漂う。


 詩舞姫はそこで、捨てられた人形のような顔をしながら、ただ涙を流し続けた。

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