13.承章の7
文人が男子寮に帰って数刻が経った。寮の食堂で食事を済ませ、風呂も浴びおえた。部屋に戻ると、最早することも無い。彼はベッドの上に座り込んで、今日の出来事を思い返していた。
「不謹慎だけど、楽しかったと思うけどなぁ……そもそも楽しむこと自体は不謹慎じゃないと思うけど……境遇からすると不謹慎になるのかねぇ……?」
文人はぼやく。しかしぼやいた所で、聞く人は誰もいない。誰もいない部屋に、文人の言葉や考えが、空しく吸い込まれていく。こうしてクラスメイト達も、空っぽになったのだろう。
窓の外を見ると、森が月光に照らされている。灯火が無くても、池まで迷わずに行けそうだ。
文人は詩舞姫に会いに行くことに決めた。ここで腐っているより、例えみっともなくとも、詩舞姫と話している方が良いと思った。それに容態も気になる。
文人は部屋から出る。そして部屋の鍵を閉めた所で、動きを止めた。照とばったり出くわしたのだ。気まずい雰囲気の中、二人は顔を合わせることなく、身体を向き合わせたまま立ち尽くす。文人は会話のきっかけを求めて、過去の記憶を漁った。しかし照の拒絶や怒声しか思い出せず、かける言葉を見つけられなかった。照も何かを話したそうだった。彼は何かを探るように、文人の身体の末端に視線を彷徨わせている。そして痛ましそうに、目を細めた。
文人は寝間着の半袖半ズボン姿で、素肌がよく見える。だらしなく弛緩させた四肢は、激しく長期的な運動の疲労と痛みを訴えて、時たま痙攣した。その上、腕には葉っぱで切った傷があり、足には何かを蹴ってできた痣が浮いていた。
「そこまで。する。必要。あったのか?」
「必要性の問題じゃないだろ」
文人は何でもないように言う。照は文人に裏が無い事は分かったようだ。頷いて見せる。だが顔は納得していなかった。
「少し。話せるか?」
「ん。今日の事は悪かったよ。確かに軽率だった」
文人の意に反し、照は首を振った。
「水川の。話し。違う。水川。嫌がって。無い。それには。口出さん。それ。水川の。問題。そうじゃ。なくて。傷。見て……違う……見ても。いいか? そのついで。話し。どうだ?」
こんな事を言うのは初めてなのか、照は途中で言葉に詰まっていた。そのうえ照は、日本語を学んで日が浅いのか、単語を切って話している。言葉は明瞭だが、聞きにくかった。文人がきょとんとしていると、照はさらに続ける。
「お前。分からん。だけど。デタラメ。違う。だから。聞く」
そこで文人も話が飲み込めてきた。照は文人が理解できない。だから話を聞きたいというのだ。文人は笑うと、閉めたばかりのドアを開けて、照を招いた。
「ちょうど暇だったんだ。入れよ」
「邪魔。する」
照は文人の部屋に入る。そして文人を振り返った。その顔はまるで屠殺場に案内されたかのように、嫌悪に歪んでいた。文人が何事かと、部屋内を覗き込む。すぐに文人の顔も、屠殺場で処分される生物を、見たようなものに変わった。中ではファウストがチェス盤を広げていた。
「次は貴方の番ですよ」
ファウストは序盤の駒からポーンを選び、一つ前に進めて文人へ手を差し伸べた。文人はファウストを無視し、窓の鍵を調べる。窓はしっかり施錠されていた。
「お前どこから入った?」
文人は腰に手を当てて、ファウストを振り返る。ファウストは笑みを絶やさぬまま、そっと本棚を指した。
「それはそうと、本を返しておきましたよ」
文人は今度、本棚へと飛びかかる。そしてピンク色の本をひったくると、ベッドの布団を捲り、その下に捻じ込んだ。
「ふわ……? それか? エロ本――」
目ざとく本の表紙を見た照が言う。文人は素早く照ににじり寄り、顔を突き合わせた。それは無表情だったが、下手な憤怒よりも恐ろしいものがあった。
「照。ここには何もない。OK? じゃないとお前が日本語苦手なくせに、エロ本なんて単語知っている事を皆に言いふらすぞ」
照は文人の剣幕に、首を激しく縦に振った。
「早くして下さい。あまり時間がかかるようなら、対局時計用意しますよ」
呑気なファウストの声が、文人の意識を部屋へと引き戻した。部屋の床ではファウストが正座をして、文人の一手を期待の眼差しで待っている。まるで旧来の友人のようにだ。そこに一片の後悔も、罪悪感も見て取れない。文人の腹の中で、沸々と怒りが込み上がって来た。
「お前……あんな事しておいて、よくのうのうと顔を出せたな……」
「でも無事に帰れたじゃないですかぁ~」
ファウストはいけしゃあしゃあと言う。そこで文人はふと思った。
「ひょっとして……手伝ってくれたとか?」
ファウストが退路を断ったおかげで、進まざる得なくなった。だがそのおかげで詩舞姫は、頂上に辿り着くことが出来た。照と輝夜、響子を巻き込んだが、話すきっかけが出来た。よくよく思い返してみれば、あのハプニングのおかげで全てが好転しているのだ。
ファウストは笑みをより深めて立ち上がった。そして例の羊皮紙と羽ペンを取り出すと、チェス盤を蹴り飛ばして文人に早歩きで近寄っていった。
「ええ。その通りです! ですから私の夢も叶えてくださぁい!」
文人は叩き付けるようにしてドアを閉めた。
「やっぱアイツは駄目だ」
「皆。知ってる。俺の。部屋。行くぞ」
文人は照と並んで、寮の廊下を歩いた。廊下の白熱電球の下、二人は無言だった。多くの部屋の前を通ったが、そこから何も聞こえてこない。たまに衣擦れや、鉛筆が紙を引っ掻く音がするだけだった。
文人は隣を見る。そしてまた照と目が合った。照は何故か顔を赤くして、言いにくそうに上下の唇をすり合わせた後、声を絞り出した。
「出来れば。あれ。貸して。くれ」
文人はそれを、照の気使いだと思った。
「変な同情するな。どうせ俺は変態だよ」
「ここに。ポルノ。ない」
そこで文人は、照も自分と同じ思春期の男だという事を思い出す。
「さいですか……あれが部屋から出ていったらな」
明日もこんな日であればいい。文人はそう思っていた。
*
翌朝。文人は照と共に寮を出て、登校した。お互いが相手に忘れ物の有無を聞き、施錠の確認をした。道中も当たり障りない会話に花が咲いた。小さな変化だが、大きな一歩だった。
文人と照は教室に入り、互いに席に座ると、そのまま談笑を続ける。それはありふれた日常会話だったが、教室にいる他のクラスメイトの気に触ったようだ。
周囲の刺すような視線に気づいた照は、少し声のトーンを潜めるようになった。
「気になるか?」
文人は照に囁く。照は浅く頷いた。
「まぁ。な。でも。昨日。話し。聴いて。分かった。彼の者。来るまで。待っても。何も。始まら。ない。せっかく。同じ。境遇。仲間。いる。だからやる。それは。分かる」
照は口元を引き締めているのか、そこを覆うマフラーが大きく動いた。
「けど。浮いて。最後に。残った。場所。ここに。居られなく。なる。それも。怖い」
照はそれっきり黙り込んでしまった。文人は教室を見渡した。すると刺すような視線は、まるで最初から無かったかのように消える。しかし文人が机に視線を戻すと、刺々しい雰囲気が息を吹き返した。雰囲気は文人たちを監視するように、しばらくまとわりついた。だが文人たちがしばらく黙っていると、幻のように霧散した。
現状を変えるのは、難しいのかもしれない。長い歴史が、変えようのない定めが、血のような染みとなり、この島に根付いているのだ。そして誰もがその染みを落とそうと思わず、黒子のように体の一部になることを望んでいるのだ。
「迷惑になったら、言ってくれ」
文人は照に、それだけしか言えなかった。
「俺……卑怯……」
ぼそりと、照の呟いた言葉が、文人の耳に届いた。
(俺もな。伝承者だ。そんな事ないって、お前を引き留めないのも、後ろめたさがあるからからだろうな……)
文人は机の上に置いた手を、やりどころのない怒りに握りしめた。廊下からキャスターの転がる音がする。しばらくすると、タライに乗る詩舞姫が、教室に入ってきた。
「詩舞姫。おはよ」
文人は詩舞姫を振り返った。そして眉をひそめた。詩舞姫はいつもの貝のブラジャーをつけておらず、白いワンピースを身に着けていたのだ。ワンピースは撥水性が高いのか、表面がエナメルのように光を反射し、水に濡れても透ける事がない。詩舞姫の髪を滴る水の雫は、服の表面を滑って、タライに張った水に戻っていった。
詩舞姫は文人の文人がじろじろ見ていることに気付くと、服の裾を摘まんで顔を赤らめた。
「この服……変かしら?」
「いや……それは似合っているけど。昨日の今日で服が変わったから気になって。どうした? 身体の調子が悪いのか?」
詩舞姫は顔の前で、手を左右に振って見せる。
「やぁね。ンな訳ないでしょ。アタシはそんなにヤワじゃないわよ」
それでも文人の顔は晴れない。
「貝のブラどうした? まさか昨日ので割れたとか」
詩舞姫はいらいらと、尾で水面を打った。
「次その話したら私もふわふわ話すわよ。今日はちょっと寒かったからよ。『濡れてるから寒いの平気だろ』なんて言ったら、海底火山に引きずり込んでやるわよ。池は気温より暖かい事があるんだからね」
「それ俺、半年前に言ったな……だから嫌われたんだな……」
教室の窓際で外を眺めていた新藤が、ぼそりとこぼす。文人たちの視線は、一瞬新藤に集まったが、無視して話を進めた。
「気分が悪いのか?」
「そうね。大丈夫だってのに、この話題を続けるからね」
詩舞姫は気分を害したのか、がむしゃらにタライを漕いで、自分の席に着こうとする。文人は立ち上がると、タライを押して手伝った。
「昼飯どうする?」
文人は詩舞姫を机の前まで連れて行くと、何気なく聞いた。返事が無いので下を向くと、詩舞姫がじっと文人を見上げている。その顔は呆けていて、動悸が上がっているのか、頬が微かに上気している。しかし呼吸はおちついていて、彼女はゆっくりと胸を上下させていた。
文人は詩舞姫の注意を引こうと、タライを揺すった。詩舞姫は目を白黒させつつも、我に返った。
「今ボーとしてただろ。やっぱり調子悪いのか?」
「別に。昼に何食べようか考えていただけよ」
詩舞姫はばつが悪そうに俯く。そして手で、へその辺りを撫でた。文人はその仕草を見て、月の物が来たのだと思い込む。あまり彼女に負担をかけまいと、さっとタライから離れた。
「じゃ、また昼にな」
詩舞姫は唐突に離れた文人に追い縋ろうと、手を伸ばした。
「あっ……アタシ――」
教室のドアが開く音に、詩舞姫の声はかき消された。教室に司馬懿が入ってきて、それ以上の会話の機会を失う。詩舞姫は仕方なく伸ばした手を、へその上で硬く握りしめた。
「ホームルームを始めるぞー……」
司馬懿が教壇に立ち、出席簿をめくり始める。寝不足なのか、司馬懿の声には覇気がなく、眼には隈ができていた。文人は彼女が出席簿と一緒に、一般書を持っていることに気付いた。本の背表紙には、『ツッコミ入門』と書いてあった。
*
四限目の終業ベルが鳴った。科学を受け持つ鯖戸が教室を出ていき、英雄たちも昼食を取るため、のろのろと席を立った。
普段は授業の緊張が解けて、場を気だるさが支配する。しかし一部の生徒たちは、開放感に頬を緩ませていた。文人は照を誘って、詩舞姫の元に向かう。響子はそれを目にして後をついて来る。ファウストは呼んでもいないのに、当たり前のように寄ってきた。こうして開放感を持つ生徒がほとんど集まった。
「よーし。そいじゃ食堂行くか」
そこでファストが困ったような顔をして、手に持つ包みを掲げて見せた。
「申し訳ございません。私、今日お弁当なんですが……」
詩舞姫がぎろりと、ファウストを睨み上げる。
「お前は独りで食え。アタシらの半径五十メートル以内に入って来るな」
文人はファウストから逃げるようにタライを押す。そこで視界の端に、こちらを窺う輝夜を捉えた。彼女は表情を、羨望と危機感の合間で揺らしている。昨日同じ体験をした者同士、仲間外れにされるのが寂しく、しかし一緒に行動するのは怖いと思っているのだろう。
文人は一応声をかけた。
「輝夜も一緒にどうだ?」
輝夜は予想外の出来事に目を丸めた。しかし意を決したように口元を引き締めると、こくりと頷いて、文人たちの輪に加わった。
「ええ、ではご一緒させて頂きます」
こうして一同は食堂まで来た。彼らは長机の一つに陣取る。そして輝夜と詩舞姫を長机に残してカウンターへと向かった。文人はそこでポケットを漁り、財布を取りだそうとした。しかしポケットに何も入っていない。文人は慌てふためいて、自分の身体中をくまなく探し回った。
「どうした?」
照が心配そうに、顔を寄せて来る。
「いや、財布が見当たらなくて……確かに持って来たはずなんだけど……」
貨幣がじゃらつく音がした。文人たちの視線は自然と、その方を向いた。
「思ったよりシケてますね」
ファウストが文人たちから離れたところで、黒いがま口財布を漁っていた。文人の財布だ。
ファウストは悪びれる様子もなく、文人の財布を懐にしまい込む。代わりに契約書の羊皮紙と羽ペンを取り出し、自分の弁当包みと合わせて文人に差し出した。
「お金は大事にしないと駄目ですよぉ。代わりに私の愛情がこもったお弁当をどうでしょうか? 節約できて栄養満点。ささ、この契約書にサインを。その時が来るまで私がお弁当をご用意しますよ」
文人は飛びかかる直前の獅子のように、足に力を込め、構えた拳の爪を立てた。照も弓を構える。響子もノリに合わせてか、パンツからばちを抜いて構えて見せた。
「よかろう。俺の憎しみをたらふく食らうがいいわァ!」
文人が気合いの雄叫びと共に、ファウストに飛び掛かる。ファウストは文人のタックルをひらりと躱し、哄笑を上げながら食堂から逃げていった。人のいない廊下に出た瞬間、照の矢がファウストに射られた。彼はそれも蝶のように躱して、廊下の向こうに消えていく。文人たちはファウストを追って、食堂を出ていった。食堂に残された詩舞姫は、文人たちに叫ぶ。
「ちょっと! 昼食どうすんのよ!」
「財布がなきゃ食えねぇだろうがぁ! もう許さんぞ貴様! 絶対に許さん! 貴様よく考えたら詩舞姫に謝ってねぇだろ! この畜生がァァァ!」
文人の絶叫が、廊下の彼方に消えていく。
「それくらいアタシが出すってー! て……もう聞こえないか……完全にキレてるわ」
詩舞姫は溜息をついて、タライの縁に寄り掛かる。そして意見を乞うように輝夜を見上げた。輝夜は詩舞姫に微笑み返し、財布を取り出してカウンターに足を向けた。
「では、私が並んでおきますよ」
詩舞姫は輝夜の袖を摘まんで引きとめた。
「いいよ。待っていようよ。今日はなんか人が少ないし、売り切れとかなさそうだから……そう言えばなんでこんなに少ないんだろ……」
詩舞姫は普段と異なる雰囲気に眉根を寄せる。いつもなら食堂は、もっと人でごった返しているはずだった。しかし今日は人の入りが少なく、異様に閑散としている。照が遠慮なく矢を放てたのもそのおかげだ。さらに食堂の長机についているのは、ほとんどが教職員で、いつもなら大多数を占めるはずの生徒を上回っている。
詩舞姫は不安を覚えて、注意深く食堂内に気を配った。いつもなら倦怠感溢れる食堂には、妙な緊張の糸が張られている。詩舞姫はこの雰囲気を、過去何度か経験したことがある。英雄を英雄足らしめる、存在が来襲する予兆だ。
「輝夜……きっと彼の者関係だよこれ。早くここを出よ」
詩舞姫はそこまで言って息を飲んだ。ブラウスで隠した刺青がチクチクする。
(ひょっとして……アタシ……!? え!? 文人が相手じゃないの!? ていう事は王子様が来たってこと!? アタシを迎えに!?)
詩舞姫の背筋は凍り付く。彼女は文人がそうだと思っていた。そしてそれなら仕方がないとも、それでもいいとも思っていた。あの濃密な時間を共にし、心を許した相手なら、悲劇のヒロインでも笑って演じられると思っていたのだ。だがその覚悟や達観を全てぶち壊されて、得体の知れない何かが来ると思った瞬間、彼女は頭の中が真っ白になってしまった。
詩舞姫は逃げようとした。この底知れない恐怖、悍ましい現実、認めたくない運命から。とにかく文人に会いたかった。そうすれば笑えると思った。震える手がオールを掴む。そして希望に向けて漕ぎ出そうとした。
ちりん――と、上品な鈴の音が響いた。
詩舞姫は固まった。音は目と鼻の先でした。もうすぐそばに来ている。いつの間に現れたのだろうか。廊下から誰かが入ってくる気配はしなかった。しかし驚くに値しない。突如にして現れ、奇跡を起こし、英雄を連れて去っていく。それが神代の住人(彼の者)なのだ。
「お迎えに参りました」
詩舞姫の手からオールが落ちた。彼女は目に涙を滲ませつつ、恐る恐る顔を上げた。
そこには神輿と、男たちがいた。男たちは全員で七人。四人は上半身裸の筋骨隆々の男で、神輿を支えている。二人は警護役なのか、束帯に太刀を佩き、弓矢を背負っていた。彼らは神輿の両脇を固めて、油断なく食堂に視線を走らせている。残りの一人も束帯姿をしていた。彼は武装してらず、神輿の先頭に立ち、笏を手に恭しく頭を下げていた。
先頭の笏の男は顔を上げると、詩舞姫を無視し、真っ直ぐ輝夜の方を向いた。
「参りましょう。輝夜姫」
輝夜は最初、狐に化かされたかのようにぽかんとしていた。やがて事態を把握できたのか、皮肉気な笑みを顔に貼り付けると、会釈し返した。
「あ……はい……御勤めご苦労様です」




