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昔々……  作者: 水川湖海
12/35

12.承章の6

「ここ。だぞ」


 やがて一同は森を抜けた。風が吹き付けてくると同時に、陽の光が全員を包み込む。文人はその風圧と眩さに、手で目を覆った。だが詩舞姫の歓喜の声に、ゆっくりと手を降ろした。


 文人たちは、展望台に立っていた。下から仰ぎ見たあの場所に立ち、眼下に広がる街並みや、彼方まで続く海、そして広がる空を臨んでいた。文人がここに来るのは、試しに上ったのを含めて三度目だ。しかし人と来る事は格別で、新鮮な気分だった。照もここに来るのは初めてなのか、感嘆の息を吐いている。輝夜も固唾を飲んで、じっとその光景に圧倒されていた。


「文人! 手すりまで行って! お願い!」


 詩舞姫は遠巻きでは物足りなくなったのかそう言った。文人は手すりまで歩き、輝夜と照がその両隣に並ぶ。そして皆でその景色に魅入った。


「空を飛んでいるみたい……」


 詩舞姫がぽつりとこぼした。そして広大な世界に吸い込まれるように、意識を解き放っていた。しばらくすると文人たち足のある者は、景色に飽いてしまう。彼らは行こう見ようと思えば、いつでも望めるのだ。だからその視線は景色を離れて、詩舞姫の方へと移っていった。


 詩舞姫は表情を蕩けさせて、風を泳ぐように浴びている。彼女の身体は陽光と風で、乾いていっているのだが、いつもよりも潤って見える。それは足があっても、自分だけでは拝めないもので、三人はそれに魅入っていた。やがて詩舞姫が、皆の注目を集めている事に気付き、恥ずかしそうにしかめっ面になった。


「な……何よ……」


 照と輝夜が、何事も無かったように眼を反らす。詩舞姫は残された文人を、拗ねた眼で見上げた。


「いや、身体が渇いてきたから、そろそろタライに入れようと思って」


 文人は誤魔化すように言うと、展望台の隅に設置したタライへと向かった。そして固まった。


「み……みんな何してんの?」


 タライでは、響子が身体を洗っていた。彼女はタライの中で、仰向けで横たわっており、溢れる泡に埋もれている。そして泡の中から顔だけを出して、困惑していた。


『こっちの台詞だァァァ!』


 文人、照、詩舞姫が声を揃えて絶叫した。響子は泡の中から、スポンジを握った手を出した。


「いや……来てすぐ景色に見とれてたから……声かけちゃあ悪いかなぁ~って」


「そうじゃねぇよ! 何でココにいて、タライで身体洗ってんのって、聞いてんの!」


 文人は地団太を踏む。


「知らないの? 私毎週土曜日の夕方に、ここで自然と一体化しているの」


「知らなかったし知りたくも無かったよ! しかも今日は日曜日! 日曜日だから! 土曜日は昨日だから!」


「あ、そうなの? 私気絶していたみたい」


 響子が泡の中から立ちあがる。そして抱負を語るスポーツ選手のように、笑いながら拳を固めて見せた。


「なんで気絶……分かった俺が悪かった! ごめんなさい! 後で土下座して足だって舐める! だからタライから出てくれ! 詩舞姫が――いや出るな! まず服を着ろ!」


 文人は響子の握っていたスポンジが、彼女の虎柄パンツだと今更ながらに気付いた。響子はやれやれと言った様子で、服を身にまとう。その時響子の恥部を隠す泡が剥がれ落ちたので、詩舞姫は反射的に文人の眼を、手で覆って隠した。


 響子がタライから出ると、文人は詩舞姫を抱えたまま、入れ替わりに中を覗き込む。タライは泡で溢れていて水面が見えない。文人は息を吹きかけて泡を飛ばす。泡の下では異常に汚れた水が、渦を巻いていた。水は緑色に変色し、粘度を持って泡立っている。どうやら泡の正体は入浴剤ではなく、この粘液の副産物の様だ。水は緑色なのに、泡が白いという奇妙さから、水には触れる事すら躊躇われた。


「お前力太郎の因子持ちなんじゃねぇのか!? 水ほぼヘドロになってんじゃねーか! 校長のプロテイン思い出しちまったじゃねぇかコノヤロー!」


 文人の叫びに、響子は申し訳なさそうに頭をさする。


「ごめん……つい……」


「何が『つい』なんだ! 『つい』でこんなになるのか!? 誰か俺に分かるように説明しろォォォ」


「鬼のパンツを洗ったんじゃないでしょうか?」


 いつの間にか、ファウストが文人の隣に並んでいた。彼はタライを覗きながら、考えるように顎をさすっている。文人はすかさず森の奥を足で指す。


「お前はお呼びじゃねぇ! 今すぐどっか行け!」


「まぁそう仰らず。ホラ。コレがいるんじゃないんですかぁ? 水が無いと大変ですよぉ」


 ファウストは上着を裏返して、内ポケットに差してある羽ペンを、文人にちらりと見せた。文人は歯ぎしりをして唸る。詩舞姫もありったけの憎悪を込めて、ファウストを睨み付ける。


 その様子を見守っていた響子は、ポンと手の平を叩いた。


「あ? あー……あ! 分かった。水がいるのね? 今出すからちょっと待ってなさーい」


「な……何の水? どこから出すの? 止める奴いないんだから自重しろよ……」


 文人は思わず聞いてしまう。響子の奔放で開放的な性格から、あまり良い期待は出来ない。だが響子は文人に軽くウインクすると、おもむろにパンツからばちを抜いた。そして器用に手の中で回すと、虚空の前で構える。


 響子は思いっきりばちを振るった。すると空間が歪んで、ばちの一撃を受け止める。まるで見えない太鼓がそこにある様だ。そして空間が歪むと紫電が迸り、天に昇っていった。響子はその一撃を皮切りに、舞いながらばちを振るい続けた。すると発せられる紫電がより大きくなっていき、天のある部分に溜まりだす。やがて溜まった紫電は天を裂き、そこから黒い雨雲を吐き出した。雨雲は空に伸びていき、広がっていく。雨雲が島を覆い始めるころ、響子は裂帛の気合いと共に、大きく虚空を打った。すると虚空から雷が走り、天に溜まっていた紫電を吹き散らした。天の裂け目が閉じて、雷鳴がこだました。


 そして雨が降り始めた。


 皆が呆然と響子を凝視する。彼女は得意げに胸を張ると、サムズアップした。


「私鬼だからねぇ、これぐらいは出来るよ」


「まぁ……何と言うか……助かった。ありがとう」


 文人が言う。響子は何でもなさそうに手を振って見せると、タライの前に屈みこんだ。


「どいたしまして。それとあまり降らせると怒られんのよ。タライ掃除するから待ってて」


 文人もタライに近寄り、ひとまず詩舞姫を脇に下ろした。ずっと彼女を支えていたせいで、筋肉が引きつりそうだ。腕をほぐすために、肘を何度も動かす。それから文人は、輝夜の元に走っていき、自分が羽織る合羽を彼女に着せた。詩舞姫はもちろん、響子は水着を着ているのと大差ないので大丈夫だろう。照の狩装束は水を弾いている。ファウストは何かを期待するように雨に濡れているが、彼に渡すつもりはなかった。輝夜は遠慮して、渡された合羽に手の平を向ける。


「でも……」


「いいから着ろよ。俺はどうせ汗まみれだし、服も安物だからな」


 文人はそれだけ言うと、タライに戻って、響子の掃除を手伝い始めた。


 輝夜はしばらく、興味深げに文人を見つめていた。輝夜には、詩舞姫がここまで大胆になれた理由が分からなかった。森でよく顔を合わせて話した時は、もっと消極的で投げやりだった。彼女は因子を持たないにも関わらず、持つために送られてきたから、他の英雄たちよりこの境遇に苦しんでいるはずだ。


(それがどうして――)


 文人は響子がヘドロを掻きだしたタライを、どう洗おうか考えているところだった。響子がすかさずばちを抜き、空を軽く叩く。すると文人の頭上から、滝のように雨が降り注いだ。雨の勢いが衰え元に戻ると、そこには綺麗になったタライと、うつ伏せに倒れる文人が残っている。


 響子のいつものやけくそだ。結果のためなら、文人がどうなってもいいのだ。文人が詩舞姫を山に連れてきたのも、それと変わらないはずだ。詩舞姫も振り回されたはずなのだ。だが詩舞姫は、文人を急いで助け起こした。そして響子に強く抗議している。彼女はまるで、自分の事のように怒っていた。そこで輝夜と詩舞姫の視線が合った。輝夜は何故か自分が惨めになり、そっとそっぽを向いた。


 タライの掃除が終わり、水が張られて、詩舞姫が中に入る。彼女は少し顔をしかめたが、落ち着いた様子だ。響子はばちで虚空を叩いて、今度は雨雲を打ち払う。雨雲は空に走る紫電に吸い込まれて、見る見るうちに消えていき、雨はやんだ。


 雨雲の消えた空は、茜色に塗り替わっていた。展望台からは、海に身を溶かす太陽が見える。


「日暮れですね……」


 輝夜が誰ともなしにつぶやいた。皆の視線が輝夜の後を追う。そして太陽と共に、その斜陽に心を溶かした。儚くも、美しい景色だった。


 文人は斜陽を眺める詩舞姫の邪魔をしないよう、後ろからそっと声をかけた。


「叶ったろ」


 詩舞姫はこくりと頷いた。だが不安が滲む声を出す。


「まぁ……ね。でも叶わなかったら?」


「別の方法もある。別の夢も見れる。諦めても、独りじゃない」


「綺麗ごと」


「でも選べる。出来たはずなのにって、腐るのとは違うと俺は思う」


 詩舞姫はそれ以上何も言わなかった。会話を聞いていた周りの人も、口を挟む事も、否定する事もできなかった。そして文人が詩舞姫を誘ったという事実を知っても、怒る気にもなれないようだった。自省するように顎を引き、瞳に太陽の光を蓄えるよう、じっとその眩さを見つめていた。


 太陽がどんどん溶けて、海の彼方に沈んでいく。茜色が次第に紺色に染まっていき、夜が海に蓋をするように降りて来る。


「帰る。か」


 太陽が完全に、海の彼方に消えるのを見送ると、照がそう言った。文人は詩舞姫をタライから掲げ上げる。そして先導する照の後に続いた。


 帰り道も登山道を用いず、森を横切ることになった。登山の時と違い、皆の雰囲気は夜を仄かに照らすほど明るく、口も軽くなっていた。軽い談笑を交えつつ、一同は歩いていく。話しは響子の休日の過ごし方に始まり、照の狩に続く。そして会話を邪魔しようとするファウストへの愚痴や、詩舞姫の災難などにも話題は及んだ。その時彼らは、惨めな日常を思い出させるはずの日常的な話題が、楽しくてしょうがなかった。やがて詩舞姫の住まう池が見えて来る。文人は詩舞姫をそっと池の中に下ろすと、大きく伸びをして疲弊した筋肉をほぐした。


 詩舞姫も一旦水中に潜り、全身を潤わせる。そして水面に顔を出した。見上げると、ほっと息をつく文人がいる。全身を雨で濡らし、少しきつめの汗の匂いがする。ズボンは泥で汚れて、シャツはそこら中に葉っぱがついていた。詩舞姫は少し気が咎めた。


「お疲れさま。何かごめんね」


「詩舞姫こそ、お疲れ。俺の方こそごめんな。それと……」


 そこで文人は口を開いたが、息を吐くだけで何も言えなかった。詩舞姫は文人の顔に浮かんだ不安を読み取り、彼が何を言わんとしているか察した。詩舞姫は満面の笑みを浮かべた。


「また来週ね」


 文人は内心を悟られて、情けなさそうに頭を掻く。だがふっと笑うと、強く頷き返した。


 文人は詩舞姫に別れの挨拶をすると、池を離れていった。輝夜がすかさず文人に駆け寄る。そして身に纏う合羽の裾を引っ張った。


「あのう……語部さん。合羽は後日、洗ってお返しします。ありがとうございました」


「別にいいよ。寮で干すから」


 文人は合羽に手を伸ばす。しかし輝夜はその手から逃れて、頑なに合羽を渡そうとはしない。


「いえ。そういう訳にはいきません。綺麗にしてお返しします」


 詩舞姫の目の前で、文人と輝夜が小競り合いを始める。詩舞姫はそれを微笑ましく見守っていたが、次第に腹が立ってきた。


(輝夜……アンタ教室で無視したくせに……)


 割って入ろうにも、詩舞姫には足がない。注意を引くため水面を叩くが、二人はお互いに集中していて気付かなかった。仕方なく、詩舞姫は大声を浴びせた。


「日も暮れたし、輝夜に任せてとっとと帰ったら? どーでもいいけど家の前で騒がないで」


 その声は詩舞姫の意図に反して、刺々しくなった。文人と輝夜が小競り合いを止める。二人は気まずそうに詩舞姫に手を振ると、照たちと合流して、寮へと続く道を歩いていった。


 詩舞姫はその後姿を見送る。途中文人や輝夜、響子が振り返っては手を振ってくれる。だが詩舞姫は取り残されたような思いを抱いて、寂寥としたものを感ぜずにはいられなかった。同時に不安が胸を突いた。帰り道で、文人が輝夜や響子と話しているのを想像するだけで、あまりいい気分がしない。文人の興味がその二人に移り、足のない自分が池に取り残されるかもしれない。詩舞姫はすぐに思い直す。文人はそんな人間ではない。自分を物のように扱ったりはしないだろう。


 不意に、詩舞姫を眩暈が襲った。彼女は方向感覚を失い、池の中に倒れ込む。眩暈はすぐに頭痛に代わり、詩舞姫の頭を割ろうとした。あまりの痛さに手足が痺れ、吐き気が込み上げてくる。詩舞姫は蹲って痛みに耐えていた。そして彼女が、緊急用の有線通信を使おうと思った矢先、痛みは波のように引いていった。


「やっば……ちょっと無理しすぎて丘に出過ぎたかな……まぁ楽しかったし、あれぐらいの無茶はねぇ……フフフ。それにこの事言ったら、もう少し構ってくれるかな……」


 水の中に沈みながら、彼女は独りごちる。痛みは引いたが、身体に異変が無いとは限らない。干上がったせいで、鱗が禿げたり髪が抜けたりする人魚を、詩舞姫は多く見て来た。念のため異変が無いか、彼女は水底に設置してある姿見の前に立った。


「え……?」


 詩舞姫は鏡に映った自分を見て絶句した。詩舞姫の腹には涙の雫と、それを取り巻く王冠の刺青が浮き上がっていた。

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