10.承章の4
詩舞姫と文人は登山を再開する。そして、六合目にあるタライまで辿り着いた。そこは森の中にできた小さな広場で、隅に丸太を組んで建てられた、ぼろい山小屋がある。タライはその中だ。
文人は入り口に詩舞姫を寄り掛からせて、山小屋の中に入った。山小屋の中は板張りになっている。中央には囲炉裏があり、それを取り囲むようにむしろが敷かれていた。雑魚寝を想定しているのかベッドは無く、小屋の隅の方に座布団と毛布が積み重ねられている。小屋の天井には蜘蛛の巣が張り、文人が起こす空気の乱れで、ゆらゆらと揺れていた。
文人は小屋の奥にある、炊事場に向かった。そこには石の釜土と流し台が備えられてある。長い間使われていないのか、どちらも埃にまみれ、泥が底の方に溜まっていた。文人はタライを隠した釜土を開けた。そしてぎくりとした。
中にタライはない。代わりに一枚の和紙が置いてある。手に取ってみると、汚い習字で「いなりさんじょう」と書かれていた。
「おいおい……洒落にならねぇぞ……」
文人は山小屋から飛び出し、詩舞姫の所に戻った。詩舞姫はペットボトルの水で、身体を濡らしている。表情には出さないが、やはり干上がって辛いのだろう。文人は彼女に和紙を見せながら頭を下げた。
「水川! ごめんミスった!」
詩舞姫は和紙を目にすると、顔を強張らせて唸った。彼女は文人の手から和紙をひったくり、びりびりに引き裂いた。
「あの糞ガキ~!」
「すぐ降りる! ごめんな、こんなことになって」
文人は急いで詩舞姫を抱え上げる。そして来た道を引き返し始めた。詩舞姫は強張った顔を、切なげに曇らせた。彼女は文人の肩を叩いて注意を引くと、頂上へと続く道を指し示した。
「え……せっかくここまで来れたんだし、もうちょっと進んでみようよ」
文人は詩舞姫の指す方を見もせずに、首を横に振った。詩舞姫を抱える手が、鱗の手触りの変わった事に気付いていた。
「そういう訳にもいかない。鱗がかぴかぴになってるし、これ以上は危ないよ」
詩舞姫は健全さをアピールするように、自分の胸を叩いて見せる。
「アタシならヘーキヘーキ! 頂上にもタライ置いてあるんでしょ? そこまでいけば大丈夫だって」
正直、詩舞姫の心は踊っていた。それまで抑え込んでいた感情が溢れ、心に満ちていったからだ。同時に彼女はこれが、特別な一瞬だとも思っていた。次なんてないと分かっていた。文人が今の活気を失うかもしれない。誘ってくれなくなるかもしれない。因子によっていなくなってしまうかもしれない。だから詩舞姫は今、もっと欲した。
詩舞姫の訴えに、文人の足は止まる。だが顔は依然渋いままだ。
「でもごんの馬鹿がひっくり返していたら、どうしようもないだろ。あのポンダヌキに邪魔されないようにして、また来ようぜ」
文人はそう言うと、詩舞姫の返事を待たず、山を下り始めた。詩舞姫は落胆して俯く。今までの気持ちが、現実に引き戻されて醒めていく。自分をあれだけ満たしていた感覚が消えたせいで、心にぽっかりと穴が空いたようだ。結局私は何もできない。詩舞姫は痛感する。彼女は未練がましく、文人の肩越しに『その先』を見つめた。文人はそれに気づいて、一度だけ登り道を振り返った。
「来週な。次はきっと夢が叶う。今日だってここまで来れたんだ」
「私の力じゃないしぃ……アタシ一人じゃどうしようもないしぃ……自分で来れなきゃ意味ないしぃ~」
詩舞姫は拗ねたように、唇を尖らせる。そして魚のヒレで空を蹴った。文人は首を振った。
「俺だって一人じゃどうにもならなかったさ。詩舞姫がノッてくれたから、俺だってここまで来ようと思えたんだよ。独りじゃ何やっても虚しいだけだし、多分腐って何もしなかったと思う」
詩舞姫は訳が分からない様に、目をぱちくりさせる。そして軽く鼻で息を吐いた。
「そもそも何で、アタシの夢を叶えようと思ったのよ」
「それぐらいしか、明るい話題無いからさ。ここの皆。いつ来るか分からない運命に、塞ぎ込んでいるじゃないか。何話したってそれが脳裏をかすめて、気不味くなる。それで気分も腐るのかなぁって。だから何か楽しい事をして、いい現実を作って、笑えたらなぁって」
「この前も言ったけど、そうなると先を望んじゃうのよ。もっとって。終わるのが辛くなるの」
その後の(実際今もそうだし)という言葉は、咽喉から出なかった。少なくともごんが台無しにするまでは上出来だったからだ。だが少し怒気を孕んだ詩舞姫の言葉に、文人は少し黙った。そしてすまなさそうに眦を下げた。
「うん。気持ちは分かるけど、俺は何もしないまま、ただ待つのはどうかなと思う。思い残しても、気掛かりでも、やり残しても、何も出来ないまま消えていきたくない。やるだけやったって、例え定められた人生でも、自分を納得させたいんだ。そして出来れば……皆も……」
そこで文人の声は上ずり、かすれて発音が怪しくなった。詩舞姫は声色に変化に気付き、文人に視線を移す。そしてハッとした。文人は今までの態度からは想像できないほど、頼りなさげで、泣きそうな顔をしていた。
詩舞姫はようやく理解した。文人は何も分かっておらず、能天気に誘ったのではない。分かっていても、挑まずにはいられなかったのだ。その後の文人の台詞は、もはや自分に言い聞かせている様だった。
「せっかく生まれたんだ。クソみたいな因子とやらに、運命が定められていようと、その時が来るまで、俺は英雄じゃなくて俺なんだ。だからその時まで、神が決めた良い事より、俺が良いと思えることをしたい。だから自分が気兼ねなく笑えるように、みんなが笑えたらって」
文人は泣くのを堪えるように、唇を噛んだ。気持ちを整理するかのように、きつく瞳を閉じる。そして再び目を開くと、やるせない顔を下り坂に向けた。
「ごめん。俺がヤケクソで水川に迷惑かけたなら謝るよ。もうこんな事しない」
詩舞姫はどう返事するか迷った。文人の言葉はいつもと同じ綺麗事のはずなのに、いつもと違って詩舞姫の胸打った。少なくとも文人は、置かれた境遇と、詩舞姫に対して真摯だった。以前食堂で話したヤケクソのように、自分の為に振り回しているだけでもなかった。自暴自棄にもなっていなかった。そして詩舞姫は、ある事に思い至り、恥に顎を引いた。
(アタシってば、人生諦めたとか言って、人生に未練タラタラじゃん。だから自分と向き合わないで、皆と同じ方向いて、腐っているんだ)
詩舞姫の醒めた心が、僅かに熱を取り戻した。心から再び感情が零れる。そしてそれで心を満たすために、何かしたいという気持ちが込み上げてきた。だから詩舞姫は笑った。からからと言う、形だけでの笑いではなく、その心から零れたものを、かき集めて笑った。
「ここまで来てお預けはないわよ。また来週。約束ね。それと名前で呼んでよ。友達でしょ」
文人の顔が綻ぶ。そして陰りとして潜んでいた、泣き顔の気配が消えた。詩舞姫はそれだけで、今日は満足だった。文人も足取り軽く、下山し始める。
「諦める必要なぞ御座いません。そんな時こそ私の出番です」
突然あの凛とした声が、文人と詩舞姫に届いた。二人が声のした方を向くと、ちょうどファウストが枝葉をかき分けて、森から出て来るところだった。彼は燕尾服にこびりついた、蜘蛛の巣や葉っぱを払い落とすと、自信たっぷりに両手を広げて見せた。
「ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン」
詩舞姫の顔が真っ青になる。
「何でいるの……? 悪いけど今日だけは見逃してくれない……今日邪魔したら末代まで呪うわよ……ていうか殺すわよ! 今! ここで!」
怒り猛る詩舞姫を横目に、ファウストは悠々と懐に手を入れる。
「すいません。文人さんから借りた本を、返しに参っただけです」
彼はピンク色の本を取り出すと、二人に掲げて見せた。アレだった。文人の中で、何かが砕け散った。
「貸した覚えなんてないですけど……それに見ての通り手が塞がっていてそれどころじゃないし、仮にフリーだったらお前に飛び掛かっているし……ひとまず俺の理性が残っている内に、それ下げてくれないかな」
ファウストは「これは失礼」と会釈しつつ、懐に本を捻じ込んだ。文人は「後で返せよ」と付け足した。
ファウストは雰囲気を一新するためか、両掌を合わせて軽快な音を立てる。そして文人と詩舞姫を交互に見て、無垢な笑みを浮かべた。
「まぁ見た所お困りの様子。このファウスト、人に仕える悪魔として、微力ながら御助力致しましょう」
二人はファウストの申し出に身構えた。今までの経験から、それがろくでもない事は承知だった。ファウストはそんな二人の敵意に怯みもせずに、舌を出して空を舐めた。
「お任せください。これから物凄い勢いで、詩舞姫をぺろぺろします。主に下半身を!」
ファウストはにこやかに詩舞姫に近寄って来る。詩舞姫は全身に鳥肌を立てて、文人にしがみ付いた。
「やってみろ! ブッ殺して沖に撒いてやる! 後名前でしかも呼び捨てで呼ばないで! 文人この変態から離れて! 早くゥー!」
文人は急いで下山道に入り、獣道の中を突っ走った。だが異変に気付き、少し進んだところで立ち止まった。
「あれ……俺らって、こんなところ、通って来たっけ?」
文人に聞かれて、詩舞姫は辺りを見渡す。そして彼女の背筋は、緊張に冷えた。二人が登ってきた道は、両側を森で挟まれていたものの、天上を草木が覆うほど樹の背は高くなかった。だが今二人がいる道は、背の高い木々が空を隠し、深い森の中に誘おうとしているのだ。
文人は道を間違えたと思い、慌てて山小屋のある広場まで引き返す。しかし広場には、文人が今しがた引き返した道と、頂上へと続く登山道しかなかった。そして引き返してきた道は、紛れもなく、文人がここまで来るのに通った道だった。つまり道が変わってしまったのだ。
文人は懐から「堺島ニテ」を取り出して、必死でページをめくり始める。変化の理由が記載してあると思ったのだ。だが詩舞姫は全てを察して、ファウストを睨み付けた。
「アンタ……ッ!」
詩舞姫の怒声に、文人も本をめくるのを止めて、ファウストを見る。ファウストは笑みを絶やさず、まるで劇の役者のように悲しんで見せた。
「悲しい事です。このような不幸が起こってしまい、私も至極残念に思っております。しかし、私と契約をすれば、この不幸は痛快な冒険譚へと変貌する事でしょう!」
注目を集めるように、彼は人差し指をぴんと立てた。
「さて。御存じ私の昔話は『ファウスト』。役は人間と契約を、交わすことに御座います。内容は至ってシンプル。私はその時が来るまで、この世の享楽を貴方に捧げます。しかしその時が来れば、貴方の魂は私に捧げて頂きます。私にかかればこのような不幸を乗り越えるなぞ、容易い事です。私は空間転移が得意ですから。夢だったのですよ! 魂という対価に見合った魔力を振るうのが。しかし因子を発動させなければ、この魔力を使えないのです」
ファウストは恭しくお辞儀をする。そして指を鳴らした。ファウストの目の前の虚空が爆ぜて、煙をばら撒いた。煙が晴れると、羽ペンと羊皮紙が現れる。ファウストが手で払う仕草をすると、それらは宙を漂って、文人の目の前まで運ばれた。
「文人さん。私の夢も、叶えて頂けないでしょうか?」
文人は目の前で浮遊する、羊皮紙と羽ペンを見つめた。羊皮紙には文人も見た事が無い、文字が羅列してあり、下方には署名欄と思しき空白がある。羽ペンはアニメや漫画でよく見る、大ガラスの羽をそのまま流用したものだった。
文人はファウストを読んだことはない。だがこんな奴と旅行するのだから、ハッピーエンドにはならないと直感していた。契約をするのは嫌だ。しかしこのままでは詩舞姫が危ない。文人はまず彼女の安全を、確保しようとした。
「詩舞姫は関係ないだろ……だから彼女を避難させてから二人で話そう」
「ハイもちろんです。詩舞姫は関係御座いません。正直干物になろうが、刺身になろうが、一向に構いません。これは私と貴方の問題です。私は貴方と契約したいのですから」
ファウストの笑顔を絶やさず言う。最初から詩舞姫を人質に取るつもりだったようだ。仕方なく文人は凄む。
「ぶん殴られたくなきゃ、道を元に戻せ……」
「私を殴ったところで道は戻りませんよ。契約すれば奇跡が起きますがね」
文人は怒りに拳を握り、ファウストを視線の槍で突く。当然ファウストは、いつもの笑みを崩さぬまま、文人の挙動を見守っていた。もうこれ以上何もする気はないのだろう。
文人の手の内で、詩舞姫が少しずつ乾いていく。指の隙間から水が零れ、鱗のざらつく感触が次第に強くなっていく。同時に詩舞姫は呼吸を荒くし、肩を上下させるようになった。残された時間は少ないようだ。文人は羽ペンをひったくるようにして持った。
「インクがねーぞ」
「ご自身の手の甲を、その羽ペンで引っ掻いて下さい。一回目は出ませんが、二回目で血が出ます。それをインク代わりになさって下さい」
詩舞姫はそのやり取りに目を剥く。そして文人の手から羽ペンを奪った。
「駄目に決まってるでしょこの馬鹿!」
「うるせーな。契約したところで、魂抜かれるまで時間があるし、そん時まで出来る事があるって。俺もただで魂くれてやるつもりはねぇよ。何とかするから」
文人は詩舞姫から羽ペンを取り返そうとする。だが彼女は羽ペンを背中へと隠した。
「それをヤケクソっていうんでしょうが! ンなことされたら寝覚め悪いでしょ! アタシを巻き込まないでよ!」
「俺が詩舞姫を殺すよりマシだっつーの。分かったら羽ペン返せ」
「はァ? じゃあアタシもアンタを殺すより、ここでミイラになる方を選ぶわ」
「チクタクチクタクチクタクチクタク……」
言い争う二人の脇で、ファウストが時計の音を口真似する。詩舞姫の怒りはついに頂点に達した。彼女は羽ペンをダーツのように構えて、ファウストに投げつけた。
「いちいち癇に障るわねこの糞バカヤロー! どっかいけ!」
ファウストは羽ペンを器用にキャッチし、胸元に刺した。そして煽るような鼻抜け声を出す。
「いぃんですかぁ~? 死んじゃうかもしれませんよぉ~?」
詩舞姫はファウストを無視した。そして下半身にペットボトルの水を振りかけると、頂上へと続く道を指さした。
「文人とにかく行こ! このままだとストレスで死ぬから!」
「でも……」
文人は迷うように、遺された羊皮紙を見つめている。詩舞姫は文人の胸倉を掴んだ。
「そんなものに迷うな! まっすぐ前だけ見て! だからアンタを信じてここまで来たのよ!」
文人は意を決した。広場に入り、ファウストの横を駆けぬけ、頂上へと向けて走り始めた。
六合目より上は、登山道がさらに狭まる。傾斜も強くなり、簡素な木の階段が増えて来た。文人は全力でそれらを駆け上った。合羽の下は汗でびしょ濡れになり、四肢は疲労で痙攣した。それでも文人は必死で走り続けた。腕の中では詩舞姫が青ざめ、寒さとは違う震えに、身体を支配され始めたからだった。