1.起章
その島で今日、老人が死んだ。
齢100を超える、老人が死んだ。
暗い部屋で、看取る者もいない中、ひっそりと寂しく死んだ。
全世界の政府に、緊急事態が伝えられた。
『緊急事態発生。緊急事態発生。甲一号目標沈黙。繰り返す。甲一号目標沈黙。これは誤報でも演習でもない。甲一号目標が沈黙した。各政府は至急自国内の、甲二号目標群を確保する事――』
その報告が島から、全世界へと伝っていく。
世界の政府が、その報告に色めき立つ中、島はただ静かだった。
そこには青春を謳歌する学び舎があり、人の住まう市街があり、綺麗な自然に囲まれていると言うのに。
ただただ静かだった。
*
語部文人は、急な眩暈に襲われて、その場に膝をついた。まるで脳の奥に、いが栗を埋められたかのように、キリキリと痛む。彼はあまりの激痛に、呼吸を浅くして頭を抱え込んだ。
「何だってんだ……これから登校初日だって言うのに、幸先悪ィなチクショウめ」
文人は悪態をつく。痛みは一向に治まらない。それどころか酷くなる一方だ。文人は慌ててネクタイを緩めて、制服の上を脱ぎ捨てる。そしてワイシャツの胸元を摘まんではためかせ、新鮮な空気を送り込んだ。同時に深い深呼吸を繰り返す。
身体を冷やし、新鮮な空気を吸ったことで、文人は少し余裕を取り戻した。
「おかしいなぁ……健康診断じゃ貧血なんて言われなかったけど……」
文人は未だに続く頭痛に額を押さえながら、ぶつぶつと独り言をこぼした。彼はしばらく焦点の合わない眼で、桜の花が敷かれたコンクリートに視線を這わせていた。やがて自分の脱ぎ捨てた制服がしわくちゃになって、水溜りの水を吸っていることに気付く。どうやら水溜りの上に脱ぎ捨ててしまったらしい。文人は軽い悲鳴を上げて、制服を引き揚げた。
「初日からこれかよ……勘弁しろよぉ……」
文人はべそをかきながら制服の水を、手で握ることで絞った。
文人は、はっきり言って、賢い人間ではない。どちらかと言えば馬鹿の方だ。だから必至で努力した。努力の末、希望の有名高校に進学することが出来のだ。入学したら、それで終わりではない。文人には夢がある。今度はその夢を叶える為に、やりたい事をやろうと思っていた。その矢先にこれだ。全てが駄目になった訳ではないが、流石に出鼻を挫かれた気分だ。
文人は数分、その場に蹲っていた。次第に頭痛が引いていき、眩暈も嘘のように治まっていく。文人は緩めたネクタイを締め直し、しわくちゃになってしまった制服を腕にかけた。やるせない気持ちを発散するように、手元の制服を握りつぶす。文人は暗い気分になりながらも、立ち上がろうとした。
誰かに身体を押さえられた。
文人が驚きに尻餅をつきながら、脇を見る。スーツ姿の中年男性が、文人の肩を掴んでいた。
「君。大丈夫かい?」
男は心配そうに、文人の顔を覗き込んでくる。余程心配してくれているのか、男は緊張に顔を強張らせ、肌にはじっとりと汗を浮かべていた。
「あっハイ。ダイジョブです。ちょっと眩暈がしただけで……」
文人は男に笑いかけると、立ち上がろうとする。だが男は文人を離さなかった。それどころかより力を込めて、文人の尻を地面に押し付けさせる。
「本当に大丈夫かい? 顔色が悪いよ。ちょっと私に診せてくれ。こう見えても医者なんだ」
男は有無を言わせず、文人の身体に不躾に触った。表面を手の平で撫でまわし、そこに異常が無いと、今度は袖を止めるボタンを外した。そして袖を捲り上げて、腕を剥き出しにした。
公衆の場で肌を晒されると、流石に文人も抵抗した。
「何をするんですか!」
だが男が袖を捲り上げることで、露わになった『それ』を見ると、文人は怒鳴るのを止めて息を飲んだ。
文人の腕には、刺青が浮き上がっていた。浮き上がったという表現を使ったのは、文人は生まれてこの方、刺青を彫った記憶が無いからである。事実、今朝服に袖を通した時には、腕に何も異変はなかったのだ。
その刺青は、自らの尻尾を喰らう蛇を模したものだった。その蛇の円内に、糸と糸巻、ハサミが描かれている。際中央では刺青の目玉がぎょろついており、まるで生きているように、皮膚の上を動き回っていた。目玉は文人に気付くと、まるで好奇心を満たすように、じっと見つめた。文人は気味が悪くなって、尻餅をついたまま後退ろうとする。しかし男が文人を拘束しており、動くことが出来なかった。
男は複雑な表情をしていた。憐れみと畏怖が、ないまぜになった顔だ。しかしそこに驚愕も狼狽も無かった。まるで文人の腕にそれがあることを、薄々知っていたかのような顔だった。
男は懐から無線機を取り出すと、溜息をついてから口に当てた。
「こちらゴルフ1。新たな甲一号目標を発見した。現在確保。迎えを寄越してくれ。それと裁判所に手続きを済ませろ。大至急だ」
「ちょ……ちょっと! なんですかこれ! 一体何なんですか!? それに甲一号目標って何ですか!?」
訳も分からぬまま、事態が進展していく。どうやら男は、この刺青が何かを知っているようだ。文人は縋るように男の胸倉を掴んだ。これから新しい生活が始まるのだ。新しい学校、新しい友達、新しい授業。それなのにこんな訳の分からない事に、いつまでも足を取られていては敵わない。それに文人には夢がある。理想とする自分がある。それを現実にするために、自分のやりたいことをやらなければならない。
しかし文人の希望を全て否定するかのように、男は首を左右に振った。文人の背後で、車が止まる音がする。そしてぞろぞろと、多くの人間が降りる音も続いた。
「語部文人君。君は英雄になった。残念だが、君を『童話法第三条』により、因果関連人物として拘束し、英雄機関への所属を命ずる。抵抗はしないで欲しい」
文人の隣に、車に乗っていたと思わしき女性が、顔を出した。彼女は文人に、文字のびっしり書き込まれた書類を突きつけ、淡々と告げた。
「裁判所命令が下りました。これよりあなたの人権を剥奪します。代わりに英雄権を付与。それに則って、これ以降あなたを扱います。確保」
その言葉を最後に、文人の視界は遮られた。頭に黒い布を被せられたのだった。
*
童話法
第一編 総則
〔この法律の目的〕
第一条この法律は世界平和に基づいて、英雄因子の区分及び管理、並びに派生する英雄起因事象対処に関する事項の大綱を定め、併せて英雄機関と国際連合間の基本的関係を確立することにより、英雄機関による英雄権的にして能率的な運営を図るとともに、英雄機関の健全な衰退を約束することを目的とする。
〔英雄機関の役割と国際連盟からの援助〕
第一条の二 英雄機関は英雄因子を持つ人民の因果結束を援助することを基本として、管理下における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。
〔英雄機関の立地〕
第二条英雄機関本部及びその管理地は、どの組織にも属さない外洋上のみとし、英雄機関本部の存在する陸地より500海里を絶対不侵領域として進入を禁止する。
第三条英雄機関には、第六条で定めるところによる、『英雄因子』持つ人物、動植物、物品の所属を強制する。そして如何なる事情をしても上記を島内より持ち出すことを一切禁ずる。
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どんな過去を持ち、どんな未来を迎えようと、それは些細なことだ。
大事なのは自分の内に何があるかだ。
ラルフ・ワルド・エマーソン