天気の子 評論(ネタバレ)
もう5回ほど見に行ってしまった。しかし、見れば見るほど新しい発見のあるアニメである。このアニメは新海誠監督の、君の名に続く作品である。興行収入は君の名を越したらしい。すごい作品だ。
一貫したテーマとは、大人になるとはどういうことか、である。しかし、大人になってしまったとはどういうことか、という視点からも見ることができる。つまり、この作品は大人の視点からも子供の視点からも見ることができるのだ。
物語の舞台は東京である。家出少年の主人公が天気を晴れさせる少女に出会って、てんやわんやするストーリーとなっている。主人公が雨の中、冷たい大人たちに現実を思い知らされていくシーンは印象的だ。主人公穂高は何度も「東京ってこえー」と呟く。でも、「家に帰りたくない」とも呟く穂高は、いったいなにに息苦しさを感じていたのだろうか。そういうふうに、穂高の過去を考えさせようとするのも、うまい構成だなと思わされるところの一つだ。色々と想像を喚起させる楽しさを、新海誠監督は知っている。ゴミ箱の中にどうして銃が入っていたのかとか、須賀圭介の奥さんはどういう人だったのかなどなど、登場人物の過去をあえて伏せて、鑑賞者に考えさせる構成になっている。
特に須賀が窓を開けたシーンは解釈の分かれるところだ。罪悪感を洗い流したかったからとも捉えられるし、常識に凝り固まってしまった自分自身を洗い流したかったとも捉えられる。そして、須賀が無意識のうちに涙を流すシーンは非常に印象的だ。誰もが須賀とともに涙を流すシーンだろう。あそこのシーンは本当に良い。
最後の、晴れ女でなくなった陽菜が天に祈っているシーンも賛否両論あるのではないかと思う。そもそも、天気とは人の気分であると言われていたのだから、人がどう思おうと天気のバランスは元に戻っていくものである。もともと世界が狂っているのであるならば、陽菜が祈る行為は別に大したことはない。だから、誰のせいでもなかったと言える余地がある中で、あえて自分たちの選んだことだからというところに、常識人たるべきか狂ってでも大切にしたい価値があったのかという問題があるわけだ。
そもそも、穂高の行動そのものに賛否両論あるのではないだろうか。見方によっては、穂高の行動は人をイライラさせるものを感じる。多くの人たちに迷惑をかけまくっている自分勝手なガキだと。そう思うのは、大人の目線からの解答だろう。
一方で、子供目線で見ていた私としては穂高を応援したくなる感情だった。社会の常識とか、他人の都合とか関係なしに、愛する人を連れ戻す姿は勇敢に見えたからだ。しかし、そのせいで東京がずっと雨続きになったということは、穂高と陽菜が世界の形を変えた結果である。だから、その結果をどう考えるのかという問題があるわけだ。
周りを気にして、常識的に生きていくのか、自分のしたいことを果たすために、常識を超えて生きていくのか、新海誠監督はそういう大人と子供の狭間を考えさせようとしているのかもしれない。そして、大人にも子供にも大切にしたい価値がやはりあるのではないかと問いかける。