鬼さんこちら。猫鳴く方へ
「48、49、50。……もーいいかぁーい」
鬱蒼とした雑木林の中に少し高めな男の子の声が響き渡った。見渡す限り緑に覆われたその場所で、少年は大声で、また、問いかける。しかし、答えは返ってこない。一瞬むっと口元がゆがんだが、すぐにすぅっと息を吸い込む。腕に押し付けていた顔を勢いよくあげると、
「もおー、いいーかぁあいっ!」
空に向かって叫んだ。
少年の持ちうる声量で力いっぱいに発した声は3回目にしてようやく相手に届いたようだ。もういいよ、という微かな声を聞き取った。少年は声のした方に確かな足取りで進み始める。きょろきょろと見回している瞳は、声の主をみつけてやろう、という意気込みを秘めていた。ひょこり、くるり、と幹の後ろを覗いたり、見回したりする。また、ガサガサと草をかき分ける。そういうことを暫く続けて行った。
最初は楽しかったのに、だんだんとつまらなくなってきた。きゅっと口を結んで、歩く。視線をきょろきょろと忙しなく動かすが、その瞳に映るのは、木、木、木。なんの代わり映えもない同じような風景ばかりだ。
「あおい……、かおる……」
ぽつり、と零れる。3人で来た時はこんなにも不安になる場所ではなかったはずだ。さっきだって少なからず楽しかった。それなのに、今はすごく怖い。はやく、はやく探さなきゃ。それだけを考えて歩き回る。時折大声で名前を読んでも、返事は帰ってこない。かくれんぼをしているから二人は鬼である少年の声にこたえないのだ。鬼に見つからないように息を潜めて隠れているのだろう。それでも少年は不安を蹴散らすように、何回目か分からない呼びかけをする。――すると、少年の足元から、にゃぁ~ん。と可愛らしい返事がした。
「うひゃ!」
何度も無反応を食らっていた少年は思わぬ不意打ちにたまらず声をあげた。恐怖を誤魔化すかのように進めていた歩みも止まる。そのまま恐る恐る視線を足元に移すと、そこには黒く美しい毛並みの猫が行儀よく座って少年をみつめていた。
「なぁ~んだ。猫さんか。びっくりした」
ホッとした声音で呟くと、未だに自分を見上げる猫に合わせて腰を落とした。
「こんなところでどうしたの?」
右手を差出し、匂いを嗅がせながら問いかける。クンクンと匂いを何回か嗅いだ後、黒猫はペロリとひと舐めして少年にすり寄る。撫でてと言うかのように、にゃぁ~ん、にゃぁ~んと鳴きながら少年の手のひらに体を押し付けた。そんな黒猫の行動に、少年は先ほど感じていた不安や怖さが薄れていき、つい笑顔で話かけた。
「僕は、みどりっていうんだ、よろしくね」
まだそれほど大きくはないぷにぷにの手で黒猫の背中を撫でる。その動きに満足したのか、はたまた、翠の自己紹介に応えたのかわからないが、にゃぁ~、っと先ほどより優しい鳴声が発っせられた。
「黒猫さん、黒猫さん。僕の他に男の子と女の子見なかった?かくれんぼしてるからどこかにいると思うんだけど全然探せなくて……」
ふにゃり、と困ったような表情をして黒猫を見つめる。そんな翠を、黒猫もまた黄金色の瞳でじっと見つめ返す。突然、ふわぁっと黒猫があくびをした。翠の撫でる掌に頭を二度ほど押し付けてからくるりと体を翻し歩きだす。翠は唐突な黒猫の行動をきょとん、と見つめた。黒猫は10歩ほど進んだ距離で振り返ると翠に向かってにゃーっと一声鳴く。ゆらり、としっぽがゆっくりと揺れた。一通りの行動をみて、翠はキラキラと表情を輝かせスクッと立ちあがる。
「黒猫さん、二人の場所教えてくれるの?ありがとう!」
トトトトっと翠は黒猫に歩み寄ると、輝くような笑顔でお礼を言った。黒猫も翠を見上げながら目を細め、にゃぁ~ん。と鳴いた。
◇◆◇
黒猫のすぐ後ろを歩きながら、翠は話し続ける。そのたびに黒猫は、鳴声をあげたり、しっぽを揺らしたり振り向いたりと反応をくれた。あんなに不安だったこの場所が、今はもう何も感じない。それどころか、あおいとかおると来たときと同じくらいの楽しさを感じていた。
翠がここの林は大人たちが行っちゃダメだと言っていた、というような話をする。なぜ行っちゃいけないのかちゃんと教えてくれない。だから今日は3人で遊びに来た。そういうことを黒猫相手にぺらぺらと話す。そうして、来たことをちょっと後悔したことを話した後、黒猫の隣に歩み寄り、笑顔で
「でも、猫さんに出会えたから来てよかったって思うよ」
と伝えた。その言葉を聞いて黒猫はピタリと歩みを止めじっと翠を見上げた。その瞳は先ほど見つめてきていたのとは違って、何か獲物をみつめるような鋭さを孕んでいた。
「ねこ、さん……?」
少し雰囲気の変わった黒猫の変化を瞬時に感じ取り、翠は恐る恐る声を掛ける。ピクッ、と黒猫の耳が反応したかと思うと、いきなり走り出した。その速さは追いかけても見失うことはないくらいの速さだった。
少し遅れて翠は走る。走って走って、しばらくすると猫と出会ったところより薄暗い場所についた。そこは、夕暮れに染まる真っ赤な空が微かに幹と幹のあいだで見えるくらいで、真上は緑の葉で覆われていた。黒猫は立ち止まった翠の隣に移動するとしっぽをペシペシっと叩きつけにゃーにゃーと声を立てた。その行動からこの先に進むよう促しているのはわかるのだが、翠はなかなか進む勇気がわかなかった。
「ここから向こうにいかなきゃダメ?」
眉尻を下げ窺うような表情で黒猫に尋ねる。黒猫はニャッ、と一言短く返すだけだった。そんな黒猫の対応に翠はがっくりと肩を落として「うぅ……」と情けない声を零してゆっくり一歩踏み出した。途端、後ろから翠を呼ぶ声が二人分聞こえた。
「みどり――――!」
「みっくん!」
踏みだしていた足を基の場所に戻して振り返ってみると、翠が探していた葵と薫がこちらに向かって走って来るのが見えた。
「葵!薫ちゃん!」
翠が嬉々として2人の名前を呼んだ瞬間、今まで一度も風が吹かなかった雑木林にゴォォっと激しい風が吹いた。翠はとっさに目を閉じ腕で顔を覆うように守る。薫も立ちどまり目をつぶりながら強風から顔を守っている。葵は一瞬だけ目をつぶったが、すぐに腕で顔を守ると片目だけ開けて翠を見た。瞬間、ヒュっと息を飲んだ。翠の近くにいた黒猫が、大人の男の人になったのだ。そして、翠を背中から抱きしめ、首筋に顔を埋めながら鋭い視線をこちらに向けていたのだ。
――町はずれの雑木林に夕暮れ時に近づいてはいけない。ましてや、子供同士で遊ぶなんてことはあってはならない。猫神様に連れて行かれてしまうからね……。
葵の頭を、町の大人たちが口癖のように言っていた言葉が駆けていった。ぐっと唇を噛みしめる。今更ここに来たことを後悔したのだ。だが、今ここで後悔して黙っているわけにはいかなかった。そのままにしておけば翠はたぶん猫神様とやらに連れて行かれる。そうあってはならない。
ぐっと更に力を入れて噛みしめる。ピリッと鋭い痛みが一瞬走った後ツゥーっと葵の口元から血が流れた。力を入れすぎてしまったのだ。しかし、この痛みにより葵はこの異様な雰囲気から脱することができた。そして、未だ吹き荒れる風にかき消されないような大声で翠の名前を呼んだ。
ぎゅっと目をつぶり、強風に耐える。翠はじっとしながらも自分のところに向かっていた葵と薫は大丈夫だろうかと考えた。しかしすぐに薫の近くには葵がいるから問題ないと考え直したが、すぐに黒猫のことを思い出す。これだけ強い風が吹いているのに黒猫が自分にすり寄ってくる気配がない。腕で顔を守りながらスゥッとうっすら瞳を開いて足元を確認する。そこに黒猫はいなかった。代わりに、自分の足を挟むように大人の足が視界に入った。
(え?人の足……?)
ゾワリと寒気が背中を駆け抜けていった。それと同じくして、腰と胸あたりに腕が回される。ギュッと強い、しかし苦しくない程度の力加減で抱きしめられると、ふいに耳元に吐息が聞こえた。
ビクッ、と体をこわばらせる翠に構わず、抱きしめてくるヒトは甘く優しい声音で直接耳に語りかけてきた。
「あともう少しだったというのにとても残念だ。君は私好みだったからね。一生私のモノとして私と共に生きてほしかったのだが……。まぁ、いいさ。簡単に手に入っては面白くないからね」
ふぅっと最後に息を吹きかける。そしてそのまま首筋をひと舐めすると、ガブリと強く噛みつき離れていった。
翠から男が離れるのと、風の勢いがおさまっていくのはほぼ同時だった。そして、男は薄闇が広がる林の奥に消えていく。完全にその姿が闇と同化すると風もピタリと止まった。
葵は風が止むと同時に走りだし、翠を抱きしめる。男が噛んだであろう首元を真っ先に確認するが、そこには歯形もなにも残っていない。白雪のような肌がそこにあるだけだった。いきなり走り寄って強く抱きしめられた翠は驚いて葵になされるままだった。ようやく翠が驚きから復活したのは、遅れて走ってきた薫が葵に文句を言いつつ、翠に笑顔を向けた時だった。
「え、っと。葵、どうかした?」
「……お前、本気で、――いや、やっぱいい。なんでもねぇ」
翠の質問に葵は眉間に皺を寄せ機嫌悪そうな声音で返そうとして、すぐに言い改めた。どう考えても葵の態度から何でもないわけがないということは分かるが、問い直しても機嫌を悪くするだけだろう。そう翠は考えて「そっか」とだけ返した。
「それにしても、2人ともかくれんぼしてたんだから自分から出てきちゃダメじゃないか」
むーっと唇をとがらせながら不満そうに呟いているが、直ぐに、へらっと笑う。
「でも、よかった。このまま見つけられなかったらどうしようかと思っていたからね。――ほら、大人の人たちがここで遊んじゃダメって言ってたでしょ?だから……」
困ったように続けて言う。その言葉を聞いて薫は
「みっくん、あの言葉気にしてたの?そんなことあるわけないじゃない!ね、あっくん」
とおかしそうに笑って葵に振る。普段なら葵も意地悪い表情をして翠をからかうところだが、先ほどの光景を見たせいでそういう気分ではかった。そのため薫の振りに無言を返し、何か考えるそぶりを見せた後、「さっさと帰ろうぜ」とだけ呟いた。
帰りは翠の右腕を葵がしっかりと握りしめていた。雑木林を抜けるまで葵がピリピリしていたこともあり誰も何も言わない。そうして雑木林を抜けて人通りに出ると、掴んでいた腕を外し、雰囲気も少し柔らかくなった。ただ、それぞれの家の方向が違うことでバラバラになる十字路で、
「もう、これからはあの雑木林はいかない。いいな」
そういって別れた。薫も翠は「うん」と肯いてから別れた。帰り道一人になった翠は、葵の態度が気になったが、意地悪だけど面倒見のいい葵がそういうのなら自分たちのためなんだろうと言い聞かせる。そのうち理由を教えてくれるだろう、と。そして今度からはどこで遊ぼうか遊び場の候補を挙げていく。なにか重要なことを忘れているような気がするけれどそれが何だったのか深く考えないようにして。
住宅街のどこかで猫がひと鳴き。その声はとても甘い甘い鳴き声だった。
終わり
今回は「林」と「夕方」がテーマでした。
こういうちょーっとダークな感じはやっぱり書いていて楽しいです
翠
小学2年生 可愛い系男子 優しい
葵
小学3年生 意地悪だけど面倒見はいい 素直じゃない
薫
小学1年生 葵の妹 翠大好き