奇跡
男は小走りにやって来ると、長い行列の最後尾に立っている帽子を被った男に尋ねた。
「すみません、これは一番窓口の列ですか?」
帽子の男は答える。
「そうですよ。私が最後尾です」
長い行列は身をくねらせ横たわる大蛇のようにうねうねと広場を埋め、その先は宝くじ売り場の窓口へと続いていた。帽子の男が並んでいるのは特別に長い列で、あとの数本の列はそれほどでもない。今日がジャンボ宝くじ発売の初日で、あと1時間ほどで販売が開始されるのだろうか、並んでいる誰もが待ちわびて少し疲れたような表情をしている。
「ずいぶん並んじゃってますね。いつもはもっと早くに来ているんですが今日は出がけに用事が出来て出遅れてしまいまして」
走ってきた男は改めて行列を眺めるとボヤくようにいった。
「私も今回はゆっくりしちゃいました。でも売り切れることもないでしょうから」
帽子の男が笑って答えた。
走ってきた男も笑顔になる。
「他の売り場で買えば楽なんでしょうけどね。それは分っているんですけれど、どうしてもここじゃないと当たらないような気がして」
「分かります」
「ここの売り場が当たりやすいのはそれだけ売れている枚数が多いからであって確率自体は他と変わらないはずだとかなんとか、知人にもからかわれたりするんですが、こればっかりは気分の問題ですからね」
「そうですよね」帽子の男はおおげさにうなずいた。「私もよく家内や息子に皮肉をいわれてますから痛いほどそのお気持ちは理解できます」
「それにしても当たりませんねえ」
「当たりませんねえ」
ふたりの男は大きくため息をつくと芝居めいた悲し気な表情をつくった。
「一説によれば」帽子の男は今度は真面目くさった表情をつくっていった。「一等に当たる確率は雷に打たれたり隕石に当たるのと同じくらいだとか」
「ほう、そんなに……」
そのとき、帽子の男の前に並んでいた大柄な男がくるりと向きを変えるとふたりに声をかけてきた。
「あのう」
「え⁉ あ、はいなんでしょう?」
「ちょっとお話が耳に入ってしまったんですが」
「はい」ふたりは大柄な男を見つめた。
「私あるんですよね」
ふたりは互いに顔を見合わせると黙ったまま再び大柄な男を見つめる。
「私、雷に打たれたことがあるんです」
ふたりはまた顔を見合わせた。大柄な男は話を続ける。
「あれは小学生の頃でした。私の家のそばには小さな川が流れていて、そこでよく釣りをしていました。田んぼに水を取るための用水路だったのでしょうが小魚がいっぱい住んでいて、面白いように釣れるので暇な時間が出来ると釣り竿を手に出かけては日が暮れるまで釣りを楽しんでいました。
「ある夏の日のことです。朝からとても暑かったのを覚えています。その日も私は川面に釣り糸を垂らしていました。ところがその日はなぜか魚が全然かからず私はイライラとした気分になっていました。そうなるとセミの鳴き声も体中から噴き出しては流れる汗も不快に感じてたまらなくなってくるのです。真上から容赦なくじりじりと照りつける太陽すらも恨めしく感じてくるほどでした。すると、川の向こう側に広がる田んぼの、さらに向こうに並ぶ山の上の方で沸き上がった雲がむくむくと大きくなったかと思うとあっという間に空を覆いつくし、太陽も隠してしまったのです。辺りは薄暗くなり、ひんやりとした空気に私は生き返ったかのような心地よさを感じていました。ひと雨来そうな気配でしたが、火照った身体を冷やすのにむしろ歓迎とさえ思え、私は引き上げようとはせずに釣りを続けていました。
「そのときです、突然辺りが真っ白になったかと思うと物凄い衝撃が私を襲いました。そして意識を失っていたのでしょう、目を覚ました私は見慣れぬ部屋のベッドの上にいました。そこは病院の一室で、涙で顔をクシャクシャにしながら私を見下ろしている両親の姿を今でも鮮明に覚えています。
「後から聞いた話では、私を見つけて救急車を呼んでくれたのは近所の高校生だったそうです。彼女は突然の雨に降られ、急いで帰宅しようと大慌てで自転車を漕いでいると川辺に横たわっている私を見つけ、様子がおかしいと近づいてみたそうです。辺りには焼け焦げたような臭いが漂っていて、びしょ濡れで倒れている子供はもう死んでしまっていると思ったと語っていたと聞きました。ところが、奇跡的に私は怪我ひとつなく、次の日に念のための検査を受けて何も異常がないことが分かるとその翌日には退院をしたのです。
「夏休みが終わりに近づいた頃に、父が私の釣り竿を見せてくれました。現場に行ってみてそこで見つけたそうで、その釣り竿は間違いなく私のものでしたがその姿は私が使っていた時とはまるで違い、竹製の茶色だった竿は真っ黒で炭のようになっていました。父が黙って差し出した釣り竿を私は不思議な気持ちでずっと見つめていたのです」
大柄な男の話をふたりは黙って聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後に走ってきた男が口を開いた。
「今日はやめにします」
「え、突然どうしたんですか? せっかく並んだのに」
帽子の男は驚いて聞いた。男たちが話している間にも後ろに続く列はさらに長さを伸ばしていて、帽子の男は走ってきた男の顔と彼方に見える列の最後尾の辺りをきょろきょろと交互に見た。
「実は私も、私も当たったんです。隕石に」
「はい?」
「隕石に当たったことがあるんです、昔」
帽子の男は「またぁ」と茶化そうとしたが、隕石の男の表情にその言葉を出すことが出来なかった。思わず雷の男を見ると、雷の男はじっと隕石の男を見つめている。
「隕石に……ですか?」
「はい。子どもの頃、私は親の仕事の都合でロシアに住んでいました。ある日、何かの用事で一家揃って出かけた帰りのことです。長い時間のドライブに疲れた私は後部座席でウトウトとしていました。そのときです、運転をしていた父が『うわっ』と短く叫び、助手席の母が私の名前を叫びました。次の瞬間、私は身体がふわりと浮かぶ感触を覚えたかと思うと凄い勢いで叩きつけられました、記憶に残っているのはそこまでです。後で知ったのですが、私たち一家の乗る車のそばに隕石が落ち、その衝撃で車がごろごろと転がってしまったらしいのです。幸いに両親も私も軽い怪我をしただけで済みましたが、ぺちゃんこに潰れてしまった車の屋根を見てぞっとした気持ちを今でもありありと思い出せます。
「そんな隕石に当たったような経験をした私と、そちらのあなたのように雷に打たれた経験を持つ人物が出会うなんて奇跡的な出来事でしょう。どうしても今日買った宝くじが当たるなんて奇跡に奇跡を重ねるようなことが起こるとは私には思えないのです。ですから今日はやめにして、後日改めて買うことにします」
「それもそうですね、私も出直すことにします。宝くじは逃げませんから」
雷の男が少し悲し気な表情でいった。
帽子の男もふたりに同意した。
「私も今日はやめにします。でも貴重な経験のお話を聞けてよかった」
三人は握手を交わすと列を離れ、それぞれの方向へ去って行った。
宝くじの一等は三人の男たちの後ろに並んでいた主婦が手にした。