1話:美玲の声
光の先には見知らぬ風景が広がっていた。
角の尖った石が辺り一面に散らばっている。砂漠とは若干異なり、貧相な草と枯れた古木が点々と生えていた。動物はいない。動く物は何もない。遠くには小高い山が連なっていて、この荒地をぐるっと囲っている。
この場所に対する疑問は一切芽生えなかった。そんな事はどうでもいい。今はそんな事どうでもいいんだ。
がくりと美玲の体は膝から崩れ落ちる。
操り人形の糸が切れた様に、そのまま背中から地面に倒れこむ。その拍子に美玲の体を貫いていた剣が抜け落ちた。刀身には彼女の血糊がべったりと纏わりついていた。刀をその場に突き刺す。
俺は夢の中で、子供の声を確かに聞いた。
『能力をあげるよ』
その力で傷を塞ぐことができるのか?
どうやったら使える?
できることは必至に願うことだけだった。
「神様……助けて下さい……彼女を助けて下さい……」
何かが一瞬、光った気がした。
奇跡が起きた気がした。
美玲の口が動く。
「デビヂュダゴチュ ゴダロダョギイ」
音。酷く不快な音だった。
鼓膜を内側から引っ掻く――不協和音そのものだった。
気付いてしまった。
俺は気付いてしまった。
肌寒い風が吹く。
俺は身を震わせる。寒いから。
先程まで、とめどなく流れていた血は、固まりつつあった。
体温が消えていく。
美玲は死んだ。俺が殺した。
背後から低い声を掛けられる。
「ユナ、エ、キルト?」“お前が殺したのか?”
重々しい鎧が、倒木に腰を降ろしていた。鎧は鈍く光っていた。兜の奥、死んだ魚の片目がこちらを見る。
「エルナ、キルト? マル、ムチャ、ヤ。ダンネ」“間違って殺めたか? まぁムーチャの民だ。仕方ないこと”
彼女の不協和音とは違って、鎧の何某からはきちんとした言葉が発せられた。
そしてそれが翻訳されて頭に入ってくる。
ああ、やめてくれ。
俺はもう分かってしまったんだ。
願い。
ささやかな、あまりにささやかな願い。
エールハウスで彼女は言った。
意識が朦朧とした時に子供の声を聞いて――そしてこちらの世界に来たのだと。
美玲は俺と同じく、その子供に願ったのだ。俺とは別のことを。
彼女の願い。
『話ができます様に』
俺はポケットの中から緑黄色の石を取り出す。
水の神の守護。どうやらそれだけじゃ無かったみたいだ。
言うべきことは全部言っとけよ。
分かんないじゃないか。
恐らく彼女は、その醜い声故、願いを叶えるまで他人と話した事もなかったのだろう。どれ程の孤独だったのか。
そして、自分自身でなく『物』に力を与えたと言う意味。何処までも推測の域を越えないが……誰かに渡す為に敢えてそうしたのだろう。
そのおかげで俺はこの異世界でも言葉を理解することが出来る。
「短い命であったことは、そのムーチャにとって幸せだったろう」
鎧が俺に話しかけてくる。鎧の声はもう翻訳され無かった。直接理解できた。石の力が俺に馴染んだのだろう。
「そのムーチャに別れを告げたなら、燃やせ」
鎧から漏れ出てきた声には、体温がまるで無かった。
「な、何言ってんだあんたは!」
あまりのことに声が裏返る。
「知らぬか。その醜き鳴音ゆえ、ムーチャは神にも悪魔にも愛されなかった。呪われている。その血は大地を穢す」
「……穢す?」
「その身は呪い。まぁ早くすることだ。これ以上この地を穢すな」
「……」
鎧は落ちていた枝を拾う。その先に布を巻き付け、どろどろとした液体を垂らす。
「待ってくれ……」
油だ。ネットリとした油が美玲の白い太腿を垂れていく。美玲の体を燃やす準備をしている。
「ま、待ってくれ……ここは何処だか知らないが。きっと魔法やら神の力やらがあるんだろ?」
鎧は答える。
「生きている人間を死なない様にする力、それはあるかもしれん」
「だったら……」
「しかし死人を蘇らせる力など――無い。当然だろう?」
そしておもむろに松明に火を灯す。
「さぁ、別れを告げろ」
鎧の急かす態度に思うところはある。しかしどうでもいい。
埋葬にせよ火葬にせよ、どちらでもいいことだ。
美玲は死んだ。
穢れと呪いとか良く分からない。どうでもいい。
美玲の体を見下ろす。
美しい容姿であれば、彼女以上の者はいなかっただろう。
短い間だった。
「別れを告げなくても良いのか?」
別れも何もコイツのこと俺、ほとんど知らないんだ。
奇妙な縁で出会っただけ。
ちょっとおいしい思い出を貰っただけ。
愛してあげるって言われただけ。
それだけ。
――楽しかったです。幸太郎様はどうですか?
死に際の言葉がそれかよ。
「ま、少し楽しかったよ」
ほんとそれだけ。
砂埃が彼女の顔にかかる。
前髪が煽られる。
「そこの鎧の人……その火は俺にくれないか?」
鎧は俺に無言で松明を手渡す。
俺は彼女の体に火を点ける。その火には何かの魔法が掛かっていたのだろうか。呆気なく彼女の体は炎に包まれ、美しい体はただの灰になった。
彼女は何をしたかったんだろう。
その答えは永久に分からないまま。
俺が初めて殺した人。
俺を初めて愛してくれたかもしれない人。
さよなら。
俺は人を殺めた罪に向き合えないまま、生きていく。