1話:失ったもの。忘れているもの。大切なもの。
耳元で硬く、鋭い音が三度鳴った。
カツカツカツ。
また三度、何かがリズムを刻む。
カツカツカツ。
俺はそこで意識を取り戻した。あれは夢だったのか。夢にしては胸を貫く痛み、全身を廻る痛み、あれは本物としか思えなかった。
いや本物だ。今もその鈍い痛みを感じることができる。
そんな夢もあるのだろうか?
重い瞼を開く。
冴えない頭を叩き起こし現状を把握する。
辺りは闇。狭い路地裏に俺の体はあった。地面から伝わる微かな振動で人々の往来を感じる。
若干の熱も身体に伝わる。まだ昼間の余韻が残っている様だ。
そうだ。
俺は夜勤のバイトを終え、その帰路にあった。
そのはずなのに……。
俺は今こうして地べたにうつ伏せになっている。
何がどうなっている?
なぜうつ伏せになっている?
俺の疑問に対する答えは、背後からの声で与えられた。
「起きたか」
俺はこの声の主によって組み伏せられていたのだ。
声の主は俺の首元を掴んでいる。指は声帯を握り潰すように深く食い込んでいた。
痛みの原因はこれか……。
ちょっと力んだ程度ではピクリとも動かない。この声の主は強靭な力を有しているのだろう。俺の貧弱な体では到底抵抗できない。
カツカツカツ。
目の前を鋭利な光が過る。
勢い良く振り落とされたのはナイフだった。カツカツカツと地面を抉る。
「世の中には不運な奴も必要だ」
妙に上擦った男の声だった。
「大人しい奴だな。牧歌的。あまりに牧歌的だ。良く言われないか?」
男は耳元で優しく囁いた。生暖かい吐息が頬を撫で、俺は身を震わせる。
「まずは現状を良く理解して欲しいんだ。
ひとつ、オマエはオレに捕らえられている。
ひとつ、ここに人は来ない。
ひとつ、オレはオマエみたいなの、殺しても良いと思ってる。
オマエは地を這う虫だからな」
男は要点要点で区切る様に喋る。その度にナイフを振り下ろし、地面を刻んだ。
「どうしようも無いほどに、な?」
顔は見えないが、恐らく赤の他人だろう。声に聞き覚えが無い。と言うか、こんな危険な知り合いを持った覚えはない。俺は彼の言うとおり牧歌的なのだ。自分が弱いことは深く理解しており、平和をこよなく愛している。
「通行料だ」
男はそう吐き捨て、ナイフの腹で俺の顔を叩く。
刃はひんやりと冷たかった。いっさいの躊躇無く、簡単に人を傷つける。そんな意志を感じた。
「どっちが良い?」
何が? と問おうにも、声は出ない。
「じゃあ右な?」
だから……何が?
穏やかでない雰囲気を感じ取り、俺は必死で抜け出そうとする。が、力が上手く入らない。完全に極められている。辛うじて頭部だけを微かに左右に振ることができた。
「じゃあ左か」
そう男が呟く前に、左手には激痛が走った。口の端から泡が溢れる。骨が切断される鈍い音が脳に伝わる。
白黒赤黄と景色が明滅する。明滅に合わせて頭の中でカチリ、カチリ、カチリと音がする。
「切ったぜ。指。血が止まんねぇな」
男は静かに興奮しながら言う。
「見えるか? ん?」
男は俺の目の前で、俺のであろう指をブラブラと揺らして見せる。
左手の薬。
俺の薬指……激しい痛み……しかしそれよりも強くあったのは喪失感だった。
失った。失ってしまった。とても……とても大事なものを失ってしまった。
指……そんなものよりも大切な何かを失った。
何処から来るのかよく分からない喪失感に襲われた。
頭にはまだ靄がかかっている。
失った物が何か分からないことに対しても、強い罪悪感を覚えた。
激しい心の痛みに堪えかねて頬を涙が伝う。
俺は何を忘れているんだろう?
「これでオレの仕事は仕舞い。呆気なかったな。もっと抵抗されるかと思ったんだが。まぁ俺が強すぎるってのもあるか」
俺は罵声をあげることも、悲鳴をあげることも無かった。できなかった。
強い喪失感が俺の心を平坦なものにする。
何もかもが空虚だった。
「あぁ、そうそう。オマエ、オレと約束できるか?」
約束? どうでもいい話だ。
俺は失った……。
「約束だ。お前はオレを恨まないって約束」
恨まない? 俺から大切なものを奪った糞野郎を恨むなって?
なんともふざけた話だ。
「そうしたらオレはお前を解放してやる」
何を言っているんだ? 仕事は終わったんだろ?
そもそも何故こんな状況に陥っている? 誰か説明してくれ。
頭の中を更にかき混ぜる様に、男の声か響く。
「オレを恨まないと、約束するか? どうなんだ?」
男の語気が強くなった。
約束も何も……まずはその手を離してくれ、と頭の中で叫ぶ。
声が出ないのだ。
声帯に食い込む男の指が、それを許さない。
「ん? 答えない? そんな選択肢があるのか? 考えてもみなかった。
いやオレが考えないのは当たり前か。強者だからな。
弱者であるオマエは、よくよく考えろ?」
「殺すかもしれないぜ?」
「無視かよ。じゃあ殺すか」
死――それだけは絶対に避けなければいけない。
俺は必死に体を動かそうとする。涎が垂れる。尋常では無い量の汗が額から垂れる。
死に対して絶対的な拒絶反応があった。
死ぬ。
殺される。
それだけは絶対に阻止しなければ。
俺は小刻みに顔を左右に振る。
嫌だ! 嫌だ!
「さぁ祈れ。次はもっと強い男に生まれ変われるように、とな」
まだ何もしていない。まだ途中だ。
彼女もいない。友達もいない。
お世話になった人にまだ何の恩返しもできていない。
それに……俺には夢があるんだ。夢半ばで死ぬ。
絶対に嫌だ!
けたたましい危険信号が響き渡るが、俺の貧弱な体はそれに応じることはできない。
体を芋虫の如く捩じらすまで。
無様な姿だった。夢の中での俺はあんなに強そうだったのに。
世界に愛された英雄――エリウス。
夢と現実とのあまりの落差。
今の自分の不甲斐なさに涙の粒が大きくなる。
なんて弱いんだ……。
ボトリボトリと涙が地面を濡らした。
「悪い悪い」
男は俺を締め付ける力を少し緩めた。
「ついついね。人の絶望を見るのが堪らなく好きでさ。特にオマエみたいな愚図に絶望を与えるのがね。感じた? なかなか無い経験だろう?」
俺の首から男の手が離された。しかしすぐに声は戻らない。
「で、約束するか?」
荒い息。咽びながらも返答をしようとするが、やはり声は出ない。
幼い子供の様にしゃくりあげてしまい、声が出てこない。
「約束、するか?」
男は俺の脇腹辺りにナイフの刃先を突きつける。チクリと痛む。
返事! 今度こそ返事をしなければ殺される。
殺される!!!
カチリ。
頭の中で歯車の噛み合う音が鳴った。
「や、やぐぞぐじまずっ!」
情けなく裏返った声。
しかし、なんとか絞り出すことはできた。
男はその答えを受けて、更に喜色を浮かべた。
「分かった。じゃあ解放してやろう! 良かったな、オレもオマエも! オレは無駄に殺したくないのよ。で、オマエも殺されたくなかった。良かったな。これで済ませるオレにオマエは感謝しろよ?」
「……あっありっがとうございます」
こんな奴にお礼を言ってどうする、と心の中で情けない自分に幻滅する。
「そうだな。取り敢えず、立ってみるか?」
男は俺の背中から退く。そして俺の腕を掴み、ぐいと身体を引き上げる。
まるで産まれたての仔羊の様に脚が震えて、俺は上手くバランスを取ることができなかった。
「おいおい。ビビリすぎだろ。しゃあないな」
男は嗤って、俺の爪先を踏みつける。
靴の先が潰れる。鋭い痛みが爪先から全身へ走る。左手のソレよりも強烈な痛み。
俺は悶絶しかける。
しかしそれは一瞬だった。一呼吸置くとその痛みは消えていた。脚の震えも、左手の激痛も収まる。そして爪先の痛みまでも消える。
完全な無痛だ。こんなに簡単に痛みは取れるものなのか?
さっきとは似た様な違和感を覚える。
「どうだ?」
息を整えた所で俺は視線をゆっくりと上げていく。顔は見ないように。
「いいね、その用心深さ。もしやオレみたいなのに絡まれ慣れてる? まさかね。まぁ安心しな。この街でオレに会う事はもう無いだろうぜ? 存外に大きな街だし。そもそもお前にもう用は無いからな」
俺は至極当然の疑問を男に投げかける。
「あの……な、何なんですか? 俺はあなたに、な、何か悪いことしました? 何? え? 指? やっぱり指を切られてる……」
俺は泣きながら狼狽える。その様子を見た男が大きく溜め息をついた。
「オマエはオレに何もして無いよ。仕事。それだけ。あと、指は大丈夫だ。綺麗なもんさ。見ろこの切口。すげーよな」
いつもならこんな相手に乱暴な言葉遣いはしない。
しかし今は頭の中に靄がかかっていて、言葉を選ぶ機能は失われていた。
「ふざけるなよ!」
男を刺激する態度を取ってしまった……。
遅れて、数滴の冷や汗が背中から垂れ落ちる。
しかし男は俺を気にとめなかったようだ。
切った指を繁々と見つめてからそれを瓶の中に詰めた。
「何ですか?」
「イイじゃん。イイじゃん。結婚指輪を嵌めれるくらいには残して置いたしさ。優しいね。ね? オレはその自分の優しさに満足したし。仕事も終わったし。イイじゃん」
意味が分からない。
「取り敢えずオレは帰るわ」
それが男の最後の台詞だった。
まるで友達と別れるみたいに手を振り、去っていった。
男の後姿が繁華街の人混みの中に消えていく。
俺はただ茫然とそれを眺める。
相応の理由があるならまだいい。しかしまともな理由は教えてくれなかった。
仕事? 通行料?
「いったい何なんだ……」
深い溜息がこぼれた。