5話:この世界で生きるなら
道なき道を進む。
魔物がいると聞いていた。
そのはずだが、恐ろしい森には見えなかった。
地面には背の低い草木が生い茂り、その上に木洩れ日が幾何学的な模様を描いていた。光と影のコントラストは、風に揺られて何度も形を変えた。耳を澄ませば木々の微かな呼吸を感じる。
鮮やかな深緑色の空気は、優しく俺の体を包んでくれた。
「見よ。ウサギ草が咲いておるぞ」
グレイが指を差す。
「ウサギソウ?」
木々の隙間に目を凝らせば、遠くに白い花が咲いているのが分かった。
「ウサギは知っているか?」
「あちらにもいますから」
「うむ。それと良く似た花を咲かせる」
「へぇ」
「あれらは清流の近くを好む。休息し、水を補給しよう」
水の流れる音が俺の耳にも届く。町を流れる下流域では見ることができない、清らかな、本当に清らかな小川が水草の合間を這っていた。
「受け取れ」
グレイが何かを俺に投げる。
どうやら、ここに着くまでの合間に、グレイは歩きながらナイフで木を削り、水筒を作ってくれたみたいだ。器用なものだ。
俺は身を屈めて、清流に木筒を沈める。木筒はコポコポコと泡を吐いて水を飲み込んだ。
それから苔のむす岩に刀を立て掛け、その場に座り込む。
水辺には川の流れに沿う様にウサギ草が群生していた。どれもぴょこんと二本の白い耳を立てていた。何とも可愛らしい花だ。
どうやらこっちの兎も同じ姿形らしい。
「……ん?」
注意して辺りを見ると、外皮の美しいこの木々達は白樺なのだと気付いた。
その木の名前をグレイに尋ねると、彼は興味なさげに首肯した。
名前まで同じとはなぁ。期待はしていなかったけど、元の世界との共通点はそれなりにあるらしい。
「そろそろ行きましょうか?」
「うむ」
グレイはその巨体に関わらず、器用に木々の間をすり抜けて行く。
まるで猫、いや虎の様にしなやかな動きだった。
俺の疲労が溜まるとグレイは歩幅を狭めた。
後ろに目でもついているのか、と思いつつも、その隙に木筒の水で喉を潤した。
冷たい水が息を吹き返させてくれた。
「季節は夏、夜までに頂上へ着かねばな。獣の群れに捕まれば厄介だ。急ぐぞ?」
その言葉のすぐ後だった。
グレイが足を止める。
「匂うな」
グレイは掌を前にかざし、右から左へとゆっくり半円を描く。
その後に、淡い炎の軌跡が浮かび上がる。グレイが掌を閉じると、その炎は空気に溶けていった。
「こっちだ。念の為に刀は抜いておけ」
その行為についても、その言葉の意図についてもグレイは特に説明しない。
ただ俺は黙ってその言葉に従う。
「止まれ。あそこだ」
グレイの視線の先には、鮮血に染まる大地があった。
俺は慌てて目を背ける。
布切れと血糊と、そして死体だ。死体を見てしまった。
土色の裸体を露わにした少女の死体、その両腕は引きちぎられていた。俺が視認できたのはそこまでだ。
死臭を感じ取れなかった為、そう古くはないだろう。もしくはできたての死体の可能性もある。
「目を逸らすな。見るのだ」
「いやです……」
「この世界で生きるならば見ろ」
「いやだ」
俺は大きく首を振る。
「ならば今、我の手で死ぬか?」
グレイの語気は強い。本気だ。これ以上拒むことはできない。
「……分かりました。見ればいいんですね」
俺はゆっくりゆっくりと視線をソコに合わせていく。
「この耳とこの肌……プッカと呼ばれる小鬼だ」
グレイの無機質な声が耳に届く。
少女は人間でいうと6歳くらいと思われる。耳は上を向いて尖っていた。
顔から首、肩と視線をずらしていくと、両肩の傷口が目に入る。顔を背けたくなったが何とか堪えた。傷口から垂れ流れた血液は、周囲の草木を赤く濡らしていた。
更に胸、腰へとずらす。
「ぉえ……」
視線がソレに合った瞬間、俺はその場に嘔吐した。
両腕の傷や血だまりを見て吐いたわけではない。いやそれも十分な理由ではあったのだが。
少女の下腹部には割木が突き刺さっていた。両足の腱は切られている。
酸鼻と表すのも憚れる姿であった。
まるで人間の所業では無かった。
グレイが低い声で言う。
「まだ息がある様だ……」
てっきり死体なのだと思っていた。それほど少女の呼吸はか細かった。
この状態でも生きている……。
それが幸せであるかどうか、俺にはもう分からなかった。
生きていれば幸せ……か。
「プッカの子よ、聞こえるか?」
若干ではあるが息が荒くなった。
「もう助からん……楽にして欲しいか?」
少女は小刻みに震わせながら首を小さく縦に振った。
最後の力を振り絞ったのだろうが、見ようによっては縦に一度大きく痙攣しただけとも言えるかもしれない。
意思確認はそれだけで十分と考えたのか。グレイが大剣を握る。
大剣はその自重によって振り下ろされ、少女の首は静かに刎ねられた。
俺はその間、何の言葉も発することができなかった。
グレイの剣を止めることはできなかった。
生きていればそれだけで幸せ。
今まで抱いてきたその信念は、あまりに非力だった。
俺は少女の死体を白樺の若木の根元に埋めた。
俺の唯一できることだった。
「魔物は何故ここまで残虐なことをするんですか……?」
グレイは冷たい目でこちらを見る。
その瞳に光は無かった。
「……違う。魔物なら肉を喰らうだけだ」
魔物ではない?
ここまでのことをする存在が他にいるのか?
俺の疑問を余所に、グレイは右前方を指差す。
見ると、地面には点々と血滴が落ちていた。
「血の跡を辿るか、辿らないか。道はふたつ」
「……」
「エリウス、其方が決めよ」
血の跡を辿る意味を、無い頭で考えなければいけない。
この血は、少女のものか、犯人のものか、もしくは……
「――――!!」
遠くの方で悲鳴が響いた。
風に煽られ、木々は不気味にざわめいた。
不吉だ。
しかしこれで血の跡を辿る以外に無くなった。
人の道を歩むことを強いられた。
俺とグレイは何も言わずに走り出した。




