幕開:夢なかばにして、英雄死す
二つの大陸と大海に隔絶された孤島。その中心には小高い陵丘があり、この世で最も古いとされる神殿が聳えたっていた。
神殿の階下には多くの群衆が集まっていた。そのほとんどは裕福な出で立ちにはとても見えない。しかしこの日の為に見繕ったであろう晴れ着で身を整えている。神殿下段には騎士が大列を為して一様に跪いていた。中段には各国の王族や各種族の長達からなる貴賓が並び、上段には祭司達の姿があった。
その視線の全てが神殿の一点に集中している。
神殿の頂きには英雄の姿があった。
英雄が身に纏うは黄金色の鎧。その胸部には鮮やかな深緑の宝石が眩い輝きを放っている。どこまでも色褪せないその輝きは、彼の心を映し出すかの様だった。
神殿奥に備えられた祭壇の前では、二人の美しい少女が互いを慈しむように手を取り合っていた。少女の姿は仮初のもの。白亜の祭服を身に纏う少女が神の長たる主神アウラであり、対して漆黒の祭服を身に纏う少女が悪魔の長たる主魔バズである。相反する二柱が共に柔和な笑みを浮かべて向かい合うこの瞬間を、誰が想像できただろうか――アウラとバズの間に立つ、この男を除いては他にいなかった。
彼の英雄の名はエリウス。
永劫の時の流れの中、幾多の英雄が現れ、世界をより良い方向へと導いてきた。しかしその栄光も彼の前では霞んでしまうだろう。
今や英雄とはエリウス。エリウスこそが英雄――誰もがそう口を揃える。
彼はすべてを愛し、彼はすべてに愛されていた。
一歩、二歩と英雄が進み出る。黄金の鎧が集った大衆の目に触れる。あれがエリウスか――群衆の昂りで熱気が増していく。英雄は心地良さげに大きく息を吸い込む。
空は快晴。世界は新たな時代の門出を迎えようとしている。
英雄は大剣を掲げ、天にも轟く鬨の声を上げる。
「今ここに、永きに渡る大戦を治めたことを、エリウス=リア=ヒートハルトの名を以て宣言する」
その一言をどれほど多くの者が待ち望んできたことか。歓声が歓声を呼び、熱狂は大地を揺るがすほどに膨れ上がった。戦乱の世は終わったのだ。
英雄は歓喜に震える人々を見渡し破顔する。
──この男こそ俺だ。
神にも悪魔にも愛された絶対の英雄。
「主よ、我等は誓う――永遠の平和を。
大いなる戦火は数え切れぬ程多くの命を消し去った。我等愚かな仔羊は、傷付け合うことでしか分かり合うことが出来なかった。失ったもののあまりに多きこと。
しかし種の壁を越え、主と僕の壁を越え、我らは分かり合えたのだ。これ以上価値のあるものは無いと私は信じている。
悲しみが無い世に向けて歩むこと。互いに互いが手を取ること。
ここに泰平を誓う――」
その言葉とともに、神殿の窓辺に控えていた巫女達が花弁を投げる。白い花弁は優美な軌跡を描き宙を舞った。
そして主神アウラと主魔バズが声を揃える。ゆっくりと厳かに。
「その誓い確かに聴き入れた。迷える仔羊よ、望むならば、我等が加護を与えん」
凪の如く穏やかな声だった。
眼下に集う聴衆の中には、人の姿形から大きくかけ離れた者も見受けられる。異なる種族がこうして平和的に同じ場所に居合わせている。死者を悼む者、終戦を喜ぶ者。彼等の反応は千差万別であったが、ただ皆等しく涙を流していた。それもひとつの奇跡と言えた。
それを見届け瞑想する二人の少女達。皆もそれに習い瞼を閉じる。
この戦で命を落とした英霊への祈り。これから生まれる新たな命への祈り。生と死を繰り返しながら遥かな頂きを目指す。生き残った者は、また命を繋ぎ、終着点も見えない曲がりくねった長い旅路を歩むのだ。
英雄はその旅の無事を願わずにいられなかった。
英雄の傍らには、二人の従者が控えていた。
彼等はどんな苦境にあっても、命を賭して英雄の背中を護ってきた。
英雄の左腕は妖艶なエルフの女。彼女は六大魔導を極めた偉大なる魔導士であり、主にも比肩するのではないかと評されている。耳はエルフの中でも異常に長く、肌は明朝の月のように青白い。目は光彩以外が闇色に染まっていた。彼女は異形のエルフだった。
英雄の右腕は聖騎士長の男。その胸には六芒星のペンダントが輝いていた。六芒星の頂点と交点には宝石が嵌め込まれている。十二使徒の加護を永遠に閉じ込めた秘宝。それは先の征伐戦で英雄エリウスから譲り受けたものだ。
騎士は六芒星に手を当てる。
皆が瞼を閉じて祈りを捧げる中にあって、この男だけは目を大きく見開いていた。
男は自分の身の丈の倍あろうかという長槍を静かに構える。
そしてそのまま――英雄の胸を貫く。
祈りの儀が終わりを迎える時には、英雄の命も消えかかろうとしていた。
時が凍ったように誰もが動けなかった。
しかしそれはあくまで一瞬のこと。
瞬く間に、悲鳴と罵声が伝播していく。泣き崩れる者、剣を握り駆け出す者、言葉を失いヘタリ込む者。
理性が砕け場は騒然となる。
その光景を目の端にとらえながら、英雄は――俺は――最後の声を絞り出す。
「すまない」
その声は誰にも届かない。皆が皆、我を忘れているのだ。
英雄殺し。
この罪深き男の魂には、神と悪魔、人と獣、空と大地、この世全ての呪詛が刻み込まれるのだろう。
「世界よ、どうかゆるしてくれ」
この男の行く末を想うと涙が溢れる。
哀れな男だ。
「友よ、どうか死なないでくれ」
心臓への裂傷、壮絶な痛みが全身を駆け巡る。
魂を引き裂かれるかの如き激痛が全身を廻りきると、自身の魂がもう残り僅かも無いと悟った。痛みはやがて凪の様にやわらいだ。
視界がぼやける。
英雄の死とともに、ひとつの時代が終焉を迎えた。
光が消え――世界は暗転する。