これで、ラストな
三つ年上の兄が、交通事故で死んだ。
二十二年で、兄の一生は終わってしまった。
一人の身近な人間の死は、突然現実のものになった。――泣くこともできなかった。実感が、全く湧いてこなかったんだ。
昨日まで顔を合わせて、普通に話してたのに――。兄がこの世にもう、存在していないだなんて――。
病院に行って、兄の亡骸を見て――両親の泣き崩れる姿を横目で見て――気が付けば葬式で、気が付けば火葬場の白い煙を見ていた。
御骨箸で、真っ白な骨を摘み取る。親族全員で箸を回し、最終的に兄は小さな壺に収まった。
(……あんなに身体の大きかった兄が、こんなに小さくなって――)
まるで、赤ちゃんまで戻ったみたいだ。
ふと、そう思った。
家に帰ると母はリビングのテーブルに突っ伏して泣いていて、父は母を無言で慰めていた。俺はたまらなくなり、真っ黒なスーツとネクタイのまま、グローブとボールを持って外に出た。
近くの河川敷に行くと、ある場所に向かった。橋の下、よく小さかった頃、兄と遊びに来た所だった。
別に、思い出に浸りたかったわけじゃ無かった。ただ、“ボールを投げたい”。ただ、そう思ったからだ。
グローブを左手にはめて、橋を支える大きなコンクリートの柱――壁に、ボールを投げた。
タンッ――
トンッ――
パシッ
ボールは壁に当たり、
地面でワンバウンド――
手元に帰ってきたそれを、グローブでキャッチ。
――そんな単調な作業を、延々と繰り返した。
野球は、兄の影響ではじめた。俺が、五才の頃だ。
兄は、クラブチームに所属していた。俺も、小学校に上がるとそこに入った。
兄は俺が野球を始めて、よろこんでいた。「いいキャッチボールの相手ができた」。と。
タンッ――
トンッ――
パシッ
野球は中学、高校まで続けた。俺も、兄もだ。兄は高校の時、野球部でキャプテンをやっていた。
兄は、甲子園まであと一勝、という所まで行った。でも、最後の最後で負けてしまった。
俺は、兄の通っていた高校に入った。そして俺も、やがてキャプテンになった。
「甲子園、行けよ」
最後の大会の前に、兄は言った。
――結果は、一回戦負けだった。
野球部を引退して少し経った後、兄に急にキャッチボールに誘われた。
ちょうど、ここで――この場所でやった。
「気にすんな」
兄は言った。
「たまにこうして、これからもここでキャッチボールしよう」
――そう、続けた。
「うん」
俺は、そう返事をした。
タンッ――
トンッ――
パシッ
――……。
(……帰ろう)
そう思って、最後のボールを放った。
ヒュッ……
……ダンッ!
ボールは壁にぶつかった瞬間、放った時の数倍の力で帰ってきた。
(ッ!)
――パァン!
グローブが、けたたましい音を鳴らす。
――左手が、ジンジンと痛んだ。
その痛みには、覚えがあった。
兄とキャッチボールをやる時。いつも兄は最後に、渾身の力でボールを放った。
「これでラストな!」
そう言って、剛速球を投げる。
――まさに、その時の衝撃そのものだった。
これで、ラストな
……兄が、投げ返してくれたのだと思った。
徐々に、笑いがこみ上げてきた。間違いなく、兄だ。……この、ボールの手応えは――!
……それと同時に、兄との思い出が頭の中を、走馬灯のように駆け巡った。
いつも俺に優しかった兄……幼い頃、もらったお菓子をすぐに全部食べてしまう俺に、大事なものを最後まで取っておくタイプだった兄は、自分の分のお菓子をいつも分けてくれた……。
野球道具も、服も、マンガも……。兄は「いつもおさがりでごめんな」なんて言ってたけど、俺は嬉しかった……。俺の持ってるものはどれもお兄ちゃんの使ってたもので……だからどれも宝物で、大事なものなんだ……。
「ラストとか……言うなよ……」
思わず声が漏れて、言った瞬間。目頭が熱くなって、視界が歪んだ。“兄がもういない”という現実がついに襲ってきて、涙がぼろぼろと零れた。
寂しくて、たまらなかった。
(ラストだったんだ……ほんとうに……)
見えなかったけど、確かに兄は、そこにいた。
兄の姿が、脳裏に浮かぶ。グローブを付けた左手を腰に当て、右手でボールを宙に投げると、落ちてきたボールをその手でキャッチする。
――そして、得意げに笑う。
川面に沈む夕陽を背景に、大好きだった兄が笑っている。
「お兄ちゃん……」
絶対に、忘れないよ……
橋の下に、俺の震える声が小さく響いた。
ナイスキャッチ!
そんな兄の声が、聞こえた気がした。
キャッチボールの最後の球を取れた時、いつも兄は、そう言ってくれたから。