赤い本 ─感染─
がらんとした、一人暮らし用のリビング。
立ち尽くしていると、慣れた痛みが胸の奥に広がった。
気配を感じる。
顔を向けると、等身大のミラーの中にいる僕が、僕を眺めていた。
ガラス玉のような茶色の目、薄い唇、腰で留めた黒いズボンに、なにも身につけていない上半身は、女の骨のように細く白い。
上着は、どこへ行ったのだろう。
僕はソファの上に置かれたグレーのシャツを拾い上げ、袖を通した。
昨日、彼女が選んでくれた服だ。
服があるということは、僕が触れた彼女は幻などではなく、確かに存在しているという証拠になる。
でも、彼女はここにいない。
ボタンを留める僕の細い指が、胸の辺りで止まった。
なぜだろう。
僕と寝た女性は、必ず消えてしまう。
だから僕は、出会った女性に必ず「君も僕の元から去ってしまうだろう」と伝えている。
ある女性は「貴方を置いて消えたりなどしない」と言い、またある女性は「そんな心配は今日で終わる。私はそばにいる」と、僕を包み込むよう抱きしめてくれた。
そして必ず、姿をくらましていく。
僕は顔を上げた。
鏡に映るリビングは、主のいない家の色をしている。
錆びついたような静寂の中、ふと、僕の視界に鮮やかな赤が飛び込んだ。
異質な色に、僕ははっとして振り返る。
テーブルの上に、一冊の赤い本が置かれていた。
彼女は「本は雑誌と占いしか読まない」と言っていたので、おそらくその類だろう。
何気なく手に取り、僕の視線は表紙の隅で止まった。
『読む人により内容が変わります』
占いの本など読んだことのない僕にとって、その言葉は妄信的に響く。
同時に、惑的な匂いがあった。
淫靡な力に吸い寄せられるよう、僕は一寸のためらいもなく表紙をめくる。
『そこには、とても美しい少年がいました。
彼の体躯は華奢で肌は透き通るよう白く、色素の薄い細い髪は柔らかいのです。
頼りなさげに潤む大きな瞳は、ある種の女性を強烈に惹きつける力がありました』
僕は顔を上げた。
ミラーには中性的な、男と呼ぶには幼い僕が佇んでいる。
見つめると、憂うような眼差しと目が合った。
奇妙な胸騒ぎを内に閉じ込め、僕は再び視線を落とす。
『少年はなにも持っていません。
ですが、その身ひとつだけで生きることができました。
彼を一目見ると、心底そばにいたいと思う女性が後を絶たなかったからです。
少年と共に過ごすと、女性は彼を渇望するようになるのです。
少年が肩を動かすだけで、彼が去るのではと怯えるほどに、女性たちは少年から離れられなくなるのです。
女性は少年に囁きます――私のそばにいて。
少年は答えます――みんな僕から離れていく。だからきっと、君も離れていく。
女性は涙を浮かべ、少年を抱きしめます。
――私にはそんなこと出来ない。なれるものなら、貴方の一部にさえなりたい。
少年は無感動です。
その言葉は、すでに聞き飽きていました。
そして朝を迎えたときの、虚ろな喪失を確信をします。
確信は、いつも少年を裏切りませんでした。
やはり今朝も、彼女の姿はありません。
ふと気づくと、リビングから続くベランダへの窓が、わずかに開いています。
彼女がそこから飛び降りたのではないかと思い、少年は下を覗き込みます。
しかし、灰色の地が広がっているだけでした』
僕の素足にひんやりとした冷気が通った。
部屋のベランダが数センチ開いている。
僕は赤い本を片手に、ベランダへと降りた。
外気にさらされたが、僕は北国育ちなので、さほど気にもならない。
片手で胸のボタンを留めながら、三階のベランダから顔を出し、見下ろした。
ひとけのないアスファルトの路地が広がっているだけで、目立つものはなにもない。
僕はベランダの縁に腕を乗せ、本のページをめくった。
『やはり、彼女は去ってしまった。
ベランダに寄りかかりながら、少年は幾度も味わった喪失感の中にいました。
なぜ彼女たちは去っていくのか。
謎の糸口に手を伸ばすように、少年はこの生活のはじまりを思い出そうとしました』
その先は白紙だった。
僕はそのまま、薄墨色に滲む明け方の空を仰ぐ。
この生活のはじまり。
得体の知れないもやに手を伸ばすよう、僕はわずかな恐れへと、意識を過去に集中する。
ふと、四角い眼鏡をかけた女の顔が浮かんだ。
父親の再婚相手の娘。
僕より六つ上の、長い黒髪を真っ直ぐ伸ばした、悲しそうな目をした女。
彼女は僕を見て、眠そうな目を見開いたのだ。
「また、あえた」
僕の背筋が毛羽立つ。
その瞬間、僕は強烈な欲望に支配された。
女の服を引き剥がし、髪を振り乱した頭を押さえ込み、青白い首筋に浮いた血管を見たいという衝動に駆られたのだ。
生きたまま喰ってやる。
僕は淫靡な瞬間を想像し、恍惚とした。
ひんやりとした風が頬に吹き付け、僕は我にかえる。
あのときの高揚が僕の身体の芯で目覚めていたが、肝心な記憶はくすんだもやに覆われている。
ふと、本に書かれた文字に気づく。
先ほどまで白紙だと思っていたが、気のせいだったのだろうか。
違和感を覚えながら、僕は続きを読み進める。
『思えば、ひとりの女性と出会った事がはじまりでした。
少年は彼女に激しい欲望を感じ、ためらいもなく頬に爪を立て肩を舐め首筋に歯を立てました。
至福に溺れる少年の脳裏に、ひとりの男が浮かびます。
精神、肉体、五感。
その男は愛した女の全てが欲しかったのです。
抑えられない欲望に男は正気を奪い、愛する女を食いました。
口の中に広がるなまぬるい感触。
男にとって、女の絶叫は艶かしい嬌声。
愛しい女を支配する狂喜の余韻。
男は満たされた時を過ごしました。
でも、もうあの幸福を味わえません。
愛しい女はすでに、自分の血肉となってしまったのです。
しかし、男はその現実に耐える事が出来ませんでした。
その甘美な味を求め、男は彷徨い、偶然見つけた女を食いました。
ですが、愛しい女だと思い込むようにしても、あの時のような喜びを得ることは出来ません。
それでも、男は再び彷徨い、違う女を血肉にし続けました。
月日が経ちました。
いつしか男は衰弱し、寂しい場所で倒れ、その生涯を終えようとしていました。
男は生きた女以外のもの――水すら口に出来なくなっていたのです。
そこを偶然通りかかった女性がいました。
彼女はその死にかけた男を見て、奇妙な感情が首をもたげたことに戸惑いました。
そして、その感情は抗うことの出来ない強烈なものだったのです。
彼女は男の前に屈み、猛烈な愛情と食欲に喉を鳴らしました。
その視線の先にいる男は目に涙を潤ませています。
すでに朦朧としていた男は、目の前で座る女性を愛しい女だと思い込み、そして一言――』
「また、あえた」
呟いた僕の首筋には鳥肌が立っていたが、それが寒さのせいなのかはわからない。
しばらくの間、僕は呆然と曇り空を見つめていた。
僕と過ごした彼女たちが、僕から去ったわけではなかった。
僕の一部になっていたのだ。
昨夜もそう、腹も心も満ち足りた僕は彼女の色に染まった、もう白くないシャツを脱ぎ捨て、夢心地でシャワーを浴び、そのまま眠りこんでしまった。
その夢のような充実は、目が覚めたら喪失感に取りかわると言うのに。
覚えている事が幸せなのか。
忘れている事が幸せだったのか。
赤い本を手に取ったばかりに、僕は感染し続ける呪いのような運命にあることを悟った。
そして、そこから逃れるには、おそらく僕を食べてくれる人に出会うしかないのだろう。僕がはじめて食べた、あの四角い眼鏡の女のように。
僕の手から、赤い本がするりと抜け落ちていった。
その行く先を僕はベランダから見下ろす。
味気ないアスファルトの上に、一点の赤が異彩を放っていた。
不意に、隣のマンションの影から一人の女性が出てくる。
女性は赤い本を拾い、それが落ちた場所をさぐるよう顔を上げた。
虚ろな硝子のような目が、僕を射抜く。
痺れるように、僕の芯は震えた。
「また、あえた」




