ネーデルラント語り
今までの話と、少し毛色が違います。
恥ずかしい話ですが、『ネーデルラント』というのは昔の国名で、もう使われていないのだとずっと思っていました。なんでそう思ったんだろう?
阿蘭陀又は和蘭 オランダ(ネーデルラント)
文机で書き物をしていた僕は、同じ机の上に置いてあるガラスの花瓶に活けられた阿蘭陀海芋(カラー)の花を揺らしていく影で、風が吹いてきたのに気付いて顔を上げた。そして初めて窓辺に置いた金魚鉢の側で、君が顔をくっつけるようにして金魚を見ているのを知った。
「こんな丸っこい体をして、暑くないのかしら」
丸い金魚鉢の中を体をくねらせる様にしてユーモラスに泳ぐ阿蘭陀獅子頭(金魚の一種)を熱心に覗きこんでいたと思ったら、君は突然そう言った。
「普通水の中の金魚を見て涼しそうとは言うけれど、暑くないかなんて言うのは君ぐらいだろう」
呆れたように僕が言い返すと、
「でも体の色は真っ赤だし、背骨は丸まって動きにくそうだし、頭の上はいろいろ付いて煩そうだし……あたしがこいつなら絶対に文句言ってるわ」
金魚鉢を睨んだまま文句を言った。
「でも君は金魚じゃないし、そもそも金魚は文句なんて言わない」
僕も言い返して、乾いたペン先を阿蘭陀墨(インク)瓶に浸けた。
僕はちょっと懐古趣味というか古いものが好きで、ボールペンや万年筆よりペン軸にペン先を付けインクに浸しながら文字を書くのが好きなのだ。今住んでいる家だって、古民家を買って手を入れたものだ。少々の不便は感じるが、築山や飛石・書院障子・沓掛などの風情あるものに囲まれているとどうでもよくなってくる。
「そうは言うけどね。こんな体にしてくれって頼んだわけでもないのに、人間の勝手でこんな変な体にされて! こいつの身になって考えた事がある? いい迷惑だわ」
君は金魚の代わりに憤慨した。僕は君を見ながら苦笑した。僕の友人達は君のこういう感性を『変わっている』と少し退いた感じで言うけれど、僕は好ましいと思っている。
「なにを笑ってるのよ!」
君はようやく僕の方を振り向いた。健康的に少し日焼けした肌に、白地に赤い花の阿蘭陀石竹(カーネーション)をあしらって、阿蘭陀揺(シロツメクサ)模様の緑の半幅帯をリボンのように結んだ浴衣は君にとても似合っている。
「君が可愛いなと思って」
正直に告げると、君の顔にぱっと朱が散った。
「な、何を、いきなり……!」
「本当だよ。僕はいつでもそう思っている。君と一緒にいられるなんて何て幸せなんだろう、って」
僕が阿蘭陀千里眼(メガネ)を外しながら言うと、君は酸欠の金魚のように口をパクパクさせていた。
しばらくしてから君は何度か深呼吸をすると、
「そう言う事を真顔で突然言うなんて、止めてって何度も言ってるじゃない。嘘じゃないのはわかってるけど、心臓に悪いわ」
そう言って、君は突然立ち上がった。
「食事の支度をしてくるわ。ビックリさせた罰よ、今日はあなたの嫌いなグリーンサラダ。阿蘭陀三つ葉(セロリ)、 阿蘭陀芥子(クレソン)、阿蘭陀雉隠し(アスパラガス)をた~っぷり入れてあげる」
「ええ~っ!」
抗議の声を上げる僕に、
「阿蘭陀芹(パセリ)のた~くさん入ったオムレツも付けてあげる」
笑いながら付け加えると、君は台所へ向かって小走りに駆けて行った。
外は太陽が少し傾いてきたようだ。微かに蜩の声が聞こえてきた。
『オランダ』って、日本の文化に影響を与えてるんだなあと、つくづく思いました。