雷神登場
素顔が露になったせいか、その場で甲冑を脱ぎだした元・甲冑は、「ふぅ」と息をつくと、汗に張り付いた髪の毛をぐしゃぐしゃ梳かしながら、手甲のないそのたおやかな手を長に向けて言った。
「すまぬが長、何か拭く物を頼む」
よく通るその声は、滑らかでいて染み入るように甘く、それでいて並の男には決して出せない高い音階。
目を極限まで見開いて、彼の人物を捉えて離さない和真に対し、ひぎひぎ変な笑いの堪え方をした長は、どこからともなく取り出したタオルを元・甲冑へ差し出した。
これを受け取った元・甲冑は、頭と露出している肌を荒々しく拭くと、最後にタンクトップの中へタオルごと手を突っ込んで弄り、汗を取り除いていく。
その度、タンクトップの内側を歪にするソレは――
「長よ、助かった」
「雷公姫……そこでワシに使用済みタオルを渡されても。首に巻いておけば良いではありませぬか」
ぐしょ濡れになったタオルを、さも当然のように押し付けられた長は、元・甲冑の容姿を見ておきながら嫌そうな顔をすると、口調まで変えて彼女を呼んだ。
そう、甲冑の中身は女、それも凄絶な美貌の持ち主であった。
どこに隠していたんだとつっこみたくなるほど、豊かに波打つ長い髪はけぶるような金。
甲冑に包まれていたせいだろう、仄かに上気した白い頬には、そばかすの類が一切見当たらない。
光に濡れた睫が縁取るのは、強い意志を感じさせる紫の瞳。
形の良い鼻の下には俄かに笑んだ薄紅の唇があり、高飛車や傲慢といった印象を抱くものの、これがまた彼女の容姿にはとてもよく似合っていた。
そんな元・甲冑――雷公姫は、長の非難に目を細めると「ふんっ」と鼻で笑った。
「何を言う。私はこれから春告の君に肩を貸さねばならんのだ。そんな薄汚い濡れタオルなぞ、首に掛けておける訳がないだろう?」
「う、薄汚い……それを判っていて、ワシに託すと?」
あんまりな扱いに長がほとほと困った顔をすれば、腕を組んで見下す雷公姫が言った。
「好きだろ、こういう扱い」
「……え、じーさん、そういう趣味の奴?」
聞き捨てならない雷公姫の言葉。
これに我を取り戻した和真が一歩引けば、長が慌てた様子で首をぶんぶん振ってきた。
「いやいやまさか! ワシとて誰でも良い訳ではありませぬ! 無碍に扱われて嬉しいのは我が妻たるあの人まで! だというのに皆、ワシの性癖を変に勘違いして」
「否定は、しないんだな?」
「あ、ですが、姫もなかなかどうして、ワシを虐める才がおありのようで」
「……だから俺が何しても、そこに異議はなかったってか」
遅れて知った、ぞっとする真事実。
大いに一歩、長から後退すれば、和真と長のやり取りを完全に無視した雷公姫が、二人の間に流れる絶妙な空気を掻き消す明るさで言う。
「そうそう、長よ。この甲冑も片付けておいてくれ。我が家の宝物庫にそれらしく置いてあった年代物だが、見ての通り重いわ動きにくいわ、換金する価値もないクズ鉄だわで、身分を隠すしか能がない。棄ててくれても私は構わんが……父や祖父が煩くてな」
「つまりは棄てたら最後、ワシに全責任を擦り付けるおつもりですな?」
「頼むぞ」
いっそ清々しいくらい爽やかに、長のジト目を受け流した雷公姫は、そんな過去をさっさと視野外に置くと、和真に向って穏やかに微笑んだ。
「春告の君よ。私が色男でなくて不服か?」
「…………!!」
雷公姫の紫の瞳に自分の姿が映った途端、再び全身を固まらせた和真は、首が千切れそうなほどぶんぶん横に頭を振った。
そうして雷公姫が一歩近づけば、大またでその二歩以上後退した。
「春告の君?」
和真のこの様子に不思議そうな顔をした雷公姫だが、止まる気はないらしく、どんどん近づいてくる。
途中で和真の頭が壁を打ち、後退できなくなっても、彼女の接近は留まるところを知らず。
ほぼ同じ目線が至近まで迫るのを見計らい、これ以上は不味いと和真は両手を前に翳した。
「ちょっ、ストッ――ぷにゅ?」
「ひゃっ!?」
手の平に納まる、少しばかり硬いソレ。
擬音を口にした割に、何であるか、の理解を忘れた和真は、硬さを解すように揉み揉み。
すると。
「いっ、いやああああああああああああああああっっ!!」
「ぐほへあ!?」
思いっきり振り被られた雷公姫の拳が、顔面を狙って襲い掛かってきた。
モーション自体は某幼馴染の速度に劣るものの、光を纏って輝く現実離れしたエフェクトはヤバい。
すかさず、不意打ちにより鍛えられた反射神経で、壁伝いにしゃがみ込めば、ズドンッと後ろに下がった頭。
何なんだと考える前に、ぱらぱら落ちてくる破片を捉え、ぱっと顔を上げた和真は、そこに見てはならないへこみを認めてしまう。
光が収束した雷公姫の拳を中心に、半径五十センチの円を描いて陥没した壁。
(さ、さすがに明日香でもコレはない……)
おいおいどこの少年漫画だこりゃ? と乾いた笑いが、和真の口角を震えさせる。
と、そんな和真を上から見下ろす紫の瞳が、自分の影の中で光るのが見えた。
思わずギクリと顔を強張らせたなら、拳をぐりっと壁に押し付けた雷公姫が、今にも泣きそうな声で言った。
「我が君……お願い致します、お手を」
「お手?――てぇっ!?」
言われて気づくのも間抜けな話だが、ようやく視界に自分の両手を認識した和真は、その手が雷公姫の両胸を下から鷲掴んでいるのを目撃した。
驚きのあまり、ついつい揉んでみれば「ぃあっ」と悶えた雷公姫が、潤み責める視線を送ってくる。
「わ、悪い……」
和真はゆっくり手を離して謝罪すると、ぎくしゃくした動きで雷公姫の横から這い出、立ち上がっては拳が引いていくのを尻目に、温もりの残る手をにぎにぎ動かして見た。
(小振りだ……小振りだった……。アロマとアルエのを先に触っちまったせいで、最初は判んなかったけど、確かにアレは胸だ。しかもただ柔らかいだけじゃなく、引き締まっているってーか)
「どーせ私の胸は小さいさ」
「……へ?」
ぽつりと零される、力のない呟き。
反し、ぞくりとした悪寒を感じた和真は、俯き加減でまたしても光る拳を震わせる雷公姫の姿を見た。
(ヤバい。反応はアロマやアルエと違って、とても正しいと言えるが……喰らったら確実に死ぬ拳だぞ、アレ! そ、そうだ、こういう時にこそじーさん、長が何とかして)
迫る死の予感に、和真の目が雷公姫を視界に入れつつ、長の姿を探す。
程なく見つかる緑の長衣は、しかし。
(……何やってんだ、あのジジイ。こちとら絶体絶命のピンチだってのに、悠長に甲冑持ち上げようとしてんじゃねぇよ! こっち向け、ジジイ! デカい音がしてただろ――って、あ)
その時、和真は確かに聞いた。
他の音になどかまけている猶予はないというのに。
不自然な格好で固まった長、その腰がピキキッと嫌な音を上げるのを。
(……よし、自分で何とかしよう)
自業自得だとか、年寄りの冷や水とか言わないし、思わない。
だから腰を痛めた矢先、こちらに助けを求めようとする長の眉毛を、ささっと視界から遠ざけても、自分には何ら関係のないことだ。
長には長の、和真には和真の戦いがある。
長は和真のピンチを後ろに、せっせと甲冑を運ぼうとしていたのだ。
ならば和真も、長のピンチを死角に、自分の身を守って良いはずだ。