どうして私をママって呼ぶの? 夢の遊園地で、母は娘を忘れた
「もう着いた?」
「まだ」
ハナが同じ質問を始めてから、きっかり三十七分が経っていた。
二十秒ほどして。
「今は?」
「まだです」
ハナは車の窓に額をくっつけた。
「遅い……」
「二十秒前も着いてなかったでしょ」
「もっと経ったよ」
「二十秒」
「数えてたの?」
アカリは前を向いたまま答えた。
「うん」
ハナが顔を上げる。
「本当に?」
「ううん」
「ママ!」
アカリは小さく笑った。
今日は、どうしたって機嫌を悪くできそうにない。
ハナはこの日を三週間も待っていたのだから。
膝の上には、もう暗記してしまったのではないかと思うほど読み返したパンフレットがある。
表紙には七本の塔に囲まれた巨大な白い城。
雲の間を飛ぶ黄金の馬車。
王冠をかたどった巨大な観覧車。
そして、金色の文字で大きく書かれていた。
『ファンタジーパーク・エヴァーリリア』
その下には、ハナが目を閉じても言えるほど繰り返し読んだキャッチコピー。
『幸せな時間が、いつまでも続く場所』
「ママ」
「なに?」
「やっぱりパパ、来られないの?」
ハナの笑顔が少しだけ曇った。
「うん」
「待っててもいいよ?」
「ハナ……」
「言ってみただけ」
昨夜、父親のもとに急な仕事の電話が入った。
本当なら、今日は三人で来るはずだった。
けれど今、車に乗っているのは二人だけだ。
「今度、パパと三人で来よう」
「本当?」
「本当」
「約束?」
「約束」
「指切りは?」
「運転中です」
「片手でもできるよ?」
「ハナ」
「わかったよ……じゃあ、駐車場に着いたら?」
アカリはため息をついた。
「着いたらね」
ハナは満足そうに笑った。
そのとき、スマートフォンが震えた。
パパからだ。
『二人とも、まだ生きてる?』
ハナはすぐに返信した。
『ぎりぎり。ママの運転、遅すぎ』
「今、私の悪口書いたでしょ」
ハナは慌ててスマートフォンを隠した。
「書いてないよ」
「ハナ」
「……ちょっとだけ」
今度は車載ホルダーに置かれていたアカリのスマートフォンが鳴った。
『ハナが、ママはおばあちゃんみたいな運転だって』
「裏切ったな!」
アカリが笑い出す。
「着いたら『おばあちゃん』について詳しく説明してもらうからね」
「ちょっと表現を変えただけだよ」
「はいはい」
ハナも笑った。
忙しくない日の母と一緒にいる時間が、ハナは好きだった。
アカリは厳しい。
起きる時間。
朝ごはんの時間。
宿題の時間。
お風呂の時間。
寝る時間。
『ランドセルを放りっぱなしにしない』
『食べたお皿は片づける』
『走らない』
『甘いものばっかり食べない』
ママの頭の中には時計が入っているんじゃないか。
ハナは時々、本気でそう思っていた。
けれど、熱を出せばベッドのそばに座ってくれる。
ハナが好きなオムライスの味も知っている。
失くしたものを見つけてくれるのも、たいてい母だった。
そして今日。
三週間も文句を言い続けながら、とうとうアカリはハナの「あるお願い」を聞くことになっていた。
ハナがニヤリと笑う。
「ママ」
「その声、知ってる」
「どの声?」
「何かお願いするときの声」
「約束を確認したいだけだよ」
ハナはパンフレットを持ち上げた。
そこには、お姫様のドレスを着た母娘が写っていた。
アカリは即座に視線を道路へ戻した。
「嫌」
「まだ何も言ってない!」
「嫌です」
「考えてくれるって言ったじゃん!」
「考えた」
「それで?」
「嫌」
「ママー!」
「プリンセスのドレスなんて着ません」
「なんで?」
「三十七歳だから」
「それが何?」
「大人には尊厳というものがあります」
「プリンセスにだって尊厳はあるよ」
「プリンセスには、写真を撮って後で脅迫材料にしようとする娘はいません」
ハナはそっとスマートフォンを隠した。
「ハナ」
「はい?」
「絶対にやめなさい」
その数分後。
最初の塔が見えた。
一本。
そして二本目。
三本目。
ハナが勢いよく身体を起こす。
「ママ!」
丘の向こうから、七本の白い塔が姿を現した。
続いて巨大な城。
青空へ突き刺さるような尖塔の先で、小さな旗が風にはためいている。
さらに遠くには、黄金の巨大観覧車まで見えた。
ハナは鼻が窓につきそうなほど顔を近づけた。
「本当にある……」
「みたいね」
「大きい!」
「そうね」
「最初にお城行こう!」
「まず駐車」
「そのあとお城!」
「そのあと入場」
「それからお城!」
「その前に地図を確認します」
「ママぁ……」
「それと、もしはぐれた場合の集合場所も決めます」
「はぐれないよ!」
「はぐれる前に決めるものなの」
ハナは座席に頭を預けた。
「もうママっぽいこと始めてる……」
「あなたの母親ですから。仕事の一部です」
「今日は仕事しなくていいのに」
アカリは笑った。
「これは休みなしなの」
その言葉を、ハナは気にも留めなかった。
あとになって。
嫌というほど思い出すことになるとも知らずに。
*
車のエンジンが止まった瞬間、ハナはドアを開けた。
「行こう!」
「待って」
「ママ!」
「バッグ」
ハナが戻る。
「あ」
「お水」
「あ」
「スマホ」
「……」
アカリがハナのスマートフォンを持ち上げた。
「これをお探しですか?」
「ちゃんと見張ってたんだよ」
「背中で?」
「高度な技なの」
アカリはスマートフォンを渡すと、小指を立てた。
ハナの顔が明るくなる。
二人の小指が絡んだ。
「今度はパパも一緒に来る」
「うん」
「三人で」
「三人で」
「約束」
「約束」
*
エヴァーリリアの門は、まるで宮殿の入り口だった。
ハナはアカリを説得して門の前で写真を撮り、それをすぐ父親に送った。
『楽しんでおいで。ハナ、ママを頼んだぞ』
「なんで私がママの面倒を見るの?」
「どうやらパパは、私のことを信用していないらしいわね」
「好きなことに夢中になると周りが見えなくなるって言ってた」
アカリの眉が上がる。
「そう言ったの?」
「うん」
「今夜、パパと話すのを忘れないようにして」
二人はチケットを見せた。
巨大な門がゆっくりと開いていく。
音楽。
鐘の音。
笑い声。
色とりどりの屋根を持つ家々。
石畳を走る黄金の馬車。
人間ほどの大きさのぬいぐるみたちが、来園者に手を振っている。
「わあ……」
アカリまで言葉を失っていた。
「認めるわ。これはすごい」
「でしょ!」
そのとき。
カツ。
カツ。
カツ。
規則正しい足音が聞こえた。
背の高い兵隊がこちらへ歩いてくる。
赤い軍服。
白いズボン。
黒いブーツ。
そして高い軍帽。
あまりにも整った顔は、まるで絵筆で描かれたようだった。
ハナは少しだけアカリに近づいた。
「あの兵隊さん、ちょっと怖い」
「三十分前までドラゴンと戦いたいって言ってたのは誰?」
「ドラゴンは別なの」
兵隊はハナの前で止まった。
カツン。
両足を揃える。
そして深く一礼した。
「エヴァーリリアへようこそ」
「こ、こんにちは……」
兵隊が顔を上げる。
その瞳が、まっすぐハナを見つめた。
「どうか素敵な一日を……小さな勇者よ」
「勇者?」
「そうだ」
ハナは自分を指さした。
「私?」
「君だ」
「どうして?」
兵隊は少し黙った。
そして、わずかに身をかがめる。
「忘れたくないものを、大切に守るんだ」
「……忘れる?」
兵隊は何事もなかったかのように微笑んだ。
「エヴァーリリアで、素晴らしい一日を」
そう言って去っていく。
「変なの」
「演出でしょ」
アカリが言った。
きっとそうなのだろう。
ハナは母の手を握った。
「じゃあ今度こそ、お城!」
「地図」
「お城!」
「地図」
「ママー!」
二人は気づかなかった。
遠くで兵隊が立ち止まったことに。
白い衣装をまとった若いバレリーナが、その隣へ近づいてきた。
「あの子?」
「ああ」
「じゃあ……もう始まったのね」
兵隊は人混みへ消えていくハナを見つめた。
「今度こそ、結末を変えられるといいが」
*
その後の数時間。
エヴァーリリアはハナの期待を裏切らなかった。
いや。
期待以上だった。
巨大なお菓子でできた家。
魔法の森を走る馬車。
ぐるぐる回るティーカップ。
「もっと速く!」
「ハナ! もう回さないで!」
「もっと!」
「吐くから!」
「それならちゃんと動いてる証拠だよ!」
降りたあと、アカリはベンチに座り込んだ。
「二度と乗らない……」
「もう一回?」
「二度とって言ったでしょ」
「じゃあ、あとで?」
「同じ意味じゃない!」
二人はケーキも食べた。
ハナの鼻にはクリームがついた。
「ついてるよ」
「どこ?」
「ここ」
「ここ?」
「違う」
「じゃあここ?」
結局、アカリがナプキンで拭いた。
「私がいなかったらどうするのよ」
「鼻でクリーム食べる」
「でしょうね」
そして二人は王宮ホールへやって来た。
ハナは並んだドレスを見る。
アカリを見る。
アカリもハナを見る。
「嫌」
「まだ何も言ってないよ!」
「嫌」
「考えるって約束したじゃん!」
「考えたわよ」
「それで?」
「嫌」
十分後。
アカリは薄紫色のプリンセスドレスを着ていた。
「屈辱だわ……」
ピンク色のドレスを着たハナは、鏡の前でくるりと回った。
「ママ、すっごく綺麗!」
「この姿がパパに知られたら……」
ハナがスマートフォンを構える。
「笑って!」
「ハナ」
カシャッ。
「ハナ!」
ハナは笑いながら逃げた。
アカリもドレスの裾を少し持ち上げて追いかける。
「写真消しなさい!」
「絶対いや!」
「ハナ!」
「パパには真実を知る権利があるの!」
その瞬間だった。
ハナが誰かにぶつかった。
「きゃっ!」
転ぶ寸前、二本の腕がハナを支えた。
長い黒髪。
白い衣装。
若いバレリーナだった。
「気をつけて、小さなお嬢さん」
「ご、ごめんなさい」
バレリーナは優しく微笑んだ。
「大丈夫よ」
アカリが追いつく。
「怪我してない?」
「うん」
「走らないって言ったでしょ」
「でもママが追いかけてきたから!」
「あなたが先に走ったんでしょう」
バレリーナが小さく笑った。
ハナは彼女を見つめる。
何かがおかしい。
肌があまりにも滑らかだった。
動きも完璧すぎるほど優雅だった。
「お姫様?」
「いいえ」
彼女は小さく一礼した。
「私は踊り子よ」
「ここで踊ってるの?」
「ええ。ずっと昔から」
「どのくらい?」
バレリーナの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……覚えていないの」
ハナが首を傾げる。
アカリがその肩に手を置いた。
「人を質問攻めにしないの」
「聞いただけだよ」
バレリーナはハナの肩に置かれたアカリの手を見つめた。
その表情が一瞬だけ寂しそうに見えた。
「素敵なお母さんね」
「うん! 最高のママ!」
アカリが少し照れる。
「大げさよ」
バレリーナは再びハナを見た。
「なら、大切にしてあげて」
ハナはさっきの兵隊を思い出した。
「どうしてみんな、そんなこと言うの?」
けれどバレリーナは、もう歩き出していた。
*
そのあと二人は広場で踊った。
最初、アカリは嫌がった。
けれどハナが引っ張った。
そして最後には、ハナ以上に笑っていた。
こんな母を見るのは初めてだった。
スマートフォンも見ない。
時計も見ない。
『そろそろ帰るよ』とも言わない。
仕事のことも考えない。
アカリが不器用に回転し、危うく転びそうになる。
「ママ!」
「笑わないで!」
「アヒルみたい!」
「こら、待ちなさい!」
ハナは笑いながら逃げた。
その瞬間。
ハナは思った。
あとになって、そのことを後悔するとも知らずに。
――ママが、ずっとこんなだったらいいのに。
*
「今、何時?」
アカリは人形で遊び続けていた。
「時間なんて気にする必要ある?」
ハナは瞬きをした。
「え?」
「楽しいんだからいいじゃない」
「でもママ、いつも時間見てるじゃん」
「今日は見ない」
ハナは笑った。
「誰? 本物のママをどこに隠したの?」
アカリが小さなクッションを投げる。
「失礼ね」
ハナはそれを避けた。
こんな母も好きだった。
二個目のケーキを食べたいと言っても止めない。
馬車にもう一度乗りたいと言っても断らない。
人形遊びをしたいと言えば、一緒に座ってくれる。
「ママ」
「なに?」
「ここ、好き」
「私も」
「すごく?」
アカリは手にした人形を見つめた。
「……すごく好き」
*
おかしい。
ハナがそう感じ始めたのは、そのあとだった。
「ママ、パパにもう一枚写真送ろうよ」
「あとで」
「でも、さっき……」
「あとでね、ハナ」
怒っているわけではない。
ただ、興味がないようだった。
しばらくして、ハナはもう一度言った。
「そろそろパパ、休憩時間じゃない?」
アカリの手が止まった。
「……パパ?」
胸の奥に、小さな針が刺さったような感覚がした。
「うん。パパ」
一秒。
二秒。
三秒。
そしてアカリは笑った。
「ああ。そうね」
「……忘れてた?」
「そんなわけないでしょ」
けれど。
ハナはもう笑えなかった。
*
別の場所へ行こうと言った。
アカリは嫌がった。
「ここで遊びたい」
「でも、もうずっとここにいるよ」
「もう少しだけ」
「それ、いつも私が言うやつじゃん」
「今日は私が言うの」
ハナは笑おうとした。
笑えなかった。
周囲を見る。
一人の大人の女性が、夢中になって積み木の城を作っている。
「ママ、お腹すいた」
子どもが言う。
「待って! まだ完成してないの!」
別の場所では、大人の男性が玩具の列車を追いかけている。
その娘が必死に止めようとしていた。
年老いた女性が巨大なクマのぬいぐるみを抱きしめている。
大人たちは笑っていた。
子どもたちは笑っていなかった。
ハナの背中に冷たいものが走った。
「ママ」
「見て、このお人形のドレス」
「帰ろう」
「どうして?」
「だって……」
ハナはスマートフォンを見る。
10時17分。
眉をひそめた。
二人が到着したのは十時を過ぎてからだった。
食事をした。
遊んだ。
踊った。
何時間も経っているはずなのに。
時計塔を見る。
10時17分。
「ママ……」
「なに?」
「今、何時?」
アカリは時計塔を見る。
「どうでもいいじゃない」
「よくないよ」
「ここでは、いいの」
ハナは一歩後ろへ下がった。
「帰ろう」
「嫌」
「ママ」
「遊びたい」
「家に帰らなきゃ」
アカリが首を傾げた。
「……家?」
ハナの心臓が跳ねた。
「うん」
「どうして?」
「私たちの家だから」
アカリは考え込んだ。
「ここのほうが楽しいよ」
「ママ、もうやめて」
ハナが手を握った。
アカリは振り払った。
「まだ遊びたい!」
「帰らなきゃダメ!」
「嫌!」
「パパが待ってるんだよ!」
アカリが眉をひそめた。
「……誰?」
ハナの中で、何かが壊れた。
「パパだよ」
「知らない」
「ママの旦那さん」
「私、結婚してないよ」
「ママ……?」
アカリがハナを見る。
困ったような顔で。
「また」
「え?」
「さっきから、そう呼ぶよね」
ハナは息をするのも忘れた。
アカリが首を傾げる。
「ハナ……どうして私のこと、『ママ』って呼ぶの?」
*
ハナは必死に説明した。
指輪。
パパ。
家。
誕生日。
スマートフォンの写真。
アカリはハナのことを覚えていた。
けれど。
娘としてではなかった。
「一緒に遊びに来た子でしょ?」
「違う!」
「ハナ……」
「私、ママの娘だよ!」
アカリが笑った。
「そんなわけないよ」
「どうして!」
「だって私、六歳だもん」
ハナは凍りついた。
「三十七歳だよ」
「六歳!」
「三十七歳!」
「六歳!」
「ママ!」
涙がこぼれた。
アカリはハナを見た。
けれど。
いつもの表情にはならなかった。
抱きしめてくれない。
涙を拭いてもくれない。
ただ、不思議そうに尋ねた。
「どうして泣いてるの?」
その一言が。
何よりもつらかった。
ハナは走り出した。
*
出口は見つからなかった。
白い大門があった場所には、どこまでも続く花畑が広がっている。
「そんな……」
別の道へ走った。
何もない。
「いや……!」
「ハナ」
聞き覚えのある声。
振り返る。
兵隊がいた。
その隣には、あのバレリーナ。
「あなたたち……」
「私たちと来て」
バレリーナが言った。
「ママが……!」
「知ってるわ」
「私のこと、忘れちゃった!」
兵隊が拳を握る。
「だから急ぐんだ」
*
三人は劇場の裏にある古びた部屋へ身を隠した。
アカリも一緒だった。
バレリーナが「玩具がある」と言うと、素直についてきたのだ。
今は床に座って楽しそうに遊んでいる。
ハナはそんな母を見つめた。
「返して」
兵隊は何も言わなかった。
「知ってるんでしょ!? 何が起きてるか知ってるなら、ママを返してよ!」
「我々にはできない」
「じゃあ誰ならできるの?」
バレリーナが城を見る。
「ミラベル」
「誰?」
「エヴァーリリアの女王」
「じゃあ、その子に会う」
「簡単じゃない」
「そんなの知らない!」
兵隊がハナの前に膝をついた。
「この場所は、人間の『幸せなままでいたい』という願いを糧にしている」
「どういうこと?」
「大人たちは疲れてここへ来る。仕事、責任、悩み……いろいろなものを背負って」
バレリーナが続ける。
「エヴァーリリアは、そんな人たちに失ったと思っているものを与えるの」
「……子どもの頃?」
「そうだ」
兵隊がうなずく。
「最初は時間を気にしなくなる。そして責任を忘れる」
「次に家を忘れる」
「家族を忘れる」
ハナはアカリを見た。
「そのあとは?」
二人は答えなかった。
「そのあと、どうなるの?」
バレリーナが目を伏せる。
「自分自身を忘れるの」
ハナは拳を握った。
「そんなの……絶対にさせない」
*
兵隊は小さな剣を差し出した。
玩具にしか見えない。
「これ?」
「エヴァーリリアは願いに応える」
「それで?」
「君が一番守りたいものを思い浮かべろ」
ハナはアカリを見た。
剣を握る。
「ママを取り戻したい」
刃が光った。
兵隊が微笑む。
「なら、まだ勝機はある」
*
城への道は簡単ではなかった。
巨大な人形たちが道を塞ぐ。
木馬に乗った騎士たちが襲ってくる。
ハナはすぐに理解した。
勇者というのは、思っていたほど楽しいものではない。
「伏せろ!」
兵隊が叫んだ。
槍がハナの頭上を通り過ぎる。
「危なかった!」
「だから伏せろと言った」
「もっと早く言ってよ!」
「早く言った」
バレリーナが舞う。
白い衣装が花のように広がり、光のリボンが敵の足を絡め取った。
「今よ!」
ハナが剣を振る。
人形が倒れた。
「やった!」
「まだ喜ぶな」
兵隊が言った。
「少しくらい喜ばせてあげなさいよ!」
バレリーナが抗議する。
「二十体追ってきている」
ハナが振り返った。
「に、二十!?」
三人は走った。
少しずつ。
ハナは二人を、遊園地の不思議な登場人物とは思わなくなっていった。
兵隊は真面目すぎる。
バレリーナはいつも彼をからかう。
「あなたって笑うことあるの?」
「ある」
「見たことないけど」
「見ていなかっただけだ」
「ハナ、この人が笑ってるところ見た?」
「ない」
「二対一ね」
「これは多数決ではない」
ハナは笑った。
ほんの少しだけ、怖さを忘れられた。
けれど後ろを見る。
アカリもついてきていた。
道端で拾った小さな花をいじりながら。
ハナは思い出す。
自分がここへ来た理由を。
*
休憩中。
ハナは兵隊を見た。
「名前は?」
兵隊は動かなかった。
「兵隊だ」
「それ、名前じゃないよ」
「それで十分だ」
「じゃあ、あなたは?」
バレリーナが笑う。
「バレリーナ」
「それも名前じゃない」
二人が顔を見合わせる。
ハナは眉をひそめた。
「名前、ないの?」
バレリーナは自分の手を見る。
「昔は……別の名前があったのかもしれないわ」
「覚えてないの?」
「覚えていないことが、たくさんあるの」
兵隊が立ち上がった。
「行こう」
ハナはもっと聞きたかった。
けれど。
今は聞かないほうがいい。
なぜか、そう思った。
*
ミラベルは城の最上階で待っていた。
少女の姿をしていた。
けれど。
ハナにはすぐわかった。
人間ではない。
陶器のように光る肌。
小さな宝石で覆われたドレス。
ガラス玉のような瞳。
「ようこそ、ハナ」
「ママを返して」
ミラベルが微笑む。
「どうして?」
「私のママだから!」
「ここなら幸せよ」
「自分が誰かもわからないのに!」
「だからいいの」
ミラベルは両腕を広げた。
「もう何も心配しなくていい」
「そんなの、幸せじゃない!」
「そうかしら?」
ミラベルがハナを見る。
「今朝、あなたは願ったでしょう?」
ハナが固まった。
「……何を?」
「ずっと、このままだったらいいのにって」
「……」
「時間を気にしない」
「……」
「仕事もない」
「……」
「あなたに『ダメ』とも言わない」
「黙って」
「ずっと一緒に遊んでほしいって思ったでしょう?」
ハナは剣を強く握った。
事実だった。
ほんの数時間前。
本当にそう思った。
ミラベルが寂しそうに笑う。
「私も同じだった」
古びた箱へ近づく。
中には一枚の写真があった。
少女が小さな人形を抱いている。
その人形は――ミラベルだった。
「あの子は毎日、私と遊んでくれた」
ミラベルの声が変わる。
「どこへ行くにも一緒だった」
眠るとき。
食事をするとき。
庭へ行くとき。
「ずっと一緒だって言ってくれた」
ミラベルが写真に触れる。
「でも学校へ行くようになった」
「友達ができた」
「外へ遊びに行くようになった」
「少しずつ、私と遊ばなくなった」
ハナは何も言えなかった。
「ある日、私は箱の中にしまわれた」
ミラベルがハナを見る。
「待ったわ」
一日。
一週間。
一か月。
一年。
「でも、あの子は戻ってこなかった」
「ミラベル……」
「子どもは大人になる」
城が揺れた。
「そして大人になれば……忘れるのよ」
「みんなじゃない」
「みんなよ!」
「違う!」
「あなたのママだって、あなたを忘れたじゃない!」
その言葉がハナの胸を貫いた。
ミラベルが杖を掲げる。
「ここなら誰も大人にならなくていい」
闇が部屋を満たす。
「ここなら誰も『また明日』なんて言わなくていい!」
周囲の玩具たちが動き始める。
「誰も、いなくならない!」
ハナは剣を構えた。
「そんなの友達じゃない!」
光が剣にぶつかった。
ハナの身体が吹き飛ばされる。
「ハナ!」
バレリーナが叫ぶ。
兵隊が前へ飛び出した。
「走れ!」
「嫌!」
「行け!」
爆発。
兵隊が壁へ叩きつけられた。
「兵隊さん!」
バレリーナが駆け寄る。
ミラベルが再び攻撃する。
ハナは床へ倒れた。
剣が遠くへ滑っていく。
「終わりよ」
ミラベルが言った。
ハナは立とうとする。
立てない。
杖が向けられる。
「あなたもすぐに、ここへ来た理由を忘れる」
ハナは目を閉じた。
そして。
思い出した。
『走らない』
『宿題しなさい』
『部屋を片づけなさい』
『甘いものばっかり食べない』
『髪をちゃんと乾かしなさい』
『もう寝る時間よ』
ママの言葉。
嫌になることもあった。
うるさいと思ったこともあった。
でも今は。
もう一度、聞きたかった。
ハナは目を開いた。
「嫌」
膝をつく。
「私はママを忘れない!」
「忘れるわ」
「だったら、また思い出す!」
剣へ手を伸ばす。
「何度でも!」
立ち上がる。
「何度だって思い出す!」
剣が光り輝いた。
「だって、それも誰かを大切にするってことだから!」
ミラベルが魔法を放つ。
ハナは走った。
白。
黒。
二つの光が激突した。
*
「ハナ!」
声が部屋を貫いた。
ハナが止まる。
知っている声。
入り口にアカリが立っていた。
息を切らしている。
「……ママ?」
アカリは頭を押さえた。
「全部は……思い出せない」
「……」
「どうしてここにいるのかも、まだわからない」
一歩。
「どのくらい時間が経ったのかも」
もう一歩。
「思い出そうとすると、まだ扉の向こうにあるみたいで……」
アカリはハナを見た。
その瞳に涙が浮かぶ。
「でも……あなたが泣いてると、胸が痛い」
ハナの手から剣が落ちた。
「ママ……」
「あなたを守りたいって思う」
ハナは走った。
「ママ!」
アカリが抱きしめる。
強く。
いつものように。
ハナは泣いた。
「忘れられたと思った……!」
「私も」
「それ、意味わかんない!」
「私もそう思う」
ハナは泣きながら笑った。
ミラベルが後ろへ下がる。
「どうして……?」
アカリが顔を上げる。
「わからない」
「忘れたはずなのに!」
「そうかもね」
アカリはハナの髪を撫でた。
「でもこの子、忘れるにはちょっとうるさすぎるみたい」
「ママ!」
アカリが笑う。
ミラベルの身体が震えた。
「じゃあ……どうして?」
写真を見る。
「どうして、あの子は戻ってきてくれなかったの?」
ハナには答えられなかった。
だから。
嘘の答えを作ることもしなかった。
「わからない」
ミラベルがハナを見る。
「でも、その子が戻ってこなかったからって、みんなを帰れなくするのは違うよ」
「私は……一人だった」
「うん」
ハナは手を伸ばした。
「でも、もう一人じゃなくてもいい」
ミラベルの杖に亀裂が走った。
パキッ。
「え……?」
パキ。
パキッ。
杖が砕け散った。
鐘が鳴り始める。
時計が動いた。
10時17分。
10時18分。
10時19分。
エヴァーリリアの魔法が崩れ始めた。
*
「ハナ!」
兵隊の身体が光り始めた。
「どうしたの!?」
バレリーナも光る。
二人の身体が透けていく。
「嫌!」
ハナが駆け寄る。
「消えないで!」
バレリーナは微笑んだ。
「消えるんじゃないわ」
「じゃあ何なの!?」
兵隊が自分の手を見る。
そのとき初めて。
ハナは彼がはっきりと笑うのを見た。
「戻るんだ」
「どこへ?」
光が二人を包む。
身体が小さくなっていく。
「え……?」
光が消えた。
床に小さな何かが落ちる。
カラン。
小さな鉛の兵隊。
その隣には、繊細なバレリーナの人形。
ハナは動けなかった。
「あなたたち……」
そっと二人を拾い上げる。
そして。
ようやく理解した。
二人は、人間が人形に変えられたのではなかった。
最初から。
人形だったのだ。
エヴァーリリアの魔法が、彼らに歩くことを許した。
話すことを。
笑うことを。
そして。
ハナを守ることを。
「……ありがとう」
ハナは二つの人形を胸に抱いた。
その背後で。
ミラベルの身体も光り始めた。
「ミラベル」
「大丈夫」
「あなたも……?」
「私は最初から人形だったの」
身体が小さくなっていく。
「でも……それは、悪いことじゃなかったのかもしれない」
光が消えた。
床には小さな人形が残った。
ハナはミラベルも拾い上げる。
三人を見た。
「じゃあ……」
ハナは笑った。
「一緒に帰ろう」
*
次にハナが目を開いたとき。
そこは駐車場だった。
城はない。
塔もない。
観覧車もない。
ただ広い空き地だけがあった。
隣にはアカリがいる。
ハナは恐る恐る母を見る。
「ママ」
「なに?」
「私が誰かわかる?」
アカリは真剣な顔をした。
「十歳」
「え?」
「オムライスが好き」
「……」
「算数は苦手」
「ちょっとだけだよ!」
「部屋は散らかしっぱなし」
「ママ!」
アカリが笑った。
「そして、私の娘」
ハナは母に飛びついた。
「ママ!」
アカリも抱きしめる。
「ここにいるよ」
「もう忘れないで」
アカリは少し黙った。
「絶対に何も忘れない、とは約束できないな」
「え?」
「人間だもの」
アカリは笑った。
「鍵をどこに置いたか忘れることもある。予定を忘れることもある。あなたが百回話した話だって、いつか忘れちゃうかもしれない」
「ひどい」
「でも、大切なことを忘れたら」
アカリはハナの額を指で軽くつついた。
「あなたが思い出させて」
ハナは笑った。
「百回?」
「二回くらいでお願い」
「千回!」
「ハナ」
*
その夜。
父親に今日の出来事を話した。
どこまで信じてもらえたのかは、ハナにもわからなかった。
そしてハナは、三つの人形を自分の部屋へ持っていった。
机の上に鉛の兵隊を置く。
その隣にバレリーナ。
そして中央にミラベル。
三人を見つめた。
「今日からここが、みんなのお家ね」
返事はない。
ハナは笑った。
小さな玩具のお城を取り出す。
「兵隊さんは門番ね」
城の前に立たせる。
「バレリーナは……」
少し考えた。
「スパイ!」
沈黙。
「そんな顔しないでよ。すごく大事な役なんだから」
ミラベルを城の中に置く。
「それでミラベルは女王様」
「一人で遊んでるの?」
「わっ!」
ハナが飛び上がった。
ドアのところにアカリが立っていた。
「ママ! ノックしてよ!」
「私の家です」
「私の部屋です!」
アカリが入ってくる。
三つの人形を見る。
「私もいい?」
ハナが笑った。
「はい」
バレリーナを渡す。
アカリは人形を眺めた。
「この子は何するの?」
「スパイ」
「バレリーナなのに?」
「いろいろ事情があるの」
「なるほど」
アカリはバレリーナを歩かせる。
「兵隊さん、王国の秘密を盗みに来ました」
ハナは口を開けた。
「ママ! 自分からスパイって言っちゃダメ!」
「どうして?」
「スパイだってバレるじゃん!」
「ルール聞いてないもの」
「常識だよ!」
「魔法の人形が女王をしてる国で?」
ハナは黙った。
「……それはそうかも」
二人は遊んだ。
五分。
十分。
二十分。
ハナは時計を見なかった。
けれど。
アカリが見た。
「はい」
「なに?」
「寝る時間」
「ええー!?」
「明日、学校でしょ」
「あと五分!」
「ハナ」
「三分!」
「寝ます」
ハナは頬を膨らませた。
城を見る。
兵隊を見る。
バレリーナを見る。
ミラベルを見る。
一瞬。
エヴァーリリアを思い出した。
『ここなら誰も「また明日」なんて言わなくていい』
ハナはミラベルを手に取った。
「続きは、また明日ね」
そっと城の中央へ戻す。
アカリが驚いたように見る。
「それだけ?」
「うん」
「今日は駄々こねないの?」
「こねてほしいなら、こねるよ?」
「結構です」
ハナはベッドへ入った。
アカリが電気を消す。
「おやすみ」
「ママ」
「なに?」
「一緒に遊んでくれるの、好き」
アカリは笑った。
「私も好きよ」
「大人なのに」
「ずいぶん上から目線ね」
「寝なさいって言われても」
「それはいい心がけです」
ハナが笑う。
「おやすみ、ママ」
「おやすみ、ハナ」
ドアが閉じた。
部屋が静かになる。
窓から月明かりが差し込んでいた。
机の上には、三つの玩具。
鉛の兵隊。
バレリーナ。
そして。
ミラベルという名の小さな女王。
数秒が過ぎた。
何も起きない。
けれど――
兵隊の手が、ほんの少しだけ動いた。
バレリーナが、わずかに首を傾ける。
そしてミラベルが、ゆっくりと目を開いた。
ハナと母が出ていった扉を見つめる。
もう。
寂しくはなかった。
ハナは遊ぶのをやめた。
でも。
また戻ってくる。
明日かもしれない。
別の日かもしれない。
いつか大人になって。
戻ってくるまでの時間が、もっともっと長くなったとしても。
一緒に過ごした時間まで、消えてしまうわけではない。
鉛の兵隊が微笑んだ。
バレリーナも微笑んだ。
ミラベルは二人を見る。
そして初めて。
時間を止めたいとは思わなかった。
ミラベルも笑った。
もう地図のどこにも存在しない遠い場所で。
小さな鐘が鳴った。
たった一度だけ。
そして今度こそ――
時計の針は、止まることなく進み続けた。
――終――
読んでくださって、本当にありがとうございました。
ハナとアカリ、そして兵隊さん、バレリーナ、ミラベルの物語を最後まで見届けていただけたこと、とても嬉しく思います。
「大人になること」「忘れること」、そして「大切な誰かとの時間」をテーマに、この物語を書きました。
少しでも心に残る場面や、好きだと思っていただけたキャラクターがいたなら嬉しいです。
もしよろしければ、感想や評価をいただけると、今後の作品を書くうえで大きな励みになります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




