「役立たずの養蜂令嬢は追放だ」と言われたので、この国の蜂蜜、全部連れて出ていきますわ~妖精は、裏切り者に微笑みません~
「ミレーユ、お前との婚約を破棄する」
煌びやかなシャンデリアの下、王太子ロランの声が夜会の広間に響いた。
「役立たずの養蜂地ごと、我が国から出て行け」
周囲から、くすくすと嘲笑が漏れる。
わたくし――ミレーユ・ファンティアは、その言葉を静かに受け止めた。
ロランの隣には、着飾った義妹セレーヌが勝ち誇った笑みを浮かべて立っている。銀の髪を揺らし、扇の陰でわざとらしく口元を隠していた。
「まあ、お姉様。土いじりばかりのあなたに、王太子妃なんて務まりませんもの」
くすくす、くすくす。
広間の貴族たちも同調して笑う。
わたくしの父、ファンティア公爵でさえ、目を伏せて何も言わない。
――ああ、そう。
これが、わたくしが十年かけて辺境の痩せた土地を守ってきたことへの、報いなのね。
その瞬間だった。
ずきん、と頭の奥が疼いた。
堰を切ったように、記憶が流れ込んでくる。
――白衣。実験室。ずらりと並んだ蜂の巣箱。発酵させた蜜の、とろりと甘い香り。
(……そうだ。わたし、前世で――養蜂と発酵食品の研究者だった)
現代日本。ミツバチを愛し、蜂蜜酒を仕込み、そして過労で倒れた、あの人生。
記憶が、ぱちりと繋がる。
そして、わたくしは思い出した。
この世界の『蜂蜜』が――ただの甘味などではないということを。
魔力を宿す、国家の生命線であるということを。
それを支えていたのが、他でもない、わたくし自身であるということを。
わたくしは、そっと顔を上げた。
口元に、微笑みが浮かぶのを止められなかった。
(役立たず? ふふ。ではその役立たずが支えていたものを――全部、お返しいたしますわ)
「畏まりました、ロラン殿下」
わたくしは、優雅にドレスの裾をつまんで礼をした。
「では、失礼いたします。――養蜂地ごと、この国から」
喜色満面のセレーヌ。満足げなロラン。
誰一人、気づいていない。
わたくしが今、何を持って去ろうとしているのかを。
* * *
夜会の帰り道。
馬車の中で、わたくしは懐から小さな小瓶を取り出した。
とろりと光る、琥珀色の蜂蜜が詰まっている。夜会にも、いつも持ち歩いていたもの。
「お嬢様……本当に、よろしかったのですか」
向かいに座る侍女のリゼットが、静かに口を開いた。栗色の髪をきっちりと結い上げた、幼い頃からわたくしに仕える有能な女性。
「あんな侮辱を受けて。わたくし、悔しくて仕方ございません」
「リゼット」
わたくしは小瓶を撫でながら微笑んだ。
「悔しがることなんて、何もないの。むしろ――ちょうどいいわ」
「ちょうどいい……?」
馬車が、辺境の養蜂地に着く。
月明かりの下、無数の巣箱が並ぶ、痩せた土地。社交界の者たちが『田舎娘の土いじり』と嘲る、わたくしの城。
わたくしが小瓶の蓋を開けると――
ふわり。
蜂蜜色に発光する、手のひらほどの毛玉たちが、暗闇からいくつも湧き出てきた。
『ミレーユ! ミレーユ!』
『みつ! みつ、くれるの!?』
もふもふとした蜜妖精――ミエルたちが、嬉しそうにわたくしの肩や頭にちょこんと乗ってくる。
リゼットには見えない。
この子たちの姿は、前世の記憶を持つわたくしにしか見えないのだ。
この国で、彼らと心を通わせられるのは――わたくし、ただ一人。
「ふふ、ただいま。良い子にしてた?」
小瓶の蜜を差し出すと、ミエルたちが夢中で群がる。
そう。彼らは蜂蜜を捧げる契約者にだけ、魔力を宿した花蜜を集めてくれる。
王家の魔法治療。聖水。豊穣の儀式。
そのすべてを根底で支えていたのが――この子たちが集めた、魔力の蜜なのだ。
そしてその契約者は、わたくし。
社交界で沈黙し、田舎娘を演じていたのも――この契約と、国家の生命線を守るための、計算された処世だった。
「聞いてちょうだい、みんな」
わたくしは膝をつき、光る妖精たちに囁いた。
「わたくしたち、この国を出ることになったの」
『でていく?』
『ミレーユと、いっしょ!?』
「ええ。あなたたちも、一緒に来てくれる?」
『いく! いく!』
『ミレーユのいるところ、いく!』
わたくしは立ち上がり、月に照らされた王都の方角を振り返った。
「では――契約を、回収いたしますわ」
その瞬間から。
この国のすべての蜂蜜が、ゆっくりと結晶化を始めることを。
誰も、まだ知らない。
* * *
ミレーユお嬢様が去って、七日。
わたくし――リゼットの視点から、あの国のその後を、冷ややかに語らせていただきましょう。
異変は、静かに始まりました。
王城の厨房で、蜂蜜の壺がひとつ、またひとつと結晶化していく。
とろりと流れるはずの蜜が、白く固まり、やがて――どす黒く腐敗した。
「な、なんだこれは!? 蜜が、腐っている!」
最初に悲鳴を上げたのは、魔法医たちだったといいます。
魔力を宿した蜂蜜がなければ、治療魔法が発動しない。傷病者たちが次々と運び込まれるが、施す術がない。
豊穣の儀式も、失敗した。
聖水は、ただの水に戻った。
王国中の蜂蜜という蜂蜜が、示し合わせたように、その甘さと魔力を失っていったのです。
「どういうことだ!? なぜ蜜が使えない! 治療魔法も、豊穣の儀式も、聖水も――なぜだ!」
玉座の間で、王太子ロランが喚いていたそうです。
(愚かな男。自分が何を捨てたのか、まだ分かっていない)
家臣の一人が、青ざめた顔で進言したといいます。
「殿下……もしや、蜂蜜地を管理しておられたミレーユ様が去られたことと、関係が……」
「馬鹿を言え! あんな田舎娘の土いじりが、国家に何の関係がある!」
そう吐き捨てた、まさにその時。
義妹セレーヌが、扇を鳴らして進み出た。
「あら、心配いりませんわ、殿下」
勝ち誇った、いつもの笑み。
「あんな養蜂地、わたくしが管理すればいいだけのこと。お姉様にできて、わたくしにできないはずがありませんもの」
馬車を仕立て、セレーヌは意気揚々と辺境の養蜂地へと向かった。
ずらりと並ぶ巣箱。誰もいなくなった、静かな土地。
「さあ、蜜をお出しなさい。この国で一番美しいわたくしが、新しい主人よ」
彼女は巣箱に手をかざし、命じた。
――しかし。
何も、起こらなかった。
妖精たちは、姿すら見せなかった。
「な……なぜ? なぜ出てこないの!? 出てきなさいよ! わたくしが命じているのよ!」
巣箱を蹴り、叫び、泣きわめいても。
蜂蜜色の光は、二度と、この土地に灯らなかった。
(契約者を裏切った国に、妖精は決して微笑まない。そんな真実など、彼女は知る由もなかったのです)
* * *
一方、その頃。
わたくしミレーユは、隣国――竜人領にいた。
国境を越えたわたくしとリゼット、そしてもふもふのミエルたちは、竜人領の辺境で新しい養蜂工房を構えていた。
痩せていた王国の土地とは違う。竜人領の大地は魔力に満ち、ミエルたちは喜んで、これまで以上に上質な魔力の花蜜を集めてくれた。
『ここ、すき!』
『みつ、いっぱいとれる!』
「ふふ、よかったわね」
穏やかな日々。前世で夢見た、蜂蜜と共にある暮らし。
そんなある日のことだった。
工房の視察にと、竜人領の将軍がやってくるという。
『不敗の黒竜』ジーク・ヴォルガング。
戦場では恐れられる、無表情で寡黙な偉丈夫。額から漆黒の角を生やし、鋭い金の竜眼を持つ強面の男。
「粗相のないように……と言いたいところですが。お嬢様、あちらを――」
リゼットが、工房の隅を指さして、珍しく言葉を失っていた。
わたくしも、そちらを見た。
――巨躯を、精一杯縮めて。
黒竜将軍ジークが、蜜壺に指を突っ込んで、こっそりと蜂蜜を舐めていた。
背後で、漆黒の尻尾がぱたぱたと揺れている。
「……」
「……」
目が、合った。
ジークの顔が、みるみるうちに耳まで真っ赤に染まる。
慌てて指を引き抜き、咳払いをして威厳を取り繕おうとするが――口元には、まだ蜜がついている。
「……こ、これはだな」
「はい」
「品質の、確認だ。将軍として、当然の務め――」
「はい。それで、いかがでしたか?」
わたくしが微笑みかけると、彼はぐっと言葉に詰まった。
そして、そっぽを向いたまま、ぼそりと呟いた。
「……この蜜は、悪くない」
真っ赤な顔で。ぱたぱたと揺れる尻尾で。
この強面の将軍が、大の甘党であることを――全身で証明しながら。
(あら。……なんて、可愛らしい方かしら)
わたくしは、思わず声を上げて笑ってしまった。
身分でも、外見でもなく。
わたくしの作る蜜そのものを、こんなにも真っ直ぐに味わってくれた人は――彼が、初めてだった。
* * *
「ミレーユ殿。頼みがある」
数日後、再び工房を訪れたジークが、真剣な面持ちで切り出した。
今度は蜜壺を舐めていない。多分。
「竜人領の民に、あなたの蜜を届けたい。魔力を宿した蜂蜜は、我が領の治療にも豊穣にも欠かせぬものだ。……無論、正当な対価を払う」
わたくしの技術を、価値を、正面から認める言葉。
それが、どれほど嬉しかったことか。
「喜んで。ですが将軍、わたくし――もう一つ、興したいものがございますの」
「もう一つ?」
わたくしは、前世の記憶を辿りながら、ある液体の入った杯を差し出した。
とろりと黄金に輝き、芳醇な香りを放つそれを。
「蜂蜜酒――ミードと申します。蜂蜜を発酵させて造る、古き良きお酒ですわ。どうぞ、一口」
リゼットが、心得たように微笑む。前世知識に基づくわたくしの構想を、彼女はすでに理解し、事業として動き始めていた。
ジークが、恐る恐る杯を口に運ぶ。
こくり、と喉が鳴った。
次の瞬間。
彼の尻尾が、これまでにない勢いでぶんぶんと振れた。
「……!! ……う、うまい。うまいぞ、これは! ミレーユ殿、これを竜人領の名産に――いや、これは、その……」
威厳を取り繕おうとして、失敗して。
また耳まで真っ赤になる将軍を見て、わたくしは確信した。
この地でなら、わたくしは生きていける。
蜜妖精たちに愛され、有能なリゼットに支えられ、そして――甘いものに目のないポンコツな将軍に、大切にされながら。
いつしか竜人領の民は、わたくしをこう呼ぶようになった。
『蜜の聖女』と。
王国で『華のない女』と蔑まれたわたくしが。
ここでは、花蜜を操る、唯一無二の存在として迎えられている。
夜。工房の窓辺で、わたくしの肩にミエルがちょこんと乗った。
『ミレーユ、しあわせ?』
「ええ、とっても」
ミードの杯を傾けながら、わたくしは月を見上げた。
遠い、あの国の空を。
(さて。そろそろかしら)
* * *
「戻ってきてくれ、ミレーユ!」
竜人領の工房の前で、みっともなく膝をついているのは――かつての婚約者、王太子ロランだった。
蜂蜜を失って、数か月。
王国は、見る影もなく衰退したという。
魔法治療は崩壊し、豊穣は途絶え、民は飢え、王家の威信は地に落ちた。
かつて煌びやかだった王太子は、今や憔悴しきり、みすぼらしい旅装で隣国まで縋りついてきたのだ。
「あの時は、私が間違っていた! お前が――お前の蜂蜜が、国を支えていたなど、知らなかったのだ!」
「あら」
わたくしは、扇を口元に当てて、静かに彼を見下ろした。
喚かない。声も荒げない。
ただ、淡々と。
「知らなかった、で済むと思っていらっしゃるの?」
「た、頼む! 国が滅びてしまう! お前になら、もう一度――」
「ロラン殿下」
わたくしは、彼の言葉を静かに遮った。
「わたくしを『役立たず』と呼び、養蜂地ごと国から追い出したのは、あなた自身ですわ。周りが笑う中で。父も、誰も、庇わなかった」
ロランの顔が、蒼白になっていく。
「あの時わたくしがどんな気持ちだったか――今のあなたなら、少しはお分かりになるかしら」
背後で、リゼットが冷ややかに、かつての主家の男を見つめている。
わたくしの肩には、もふもふのミエルたちが、ずらりと並んでロランを見下ろしていた。もちろん、彼にその姿は見えない。
「お願いだ、ミレーユ! なんでもする! だから――」
わたくしは、ふっと微笑んだ。
蜜のように甘く。
そして、氷のように冷たく。
「――だが、断りますわ」
ロランが、息を呑む。
「妖精は、裏切り者に微笑みません」
『そうだ、そうだ!』
『ミレーユ、いじめたやつ、きらい!』
見えない妖精たちが、わたくしの言葉に同調して、ぷんぷんと怒っている。可愛らしいこと。
「あなたが失ったものは、二度と戻りませんわ。それは蜂蜜ではなく――信頼というものです」
その時、工房の奥から大きな影が現れた。
黒竜将軍ジーク。
無言のまま、わたくしの隣に立ち、ロランを見下ろす。その威圧感に、ロランはひっと喉を鳴らして後ずさった。
「この方は、もう我が竜人領の宝だ」
ジークの低い声が響く。
「二度と、蜜の聖女の前に薄汚い顔を見せるな」
……ちなみに、この威厳ある将軍が、昨夜わたくしのミードを飲みすぎて尻尾をぱたぱたさせていたことは、内緒にしておいてさしあげよう。
ロランは、崩れ落ちるように地に伏し、やがて力なく去っていった。
わたくしは、その背中を見送ることもせず、くるりと踵を返した。
「さあ、みんな。お茶にしましょう。今日は新しいミードが仕上がる日よ」
『やった!』『みつ! みつ!』
肩の上で跳ねる妖精たち。
隣で、こっそり期待に尻尾を揺らす将軍。
呆れたように、けれど嬉しそうに微笑む侍女。
――役立たずの養蜂令嬢は、こうして。
この国の蜂蜜を、全部連れて。
誰よりも甘く、幸せな日々を手に入れたのでした。
ふふ。ざまぁ、というものですわね。




