いずれあやめかかきつばた
「くだらないわ。そうでしょ?」
展望台よろしく設置された欄干にもたれて、娘はつまらなそうに景色を見下ろした。森やら草地の坂やらの向こうに見えるのは、川沿いの台地に規則正しく並べられた長屋の町だ。艷やかな髪は下ろしたままで、赤い上物の着物を纏って、せっかく裕福な家に生まれたというのに今の生活への不満を浮かべている。
「何が?」
隣の凡庸な弟に、娘は目元を吊り上げた。
「芦屋よ。この家のこと」
家といっても、家屋ではない。家系のことだ。
「昔の英雄の家系だか何だか知らないけれど、町の長を気取って、崇められて。でも実際は、脅して騙して、貢いでもらっているだけじゃない」
双子の姉が朱唇から歯を剥く様を見て、弟は困ったように眉を垂らす。
「こんな家、だいっきらい。潰れてしまえばいいんだわ」
そして娘は、再び町を見下ろした。川に囲われた故郷に、ありったけの嫌悪を向けて。
障子の向こう、昼下がりの縁側を慌ただしく踏み荒らす足音に気が付いて、あやめは顔を上げた。閉まった障子に人影が浮かんでいる。あやめは垂れ下がった横髪を耳に掛けたあと、その左手で紫の紗の襟巻きを整えた。
「どうしたの? 騒がしいけれど」
開いた障子に筆を置き、文机に頬杖をついて眺めやった先、生真面目な若武者のような年上の男が十七の小娘に頭を垂れた。
「お邪魔して申し訳ございません、あやめ様。ですが、急ぎお耳に入れたいことが」
あやめは無言で若武者――謙太郎に続きを促した。
「鵺塚が壊されました」
頬杖をやめて、身を起こす。
「……どういうこと?」
「過失だそうですが……」
詳細はまだ分かっていないようだ。
「町は騒ぎでしょうね」
あやめが当主として立つ芦屋家は、英雄の末裔だ。かつて都で、そしてこの地で暴れた妖・鵺を鎮めたという。鵺塚はその妖が封印された場所で、町の者の畏怖の対象。そして、芦屋が責任持って管理する場所だ。
「分かった。行きましょう。芦屋の当主である私が赴かなくてはね」
正座していた座布団から立ち上がり、黒絹の着物の裾を払った。金糸で縁取られた文目模様が整う。
「ご足労をお願いして申し訳ございません。ですが、町の者もあやめ様がお顔を出されれば安心することでしょう」
どうだか、という言葉は呑み込んだ。
転寝したときに見た夢の残滓が、頭の片隅に貼りついている。
町の北を横切る川が、やがて南へ向けて湾曲する。その湾曲点にあたる西の川原。砂利が敷き詰められた場所から、人の背丈ほど一段盛り上がったところに、件の鵺塚はあった。塚といっても、一見して鏡餅のごとき三段の積み石。一番上の石にはしめ縄が掛けられて、積み石の周囲を四角く木の柵が囲うことで、ようやくそれらしく見えている。
その鵺塚の周りには、殺気だった町人たちが集っていた。不届き者を責め立てているようで、そこここから怒鳴り声がする。
「道を開けて」
あやめが声を掛けると、町民たちは振り返り、しぶしぶ道を開けた。不満そうな顔の前を、謙太郎と素知らぬ顔で通り過ぎる。怒鳴り声はすっかりと止んだ。が、代わりにあやめの背後でひそひそと囁き声がする。
あやめは、それを無視した。
積み石は、しめ縄の巻かれた一番上が転がり落ちていた。二段目の石も心なしかずれて見える。覚悟して来たあやめもまた、肩を落としそうになった。
「貴方が余所者?」
塚の真ん前で途方に暮れていた不届き者は、そこらの男も見上げるほどの大男だった。二十くらいか。着物も窮屈そうな屈強な身体つき。彼が不届き者らしい。
「本っ当に申し訳ない!」
余所者は勢いよく頭を下げ、声を張った。
「眺めているときにちょっと眩暈がして、ふらっついたところに手を置いたら崩れちまって! 悪気はなかったんだが……大事なもんらしいな?」
唇を引き結び首肯するあやめを見て、大男は困った表情で、髪を結わえた後頭部を掻いた。その程度の動作も何処か大仰で、鬱陶しくある。
「……困ったな。直そうにも……俺には正しい姿が分からねぇ」
「当たり前だ! だいたい、お前なんかにこれ以上余計なことをさせてたまるか!」
中年の男が進み出て、拳を作って罵声を飛ばす。周りも同調していた。大男に同情する者も許す者も、老若男女問わず此処にはいない。
「大人しくその首を差し出して――」
「おやめ」
あやめは手を上げて、町人たちを制止した。恨めしそうな顔で中年男が下がる。
「直す気があるというのなら、責任を取ってもらいます。私についてきて」
「お、おう。承知した」
人垣の間を通り抜ける間、あやめには不信の眼差しが浴びせられた。来たときと同じように、ひそひそと陰口が囁かれる。
「なんだよ。意気地がねぇな」
「一度逃げだした根性なしだからねぇ、あやめ様は」
先を行く謙太郎が、僅かにこちらを振り返る。あやめは小さく首を横に振った。町人たちのあやめへの不信感は今に始まったことではなく、理由もまた正当なものである。無礼を咎めるなど、あやめにできるはずもなかった。
「鵺ってなんだ?」
騒ぎの中心も遠ざかり、芦屋の邸も近づいて人の気配も疎らになった頃、佑と名乗った大男が尋ねた。ここまでなだらかな坂だったが、佑のこめかみには汗が浮いていた。今日は暖かすぎるくらいだった。あやめも時折襟巻きを緩めて、中に風を取り入れている。
「大昔にこの地で暴れた妖。私のご先祖が鎮めたのだけれど」
「へぇ、英雄のご子孫様か」
興味津々といった様子で、佑はあやめを観察した。熱視線が居心地悪く、あやめは襟巻きを顎まで引き上げた。
「別に。大したものじゃない」
芦屋の邸の玄関に立つと、あやめは自分の部屋の現状を思い出した。転寝していた所為でまだ片付いていない書類が、文机の上にいくつか残っているはずだ。
あやめはしばし頭を抱え、それから謙太郎を見上げた。
「謙太郎、彼を客間に」
男たちは呆けた様子であやめを見下ろす。特に謙太郎は、信じられないものを見るような目であやめを凝視していた。
「しばし任せます。私は仕事を片付けなければ」
謙太郎は僅かに顔を歪めたが、逆らわなかった。ぶっきらぼうに佑を促して、あやめの前を通り過ぎていく。二人が廊下の突き当たりを右に折れていったのを見送って、ようやく廊下を進んだ。突き当たりは、左に。
部屋に戻ったあやめは、障子を開けた格好のまま動きを止めた。書類が積み重なった文机の向かいに、少女のように小柄な女が座っていた。
「ご機嫌麗しゅう、杜若」
茶色のおかっぱ頭を垂らし、茶色と橙の縞柄の着物の背を曲げて深々とお辞儀する。
「……夜雀」
あやめは肩を落としながら溜息を一つ吐き、手早く障子を閉めた。
「その『杜若』っていうの、止めてくれない?」
「何故ですか? 我ながら良い呼び名だと思っているのですけれど。芦屋の若君、杜治様」
少女らしからぬ意地の悪い笑み。その表情こそ、彼女が見た目相応の年齢でないことを物語る。
「うまいこと言っているつもりなんだろうけど、嫌みだっていうのは、さすがに私でも判るよ。『文目に似ていても、所詮は別の花』ってね」
「とんでもない。文目と杜若の区別がつかぬほど、夜雀の目は節穴じゃあありませんよ」
わざとらしく手を振って慌てた様子を見せる夜雀を、あやめは障子の枠にもたれながら、胡乱な目で見やる。
「貴方はお姉様よりも、ずっと素晴らしい。胆力がある。でなければ、役目を捨てて逃げた彩芽様の振りをして、芦屋を束ねるなどできはしない。まして男の身で、女の振りなど」
「姉さんがいなきゃ、芦屋は傾く。だから仕方なく、私がやっているだけさ」
あやめは襟巻きを緩めた。夜雀は、あやめの正体を知っている。暑苦しい物を巻いて喉仏を隠す必要もない。
芦屋は代々女が継承する。というのも、鵺を封じた英雄が女性だったからだ。正確には、戦ったのは男だが、封じたのは女。芦屋では封じたほうが持て囃された。その偉業が現在に渡るまで続いているからだろう。
「ところで、塚の件ですが」
そう、さっきまで続いていた。塚は破壊され、鵺は解き放たれてしまった。
「早速町の外に、鵺の爪痕が出ましたよ」
「……もう?」
「久々に外に出て、浮かれてるんでしょう」
あやめもまだ塚の報せを受けたばかりだというのに、来たばかりの彼女が、もうそこまで知っているとは。もう一つ身体があるのではないか、と思わせるほどの耳の早さ。
「町の人にまた言われちゃうな」
被害はどの程度か知らないが、あやめの所為だと詰られるのだろう。迷信深い彼らは、悪いことが起こるのは不甲斐ない当主の所為だ、と思っている。
町の人は、彩芽と杜治が入れ替わったことまでは知らないが、彩芽が逃げようとしたことは知っている。逃げきれず連れ戻されたことになっているが、実のところ杜治が姉に成り代わっていた。杜治は騒ぎで死んだことにして、姉を密かに逃がしていた。
筋書きは、夜雀が書いた。顛末を正確に知っているのは、あやめと夜雀だけだ。
「血を見せれば、ある程度不満は収まったでしょうに」
「そう矢鱈滅多ら、やれ殺せだのなんだの」
漏れた声に苛立ちが混じる。すぐに頭に血を昇らせて暴力に訴えようとする、芦屋の組員や町の人間の短絡的な思考に呆れているという点は、杜治も彩芽と一緒だった。
「……私には私の考えがあるの」
声を低くするあやめを、夜雀は黒めがちな眼で見上げ、それから肩を落とした。
「……そうですか。せっかく杜若にお勧めの品がありましたのに」
あやめは片眉を持ち上げた。言い忘れていたが、夜雀は行商だ。もう幾年も前から、彼女から何かしらの提供を受けていた。思えば彼女がただ噂話に来たはずもなく、さらには無駄なものを持ち込むこともないのだから、その〝お勧めの品〟には何か意図があるはずだ。
聞いてみて損はない、とあやめが身を乗り出しかけると。
「あやめ様」
障子の向こうから、謙太郎の声が掛かった。あやめは驚き、背後を振り返った。障子の向こうには影一つ。声の主以外にはいないようで胸を撫で下ろす。
「どうかした?」
開いた障子の向こうで片膝をついた謙太郎は、一度夜雀に視線を向けた。しかし、夜雀に言及することなくあやめを見上げた。常に生真面目な彼の顔が、少しばかり不機嫌に見える。
「奴が、早く仕事が欲しい、と」
「……良い心がけね」
どうやら問題児は、じっとしていられない男らしい。
「そうね。ちょうど良いから、行きましょうか。夜雀、その場所は何処だったかしら」
「塚に近い――東の長屋ですよ。ところで、お品物のことですが――」
夜雀の話を聴いてから向かったそこは、鵺塚のある区画から二区画ほど東に離れ、かつ北の川岸から一段高くなった台地にあった。土を踏み固めた上に、東西に延びる無垢の板の平屋が平行に四棟立ち並ぶ。その中心の二棟の間に、不安そうな住人たちが集っていた。だが、人々を押しのけるまでもなく、おおよその状況が分かった。土埃の舞いそうな地面、毛羽立つ長屋の壁、玄関を仕切る黄ばんだ障子。あちこちに獣の爪痕がある。まるで獅子や虎がはしゃぎまわったようだ。
「うわぁ……」
佑の顔が青ざめる。自分がどれほど大事な物を壊したのか、ようやく理解したようだ。
状況を伺おうと三人で近づけば、町民たちは不安そうな顔をたちまち赤変させた。
「芦屋の責任から逃げ出そうとした軟弱者が! あんたがさっさとそいつを殺していれば、うちの子が怪我することはなかったんだ!」
「そんなに殺しが嫌か、腰抜けめ」
「自分は弟を殺したくせにね」
罵倒、皮肉、非難。方々から刃のように冷たい言葉が浴びせられる。幾度となく理不尽に晒されてきたあやめは、素知らぬ顔で町民たちを掻き分けたが、
「……ずいぶんな言いようだな」
余所者は、怯える者たちに侮蔑の眼差しを送る。
「彼らも不安なの」
「だからあんたに八つ当たりか? ……軟弱者はどっちだよ」
町民たちに非難されつつ聞いたところによると、子どもが怪我をした以外には大きな被害はないようだ。子どものそれも、鵺に驚いて転んだだけ、とのこと。
まだ直接的な被害は出ていない。
爪痕を追って、あやめたちは東へ歩いた。空の端が暗くなっており、家屋の間に長い陰が落ちている。その陰の端には、先ほどとはまた別の人集りがあった。芦屋に仕える組員の中でも特に若い者たちだ。
「どう? 何か分かった?」
あやめが声を掛けると、若者たちはすぐさま侮蔑と嫌悪を顔に浮かべた。あやめの組内での評判が良くないのも今更のこと。しかし、血気盛んな彼らがあやめに手を出して来ないのは、彼らの中心にいる娘の為だろう。
「あやめ様のお手を煩わせるようなことは、何もございませんわ」
進み出る薄紫の着物の娘は、あやめの一つ下の従妹だ。真っ直ぐな黒髪と白い肌、赤い唇が目を引く美少女だった。肝の据わった振る舞いも見せる彼女は、実のところあやめよりも組員たちの支持を集めている。それでも彼女が芦屋の当主になれないのは――
「菖子」
耳を貫く高い声を低く静かに名を呼ぶことで遮ると、彼女は小さく舌打ちした。
「私は状況を問うているのだけれど」
不愉快さを少しばかり表に出したあやめに菖子は一瞬目を瞠り、渋い顔をした。
菖子は、前当主の弟の娘だ。だから、前当主の実子がいる以上、彼女が当主になることはない。鵺を鎮める英雄の血はあやめにこそ色濃く流れており、菖子は当主の資格者としてあやめに劣る――あやめの正体が知られなければ。
一瞬表情を崩した菖子だが、しかしすぐに華やかな笑顔を取り戻した。
「夜も近づいています。あやめ様を危険に晒すわけにはいきませんわ。ここはどうか、この菖子にお任せください」
あからさまな態度だった。周囲の若者たちが、あやめの当主としての無能さを嘲笑う。矜持を傷つけられる仕打ちだった。
だが、熟考の末、あやめはおとなしく引き下がることにした。
「……そうね。足手纏いは下がるとするわ」
ここで意地を張る理由が見つからなかった。強行しても、引き下がっても、あやめの評価は変わらない。なら、争いは避けるべきだ。
「そんな、あやめ様が足手纏いだなんて、滅相もございません! でも……」
甲高い声を上げた菖子は身を縮め、ちらちらと謙太郎に視線を送った。
「恐れ入りますが、謙太郎を貸していただきたいですわ。少し……男手が足りませんの」
あやめは口元に手を当て、考え込んだ。護衛の彼が離れてしまうと、あやめが無防備になってしまうが。
「……そうね。そのくらいなら」
謙太郎と佑は目を瞠り、菖子含めた三下たちはしたり顔で嗤った。謙太郎が抗議しようするのを止め、菖子の指示を聞くように言い含める。
「……頼んだわよ」
菖子たちに聴きとられぬよう声を低めて念を押せば、謙太郎は神妙な様子で頷いた。
「仰せのままに」
踵を返したあやめは、来た道を戻らずに北へと足を向けた。建物を二つ通り抜け、台地の縁に辿り着く。背が高く屈強な草ばかりが生えた隙間から、川の流れが見えた。
「ほっといて良いのかよ。侮られてるぜ」
黙ってあやめの後を追ってきた佑は、不満そうに口を尖らせた。
「彼女は当主の座が欲しいの。このまま支持を集めて、立場を乗っ取るつもりでしょう」
「良いのかよ!?」
「町の人が私をどう見ているか、聞いたでしょう?」
町を治める芦屋の当主であるあやめに向けられる侮蔑の眼差しと嫌悪の言葉。一度逃げ出した彩芽を、町の者は誰も歓迎していない。居なくなってしまえば良いとさえ思っているはずだ。何せ封じた鵺が解き放たれてしまうような事態を招く当主だから。
あやめは腕を組み、そっぽを向いた。雑然と生えた草が、暢気に風に揺れている。
「うんざりしているの、私も。だから――」
不意に肩に衝撃を受けた。誰かに石をぶつけられたのか、局所的な痛み。衝撃のあまりに身体がふらついて、前に出した足を草で滑らせる。身体は傾ぎ、支える間もなく茂みの向こうの崖に倒れて。
「危ねぇ!!」
台地から滑り落ちるあやめの身体に、佑が必死の形相で手を伸ばした。彼の手は黒絹の着物の袖を掴むも支えることはできず、結局二人して台地の急斜面を滑り下りることになった。
川岸の丸くなった白い石が二人を受け止める。凹凸の地面に、のしかかる男の身体。丸いとはいえ石の先端があちこちに刺さり、痛みに呻く。
「大丈夫か」
気遣う声を掛けて佑は身を起こし、崖の上を見上げた。そこには、草の影が揺れるばかりだったが。
「お前、狙われてるぞ」
あの投石は明らかに誰かによるもので、害意があった。だが、あやめはさほど興味を持たなかった。身を起こすも、宵闇が降りかかった川の景色をぼんやりと眺めるばかり。
佑に言われるまでもない。あやめが居ないほうが得だと思う人間は多いのだ。
「……お前、男だったのか」
ふと掛かった声に、あやめは視線を自分の胸元に落とした。襟巻がほどけて喉仏があらわになり、着物の合わせが広がって真っ平な男の胸元が覗いていた。
「だったら?」
吐き捨てた声は、自分でもどうかと思うほど、やさぐれていた。
「芦屋は、女が当主になる決まりだから。杜治はもとよりお呼びじゃない」
呆然としている佑を見上げた杜治の口から、乾いた笑いが漏れる。
「そこまでする必要があるのかよ?」
「組織を束ねる家長っていうのは、そういうものだよ」
逃げるのは許されず、逃げたら咎められ。責任ばかりがのしかかる。
だけど、杜治は報われない。彩芽の代わりに町を治め、彩芽の罪を償い。いくら杜治が尽くそうと、誰も褒めも労りもしない。
「……良いよな、姉さんは。自分ばかりさっさと逃げて」
次々と襲い掛かる事態に辟易し、溜め込んでいた鬱憤が溢れ出す。尻ぬぐいばかりの毎日に、いい加減うんざりしていた。
「だったら、お前も逃げれば良いじゃねぇか」
杜治は顔を上げた。佑はしゃがみ込み、神妙な顔を杜治の目線の位置に合わせる。
「もともとお前は当主になるんじゃなかったんだろ? 無理してないで、お前も逃げちまえば良いんだ」
当主の座を狙う従妹だっている。わざわざ嫌な思いをし、性別を偽ってまで、この町に尽くす必要があるのか。
指摘されればされるほど、杜治が此処に居続ける理由を見失っていく。
「逃がしてやるよ、俺が」
思わぬ言葉に、杜治は顔を上げた。
「……どうして」
「前の俺みたいで、見ちゃいられないからな」
首を傾げるも、佑は杜治から顔を背け、手だけを杜治に差し出した。大きくごつごつとした手だ。一方、その手に重ねた自分の手は、女のように嫋やかで。
どれほど〝あやめ〟として気を張っていたことだろう。
「よし、行こう」
このまま川上を辿って、町を離れることにする。夜闇の中、身を隠す場所に辿り着けば、そのまま逃げ遂せることができるだろう。
川原の石が白いのが幸いした。わずかな光でも道を見出すことができる。東へと上り、川が北へと徐々に湾曲し始める頃、身を隠すのにうってつけな森が見えはじめた。だがそこで、
「お待ちしておりましたよ、杜若」
夜雀が待ち構えていた。
「なんでこいつ、ここに……」
追手と思ったのか、佑が身構える一方で、杜治は無言で立ち尽くしていた。立ち向かうことも、逃げ出すこともせず。そんな杜治を佑は訝しみ、こちらへと顔を向ける。
夜雀は、佑に構わず杜治の前に進み出た。
「ご所望の品です」
差し出されたのは、一振りの刀だった。夜闇でもはっきりと見えるほどの黒の刀。鞘も柄も、黒。ただし中心を走る金の線が目を引く。工芸品のようなそれは、邸で夜雀が言っていた〝お勧めの品〟だった。
「……なんだ?」
「鵺退治の刀です」
昔、鵺と戦った男が使っていたという刀だ。
杜治が刀を受け取ったのを確かめた夜雀は、さらに森の中の案内を買って出た。不審そうな佑を宥めながら、杜治は有り難くそれに従った。
地面に降り積もった枯れ葉を踏み荒らし、宵闇に溶けてしまいそうな小柄な背中を追いかける。夜なのにもかかわらず、小鳥の声が降り注いだ。佑が不気味そうに梢を見回す。
「なんなんだ、あいつ」
夜雀の正体が知れない佑は、杜治に追いついてなお不安を口にする。
「大丈夫。信用して良い」
佑の眉根は寄ったままだ。左手に下げた刀が、歩く振動で鞘の中で鳴いている。
「あの子は俺の望みを解ってる」
佑はしぶしぶ引き下がった。
夜雀の案内は、さほど時間を取らなかった。慣れぬ道を行く疲労が来る前に、梢が遮り続けた月明かりが降り注ぐ場所に出る。円形に開けたそこには倒木が横たわり、その傍に縞模様の塊が岩のように蹲っていた。
「……あれは?」
「件の鵺だよ」
杜治が刀の柄に手をかけるのと、鵺が身を起こすのは、ほぼ同時だった。虎の背を伸ばし、平たい顔をこちらに向ける。眼球が零れ落ちそうなほど見開かれた双眼が、杜治と佑を捉えた。
「退治するのか!」
「じゃないと逃げられない」
杜治は強張った笑みで佑に応える。そうすると彼も覚悟を決めて、腰を落として身構えた。着物の襟に手を入れ、隠し持っていた小刀を出す。
「……佑。手伝ってくれる?」
「当たり前だ。俺の命も危ないからな」
すっかり立ち上がった鵺は、虎の前足を揃えて身を屈め、蛇の尾を揺らした。杜治と佑は目配せをし合う。長物を持つ杜治が一歩前に出た。そして身を翻して――背後の佑の身体に刀を振り下ろした。
よろめき後退するのを追い、今度は背を反らして晒された腹部に刃を突き刺す。
「……なんで」
傷口から血を滴らせた目を瞠る佑の身体から、杜治は乱暴に刀を抜いた。
「なんでって、不届き者には相応の罰が必要でしょう?」
何故、あやめが怒っていないとこの男は思ったのか。
あやめは芦屋の人間で、鵺塚を守る責任を負っている。彼はそれを知らぬとはいえ踏み躙ったというのに。
「……でも……うんざりだ、って」
「そりゃあそうでしょう。姉のツケを払わされているんだから」
ずっと不満だった。誰もがあやめを侮ることが。あやめを当主として認めないことが。
だから、ずっと機会を窺っていた。全員にあやめを認めさせる機会を。
そして、折よくこの男が現れた。
「感謝してるわ。余計なことをしてくれたおかげで、良い機会が作れた」
鵺を退治し彩芽の罪を清算して、当主としての実力を示せる機会が。
あやめたちの通った道から集団が現れる。先頭にいるのは、あやめを邪険にした菖子だ。その一歩後ろには謙太郎。さらには、芦屋の若い組員たち。
菖子たちは、目の前の光景に呆然と立ち尽くす。先ほどあやめの刺客役を演じた謙太郎だけが、あやめの無事に胸を撫で下ろしていた。
あやめは彼らに微笑むと、佑の襟首を掴んで鵺のほうを振り返った。
「さあ、鵺よ。あとは貴殿のご随意に」
不届き者を鵺に差し出す。こちらへと近づいていた妖は、目が虚ろになった佑の身体に興味深そうに顔を近づけて匂いを嗅いだ。あちこちと嗅ぎ回り、それから佑の頭を踏み付けて、柔らかい腹から食らった。
肉を喰む粘着質な音と拡がる血臭に、あやめを除く誰もが顔を逸らす。
町の者、そして組員たちは、不届き者を殺すように言ってきた。
しかし、あやめはそれでは不十分だと判断した。何故、自分たちが鵺に代わって裁けるというのか。一番憤っているのは、眠りを荒らされた鵺自身だ。自ら報復することを望むに決まっている。
だから、あやめはこの不届き者を鵺に差し出すために、連れ回すことにした。
あやめは機嫌よく食餌する鵺のごわついた耳裏を掻いた。鵺は一瞬だけ気にする素振りを見せたが、それでも食餌を止めなかった。
鵺があやめに気を許したのを察したのか、他の男たちを差し置いて、菖子がおそるおそるあやめに近づく。その肝の太さに、あやめは密かに感心した。
「ご苦労だったわね、菖子。でも、無駄足を踏ませてしまったみたい」
「いいえ! そのような些末事、どうかお気になさらず」
頬を紅潮させ目を潤ませた菖子だが、鵺の食餌に骨を砕くような音が混じり始めると、さすがに表情を強張らせた。おそるおそる顔をそちらに向ける。
「大丈夫よ。これで鵺は鎮まった。何も心配はいらないわ」
こちらを見上げ、玩具のように頷く菖子の頬に手を伸ばす。彼女は身を震わせながら、されるがままとなる。
食餌をやめた鵺が、甘えるようにあやめの胴へと頭を擦り寄せる。贄を献上した人間に満足したようだ。
いじらしいふたりを撫でながら、あやめはこれからに想いを馳せる。
わざわざ嫌な思いをし、性別を偽ってまでこの町に尽くしてきたのは、誰もが口を出せないこの瞬間を待っていたからだ。姉と弟の入れ替わりに気付かない愚鈍な連中の頭を押さえつけ、黙らせるきっかけを、ずっと待ち続けた。
それがようやく報われる時が来た。
あやめは顔を上げて、謙太郎を見た。彼は今、ともに喜んでくれている。いつの間にか夜陰に溶けた夜雀にも感謝しなければいけない。
あやめは不届き者と戦い、鵺を鎮めた。誰もがあやめを認めるだろう。
芦屋はこれからも安泰だ。あやめを主と認める限りは。




