第三部 第3章: 朋秀の挑戦
朋秀は、眼鏡販売店の静かな店内で一人、棚の整理をしていた。細かい作業を繰り返すうちに、無意識に時間が経つのを感じ、ふと立ち止まって時計を見た。昼の休憩時間はすぐそこだが、彼の頭は別のことでいっぱいだった。
自分が店の外で、いわゆる“普通の人たち”と会話を交わすとき、どれほどの重荷を感じるかは、彼には理解できなかった。それが、朋秀にとっては大きな問題だった。仕事では理論的に考えることができ、眼鏡に関しては誰よりも知識を持っている自信がある。しかし、何気ない会話、特に恋愛に関することで感情が絡むと、全くもってついていけない。
その原因は、過去の失恋にある。数年前、朋秀は自分の感情に素直になれなかった。その結果、好きだった相手に告白すらできず、あっという間に他の男に取られてしまった。そして、そのことが朋秀の心に深い傷を残し、その傷が未だに彼を縛りつけている。
「今日はどうした?」と、店の入り口から声をかけられた。声の主は、仲の良い同僚の吉田だった。
「別に、いつも通り。」朋秀は素っ気なく答えながらも、心の中ではその質問にどう答えるべきかを考えていた。吉田は、しばらく黙って彼を見つめていたが、やがて軽くため息をついて言った。
「朋秀、さっきからずっとお前、何か考え込んでるよな。なんか、気になることでもあるのか?」
朋秀はその問いに答えることができなかった。自分の内面の不安や恐れを他人に伝えることに抵抗があった。ましてや恋愛に関することを話すなんて、到底できなかった。だが、吉田の顔を見ているうちに、ほんの少しだけ心が動いた。
「……実は、最近、ちょっと気になる人がいて。」朋秀は、なぜかその言葉が口をついて出た。
吉田は驚いた様子で彼を見つめ、その後、少しニヤリと笑った。「おお、それはすごい進展じゃないか。どうだ、告白するのか?」
朋秀は思わず目をそらした。「いや、そんな……」
吉田はその反応に満足したのか、嬉しそうに腕を組んだ。「でも、告白ってさ、かなり勇気いるよな。お前、気持ちを伝えることができるタイプじゃないだろ?」
朋秀は黙ってうなずいた。吉田の言う通りだ。過去の失敗が、今でも彼を支配している。怖い、という気持ちが彼の胸に広がり、言葉を引き留めていた。
「でもさ、そうやって黙っているだけじゃ何も始まらないだろ? チャンスがあれば、伝えるべきだと思うぞ。お前がどうしても動かないと、相手も気づかないままだし。」吉田はそう言い、朋秀を見守った。
朋秀はしばらく黙っていた。頭の中で過去の記憶が渦巻き、胸の奥が苦しくなった。何度も失敗を経験してきた自分には、再びそのような痛みを受け入れる勇気が持てなかった。しかし、吉田の言葉が少しずつ心に響き始めていた。
朋秀は黙って作業を続けながらも、頭の中でぐるぐると考えが巡っていた。吉田の言葉が重く心に残る。いつもなら、こうして言葉を避け、何もかも自分の中で抱え込んでしまう。しかし、今日は違った。あの一言が、何かを変えるような気がした。
「告白か……」朋秀は、手にしていた眼鏡を片手で軽く回しながら呟いた。まるでその行為が、何かを切り開く鍵になるかのように。
その時、店のドアが開く音がした。ちらりと振り返ると、そこに立っていたのは、彼が少し気になる女性だった。玲奈という名前のその女性は、店によく来る常連客で、以前から何度も朋秀と会話を交わしていたが、いつも彼は緊張してしまい、十分に話せなかった。
彼女は、目の前に並んだ眼鏡をじっと見つめている。朋秀の胸が少し高鳴る。どうしよう、今、声をかけるべきだろうか。それとも、ただ普通に接すればいいだけなのか。悩む気持ちの中で、彼はふと吉田の言葉を思い出した。
「そうだ、今しかない。」
自分でも驚くほど自然に、彼は玲奈の方へ歩み寄った。そして、軽く声をかけることができた。
「こんにちは、玲奈さん。今日はどんな感じの眼鏡をお探しですか?」
玲奈はびっくりした顔を一瞬見せた後、にっこりと微笑んだ。「あら、朋秀さん、今日は声をかけてくれるのね。今日は新しいスタイルを試してみたくて、少し冒険しようと思って。」
その一言で、朋秀の胸は少しだけ軽くなった。玲奈は、彼が想像していたよりもずっとリラックスした雰囲気で話している。少し前までは、こうした会話すらも緊張でできなかった自分が、今は自然に会話を続けている。
「冒険ですか、それは面白いですね。どんな感じを試してみたいんですか?」朋秀は、少しだけ自分の声が震えているのを感じながらも、笑顔で返した。
「うーん、少し大人っぽくて、でもちょっと遊び心もあるような感じ。普段はあまり挑戦しないから、今日は思い切って。」玲奈は、棚から一本の眼鏡を手に取る。
朋秀はその眼鏡をじっと見つめ、彼女の希望に沿ったアイテムを思い浮かべながら説明を始める。「こちらのデザインは、どんな顔立ちにも合いやすくて、少しユニークさもあります。試してみますか?」
玲奈は、その提案に興味を示し、微笑んだ。「じゃあ、それを試してみます。」
二人の距離が縮まった感覚が、朋秀の胸を温かくした。玲奈の反応が柔らかく、まるで友達と会話をしているような安心感があった。彼は、いつの間にか自分が恋愛に対して積極的になっていることに気づく。玲奈が眼鏡を試している間、彼はその姿を見守りながら、これまでの自分の気持ちの変化を振り返っていた。
「もしかして、少しだけでも進んでいるのかもしれない。」
心の中でつぶやくと、朋秀は少しだけ深呼吸をしてから、玲奈に向かってにっこりと笑いかけた。「似合ってますよ。そのスタイル、すごくおしゃれです。」
玲奈はその言葉に嬉しそうに笑顔を返す。「ありがとう、朋秀さん。やっぱり、あなたのセンスはいいわね。」
その言葉に、朋秀は思わず顔が熱くなった。しかし、それを隠すことなく、素直に笑うことができた。今までは、他人の反応に対して過剰に敏感になり、喜びを素直に表現することができなかった。しかし、今日は違う。玲奈との会話が、彼にとっては少しずつ自分を表現することの楽しさを教えてくれていた。
「どういたしまして。」朋秀は、少し照れながらもその言葉を返した。
その後も、玲奈は他の眼鏡をいくつか試し、朋秀は彼女が気に入りそうなデザインを提案し続けた。どんどん会話が弾み、やがて玲奈が選んだ眼鏡が決まると、二人はレジに向かうことになった。
「また来るね。」玲奈は、笑顔で朋秀に言った。
朋秀は心から笑顔を返しながら、その言葉に少しだけ胸が温かくなるのを感じた。「お待ちしています。」
玲奈が店を出ると、朋秀はその場で一呼吸おいて、自分の気持ちが少し軽くなったことに気づく。普段ならば、こんな風に他人とスムーズにコミュニケーションを取ることができなかった。でも、今日は違った。自分の感情に少しずつ素直になれたような、そんな感覚があった。
そのとき、再び吉田が店にやって来た。「どうだった?玲奈さんと何か進展あったのか?」
朋秀は軽く頷きながら答えた。「少しだけ、進んだ気がする。」
吉田はにやりと笑いながら言った。「それなら、次はその調子でいけよ。」
朋秀はその言葉に、今まで以上に前向きな気持ちが湧き上がってくるのを感じた。まだ一歩を踏み出しただけかもしれないが、その一歩が大きな意味を持つことになると信じていた。
第3章終




