第一部 第2章: 信頼と疑念
浩之は、深い溜息をつきながら、広がる街の灯りを見つめていた。夜の空気が冷たく、ひんやりとした風が彼の頬を撫でる。まるで、自分を外界から隔てているかのように感じられた。あの女性――莉奈が放った言葉が、今も彼の耳に残っている。彼はいつも他者と距離を取ってきた。誰にも心を開かず、誰にも依存しないようにしてきた。だが、どうしても彼女の言葉だけが胸に突き刺さる。
「関係ない。」あの日、彼女に放った言葉が頭の中でリピートする。
彼はその場から動く気力を失ったように立ち尽くし、足元の石畳を見つめる。自分が何を恐れているのか、何が怖いのか。それを考えるだけで、また胸が締め付けられるような感覚に陥った。傷つくこと、信じて裏切られること、それがどれほど痛いか、彼はよく知っている。
その時、後ろから足音が聞こえてきた。浩之は振り向かずに、その音が自分に近づいてくるのを感じる。やがて、その足音が彼の隣に止まった。自分と同じように、足元を見つめるその人物の姿が見える。
「浩之さん。」
その声に、浩之は思わず身をすくめた。しかし、振り向くことなく、ただ無言でその場に立ち続けた。少しの間、沈黙が流れる。
「どうしてそんなに壁を作るんですか?」莉奈の声が、再び彼の耳に届く。
浩之はその言葉に答えようとするが、言葉が喉に詰まって出てこない。彼女の質問が、まるで彼の心の中にあるすべてを見透かしているかのように感じられ、無意識に口を閉ざした。
「怖いんですか?」莉奈は少しだけ間を置き、続けた。「自分が傷つくこと、誰かを信じることが、怖いんですよね?」
その言葉がまるで浩之の心を突き刺すようだった。彼はその瞬間、彼女の目を見たくなかった。どうしてこんなに自分の心を見透かされるような気がするのだろうか。だが、彼は一歩踏み出し、歩き始めることなくその場に立ち止まった。
「信じることが怖いだけだ。」浩之は静かに呟いた。その言葉は、まるで自分に言い聞かせるようなものだった。
莉奈はしばらく黙って彼を見つめていた。そして、何も言わずにそっと彼の隣に立った。無言の時間がしばらく続いたが、次第にその沈黙が心地よいものに変わっていった。
「信じるって、怖いことだよね。」莉奈が静かに言った。その声には、共感と少しの温かさが込められていた。
浩之は再び無言で前を見つめ、彼女の言葉を反芻していた。彼は信じることに恐怖を感じていた。そして、その恐怖が彼をずっと孤独にさせてきたことを自覚していた。だが、莉奈がそれを理解し、彼に寄り添っていることが、何だか不安と同時に少しの安心感を与えていることに気づき始めた。
「でも、もしその恐怖を乗り越えられたら、何か変わるんじゃないかな。」莉奈は柔らかく言った。
浩之はその言葉に少しだけ反応し、彼女を見た。今度はその目をしっかりと見つめることができた。
「変わらない。」浩之は静かに言った。「過去を変えることはできないから、変わったとしても、また誰かが傷つくんだ。」
その言葉に、莉奈は少しだけ眉をひそめた。だが、すぐにその表情を戻し、浩之に対してゆっくりと歩み寄った。
「分かります。私も過去に傷つきました。でも、傷ついたことがあるからこそ、もっと強くなれると思うんです。」
浩之は少し驚いたように彼女を見つめた。彼女はただ、彼の目を見返すことなく、静かに続けた。
「人は、傷つきながらも学んでいくものだと思います。そして、過去を受け入れることで、未来を変えることができる。変わることができるんじゃないかって、私は思っています。」
その言葉は、浩之の心に何かが響くようだった。彼は再び、目を伏せたまま静かに言った。
「それでも、怖いんだ。」
莉奈は微笑みながら、ゆっくりと彼に向かって言葉を続けた。
「怖いのは当然です。でも、信じることを恐れないで。私は、あなたが信じられるようになったら、きっと何かが変わると思います。」
浩之は無言で立ち続け、その場で何も言わなかった。だが、心の中には確かに何かが動き始めたような気がしていた。それは、過去を受け入れ、未来に対して少しだけ希望を持てるようになった証拠なのかもしれない。
冷たい風が二人を包み込み、夜の空気がその冷たさを強めていく中、浩之は再び歩き出した。まだ心の中に不安が残っているが、莉奈が彼の隣に歩いていることが、今の自分にとってどれだけ大きな意味を持つのかを感じながら。
第二章終




