◆6 裏切り者の執事に復讐を! ーーこれからは、心身ともに刃向かえないようにしてやるから、安心なさい!
その頃、サットヴァ公爵邸でも大騒ぎとなっていた。
黒い稲妻が公爵邸に落下したかと思うと、公爵夫妻が突然倒れ、昏睡状態になってしまっていたのだ。
公爵家お抱えの医師は溜息をつきつつ、首を横に振るしかできない。
メルク・サットヴァ公爵子息は両親をベッドに寝かせ、爪を噛む。
(今現在、サットヴァ公爵家の当主は僕なんだ。
僕がなんとかしなければならない。
でも、どうして、お父様やお母様がお倒れに?
そもそもなんだよ、黒い稲妻って……)
そこへ王城から使いの者が現われた。
そして、チチェローネ公爵令嬢が監獄から逃げ出した、と急報されたのである。
淡々と急報を伝える執事ヴァサーリに、メルクは声を荒らげた。
「な、なんだって!?」
「つきましては、『今後のことを話し合いたい、即座に来られたし』と王太子殿下が」
「わかった。ヴァサーリ、非常事態だ。
お父様とお母様をよろしく頼む」
執事に後を任せ、メルクは馬車に乗り、王城へと走り去った。
「ふう。なんとも慌ただしいことだ。
メルク様には、もっと公爵家次期当主に相応しい威厳が必要だな」
メルクの出立を見送ってひと息つくと、執事ヴァサーリはゆっくり廊下を歩き始める。
彼は本来、チチェローネ嬢専属の執事であったが、家令が老齢であったこともあり、今ではサットヴァ公爵家のすべてを預かる執事になっていた。
ヴァサーリは悠然としたものだったが、他の公爵家に仕える者たちは、男女の別なく、みな怯え始めていた。
学園を首席でご卒業なされた自慢のチチェローネお嬢様が、数々の犯罪を冒した罪で死罪を賜った。
かと思うと、監獄から脱走したと急報された。
それだけではなく、お屋敷の主人たる、サットヴァ公爵ご夫妻がいきなり倒れた。
まさに凶事の連続である。
いくらか事情に通じているであろうヴァサーリに、何人もの侍女や下男が不安を口にしたが、そのことごとくを軽くいなされた。
「大丈夫ですよ。
少なくとも、お屋敷の安全は確保されております。
これだけ番犬がおりますからね」
廊下を歩く間に、何頭もの大型犬が、ヴァサーリの足下にまとわりつく。
ヴァサーリは懐から袋を取り出し、中から乾いた肉片を放り投げる。
シュッとした体躯をした黒い大型犬に、餌を与えたのだ。
扉を開けて、飼犬が自由に行き来できるようにして、執事ヴァサーリは自室に戻った。
椅子に腰掛け、手足を伸ばす。
ようやく、のびのびできる。
今まではお嬢様のお使いをしたりして、自分のための時間を取ることができなかった。
自由に決断できる主人のチチェローネ嬢がうらやましかった。
彼女がいる限り、自分はいつも使いっぱ。
執事ゆえに当たり前とはいえ、イライラが募っていた。
一ヶ月以上前に催された舞踏会での〈断罪イベント〉を、ヴァサーリは思い出す。
主人のチチェローネ公爵令嬢が行なった「悪事」として、彼、ヴァサーリも幾つかを「暴露」した。
いわくーー。
生徒会の募金を使い込んで、アクセサリーを買った。
いつもお嬢様が学年トップの成績だったのは、カンニングによるもの。
その証拠として、カンニングペーパーであると称して、書類を山と積んだ。
ーーだが、これらの証言や証拠は、すべて嘘だった。
生徒会に集められた募金を使い込んだというのも嘘。
そればかりか、管理を任されたお嬢様のお小遣いを横流しして、自分の服装やこれら番犬たちの餌代にあてた。飼犬を新たに購入する資金にも使った。
ヴァサーリは結構、好き勝手にしていたのである。
が、悩みもあった。
じつは密かに自分が行なってきた着服や横流しを、委細承知のうえで、お嬢様は黙認されているのではーーそう感じられてならなかったのである。
おかげで、常に後ろ暗い意識に、ヴァサーリは苛まれていた。
そんな罪の意識から、ヴァサーリを解放してくれた人物こそが、リリアーナ嬢だった。
買い出しの際、街中で遭遇したリリアーナ嬢は、ヴァサーリの手を取ってささやいた。
「ヴァサーリ様。
貴方はもっと自由に生きるべきです!
執事である前に、人間であれ。
身分差別こそが敵なのです。
身近な差別者に当然の報いを!」
彼女の言葉が、胸中奥深くに響いた。
だから、ヴァサーリは決心した。
封建社会の権化である、公爵令嬢チチェローネ様を追い落とす、と。
ヴァサーリが往時をつらつらと思い出していると、不意に声をかけらた。
「ふうん。見事に誘惑されたってわけね。リリアーナの小娘に」
椅子に座ったまま顔をあげると、目の前には、チチェローネ公爵令嬢の姿があった。
「まさか、ほんとうに、あの監獄塔から……どのように?」
ヴァサーリは驚いた。
城からの使者から、チチェローネ公爵令嬢の脱走を聞き、メルクに伝えたものの、自身では半信半疑だった。
王太子殿下が、急ぎメルク公爵子息を呼び出すための口実ぐらいに思っていた。
ヴァサーリは反射的に椅子から立ち上がり、跪く。
その一方で、チチェローネ公爵令嬢は、当然のごとく来客用のソファに腰掛けた。
「よくもカンニングしたなどと勝手なこと。
しかも、貴方が使い込んだものまで、私に罪を着せるとはね」
座上にあるチチェローネ嬢に対し、ヴァサーリは顔を上げた。
「なぜ、真実を……」
肘掛けにもたれながら、チチェローネ嬢は微笑む。
「余ーーいや、今の私には、人間の心が手に取るように読めるのです。
貴方のそのネクタイも、ネクタイピンもプレゼントして、犬を飼うことも許可したのも、すべて私だと言うのに、ずいぶんなことをしてくれたものね」
改めて、ヴァサーリは平伏する。
「も、申し訳ございません。
されど、王太子殿下がお怒りになっておられるのですから、仕方ありません。
『ヴァサーリ、おまえもこの流れに乗るのだ』
とおっしゃったのは、次期公爵家当主であられる弟メルク様です。
つまり、私は主人の命に従ったまでで……」
「黙れ!」
チチェローネ公爵令嬢は立ち上がった。
「なにが『身分差別こそが敵』だ!
封建社会の権化である王太子に媚び諂いおって。
私が女性だからと舐め切っただけであろうが!
この背徳の卑劣漢めが!」
ヴァサーリの顎を蹴り上げる。
「ぐわっ!」
執事はひっくり返る。
激痛を感じ、顎を両手で押さえる。
顎骨が砕けたかと思った。
女性のものとは思えない、もの凄い力だった。
「貴方は私付きの執事でしょう!?
ならば、私に忠誠を誓うべきではないの!?」
「ちっ!」
執事は舌打ちする。
と同時に、開き扉がバンと開いた。
室内に五匹の犬が駆け込んできて、唸り始めた。
グルルルル……!
扉の傍で腰を抜かしながらも、ヴァサーリは主人チチェローネ嬢を指さして叫んだ。
「行け! 喰らいつけ、おまえたち!」
ワオオオン!
番犬をけしかけ、チチェローネ公爵令嬢を襲わせたのだ。
五匹の番犬がいっせいにお嬢様に噛みついた。
なすすべもなく、公爵令嬢は倒れる。
手足に噛みつき、皮や肉を引きちぎった。
「どうだ!」
ヴァサーリは四つん這いの姿勢になって、快哉をあげた。
これら番犬は、いずれも公爵閣下の狩りに同行させた狩猟犬だ。
普段なら猪や鹿なんかを噛み殺すだけ。
だが、ヴァサーリは特別な躾を密かに施していた。
ヴァサーリがピューと口笛を吹く。
と同時に、犬どもが牙を剥く。
ガツガツガツ!
さらに、容赦なく、五匹の猛犬が獲物に喰らいついた。
青年執事は高らかに笑った。
「はぁはははは!
こいつらは、番犬として、私が特別に仕込んだんだ!
定期的に獣を狩らせ、喰わせていたんだよ。
人間を喰わせたのは初めてだったが、問題なかったようだーーん?
血が出ていない!?」
これほど狩猟犬に噛み付かれたら、当然、獲物から血飛沫が上がっているはず。
なのに、噛み付く音はするのに、血が飛び散っていない。
代わりに、黒い霧が立ち込めてくる。
そして、五匹の番犬たちの様子がおかしくなっていった。
身体がグニャグニャになったかと思えば、次第に形が整っていきーー。
執事ヴァサーリは目を丸くする。
「な、なんだ、これは……!?」
黒い霧を背景に、番犬たちが、美しい筋肉質の人間の姿になっていた。
三匹の雄と二匹の雌が、三人の男と二人の女にーー。
今まで床に押し倒されていたチチェローネは、ゆっくりと立ち上がる。
まったくの無傷の身体で。
改めてソファに戻り、ドサリと腰を下ろす。
「この犬どもは、主人の命令に忠義であった。
裏切り者の貴方より、よほど人間にふさわしい」
人間に変貌した五匹は、片膝立ちとなり、控えている。
周囲の他の犬たちも、尻尾を丸めて平伏していた。
チチェローネ公爵令嬢が扇子を広げて、ヴァサーリに向ける。
すると、三人の元番犬男が執事に駆け寄り、素早く羽交締めにする。
二人が身体を拘束し、一人が頭を掴んだのだ。
元番犬男たちが、そのまま力を込めて、ヴァサーリを跪かせる。
「ぐっ!」
執事ヴァサーリは必死に顔面を起こす。
「こ、こんなこと……。
貴女はお嬢様じゃない!
何者だ!? 化け物め!」
チチェローネ嬢は悠然とソファから立ち上がり、ツカツカと執事の面前まで歩く。
そして、ハイヒールの足で、ヴァサーリの顔を踏みつけた。
「ひっ!?」
「貴方が信じられるのは犬だけーーということね。
でもまぁ、わからないでもない。
伝わるわ、貴方の熱い想いが。
番犬どもだけが、自分の言う通りに動いてくれる。
だから、犬が好きでたまらないーーと。
自分が公爵家の者に犬のように使われてるから、使役できる存在が欲しかったのね。
哀れな人間。
じゃぁ、人に使われても不満が起きない身の上とさせてあげましょう」
チチェローネ嬢は、パチンと扇子を閉じる。
そして、人間には解し得ない言葉で何事かをささやいた。
その途端、執事ヴァサーリの身体がいきなり変貌した。
黒い霧包まれたかと思うと、ヴァサーリの長身が縮み、四つん這いになった。
「何をした!?」
と叫んだが、それは言葉とならなかった。
「わんわん!」
言葉を発しようとしても、犬の鳴き声にしかならなかった。
チチェローネ公爵令嬢は再び扇子を広げ、口許を隠しながら笑みを浮かべた。
「ヴァサーリ。貴方は犬になったのよ」
そして、綺麗な手を伸ばす。
「さあ、ヴァサーリ。おすわり。お手!」
ペタンとお尻を地面につけ、肉球がついた前足を、チチェローネの手に載せる。
それだけで、全身に喜びが込み上げ、だらしなく口を開け、舌を出し、尻尾を振るのをやめられない。
「貴方はこれから私の命令にそむくことができない。
忠犬になったの。
ほんと、ヴァサーリにふさわしい身の上だわ。
そうだ。あんまりにも可愛いから、ご褒美をあげる」
チチェローネ嬢は踵を返してソファに戻り、腰掛ける。
それからハイヒールを、そしてストッキングを脱いで、生足を出す。
「お舐め」
犬となったヴァサーリは、主人の命令に抗うことはできない。
尻尾をブンブン振りながら、チチェローネ嬢の足指に駆け寄ってペロペロと舐め回す。
舐めながらも、執事ヴァサーリは悔し涙を流す。
が、行為を止められないばかりか、全身に快感が走ってしまっていた。
「お腹をお見せ!」
主人の命じられるままに、ゴロンと横になって、腹見せをしてしまう。
挙句、その腹を足で踏み付けられる。
それでも喜んで尻尾を振ってしまう。
屈辱と同時に、興奮が止められないーー。
チチェローネは改めて立ち上がり、腹見せをしたままの犬のヴァサーリに宣言した。
「いいですか、ヴァサーリ。
犬になった貴方でも、私が命じれば、人間に戻れます。
その時までは、飼っておいてあげましょう。
いいですか。
私は王太子のほか、他の面々に向かって、私になすりつけられた罪状が、すべて冤罪であることを証明してみせます。
断罪イベントをやり返してやるのです。
そのときに自分が偽証したことを宣言すれば、貴方が人間に戻ること許しましょう」
ソファに座り直すと、元番犬の男に向けて顎をしゃくる。
「貴方、餌の在処を知ってるでしょ?
そろそろお腹が空いたでしょうから、わんちゃんたちにお食事を」
元番犬男は即座に隣室から大量の犬の餌を袋ごと持ってきた。
今までヴァサーリがこだわって溜め込んできた生肉タイプの餌だ。
これを床にバサッと撒き散らす。
「さあ、お食べ」
主人チチェローネ嬢の許しを得て、飼犬たちはいっせいに餌に向けて駆け寄った。
その中には、今や犬の姿になった執事ヴァサーリもいた。
他の飼犬に混じって、尻尾を振りながら、ガツガツご飯を食べる。
犬の生存本能には抗えないようだった。
「そこで仲間と、おとなしくしていなさい。
ーーさて、次は誰にしようかしらね」
チチェローネ嬢がソファから立つと同時に、それまで片膝立ちになっていた裸の若い男女も立ち上がる。
元番犬だった者だたちだ。
「ついてきなさい、眷属たち。
ああ、その前に服が必要ね。
だったら、やっぱり、あの娘のところに行かなきゃね」
チチェローネ公爵令嬢はパチンと扇子を閉じた。