◆5 滅国の予兆 ーーチチェローネ嬢が濡れ衣を着せられた証明は、大悪魔の召喚によってすでに果たされている!?
監獄塔から公爵令嬢がいなくなって、ランブルト王国は大騒ぎとなった。
監獄塔の監禁部屋には、黒い羽が散乱していた。
その黒い羽に、看守が少し手で触れた。
すると、とんでもない事件となった。
看守がいきなり白眼を剥き、腕や足を振り回して、暴れ始めたのだ。
その騒ぎを鎮めるために、三人の衛兵を必要としたほどだった。
看守は初老で、格闘訓練を受けていない。
それなのに、怪力となって、巨漢の衛兵を何人も投げ飛ばした。
その現象を耳した識者は喉を震わせた。
「これは魔力付与ーーまさに、悪魔の能力。伝承の通りだ……」
悪魔の羽は、手に触れただけで呪いにかかる。
これらの黒い羽は、悪魔の羽なのだ。
誰にも、迂闊に手が出せなくなっていた。
しかも、空には黒い稲妻が走ったとの証言まであった。
教会も予言省も大騒ぎとなっていた。
伝承では、〈黒き雷〉は、大悪魔の復活を意味する。
緊急招集を受けた予言省長官シグエンサと、教会の大司教バパは、ランブルト王宮の謁見の間で国王夫妻を前に頭を垂れた。
様々な怪現象の報告を受け、国王と王妃は玉座から身を乗り出した。
「まさか、ほんとうに誰かが悪魔を召喚したのか!?」
「なんてこと……」
予言省長官シグエンサは顔を上げ、訴える。
「本来なら、復活はあり得ません。
封印はあと百年は保ったはずです」
近年、サットヴァ公爵家の管理が甘いとの指摘はあったが……封印の堅さから油断した。
ランブルト国王は、苛立ちの声を上げる。
「封印を解いたのは、やはりサットヴァ公爵か?
あれはどうした? なぜ招集に応じない?
まさか、謀叛か?
それほど豪胆な者とは思えないがーー」
今度は大司教バパが、額に汗を浮かべながら訴えた。
「いえ、公爵閣下には封印は解けませぬ。
あれは婿養子。もともとはダーメ子爵家のご子息。
サットヴァ公爵家の正統な血筋は、すでに亡きサリー・サットヴァ様でした」
そこで王妃様が、沈んだ声を出す。
「では、封印を解き、悪魔召喚を果たしたのはーー」
大司教バパは、溜息混じりに断言した。
「その力を持つのは、このランブルト王国では現在、ただひとり。
チチェローネ公爵令嬢ーー」
国王陛下はドンと玉座の肘掛けを叩いた。
「おのれ、あの娘!
自ら悪事をなしておいて、逆恨みしおって!」
そこで声を上げたのは、予言省長官シグエンサだった。
「いえ。国王陛下。
ここは慎重に検討しなければなりません。
道を誤れば、国が滅びますぞ」
「く、国がーー!?」
「こちらこそ、お伺いしたい。
なぜ、サットヴァ公爵家のご令嬢チチェローネ様を処刑なさろうと?」
予言省長官の問いに、国王はうわずった声をあげる。
「我が息子ーーオネスト王太子が、あの娘を断罪したからだ。
リリアーナという子爵令嬢に対して暴行、毒殺を試みた、と」
王妃もうなずく。
「そして、なにより教会から証言がありました。
黒ミサを行なったと」
「馬鹿な!」
予言省長官シグエンサは、顔を真っ赤にして激発した。
すぐに横にいる大司教バパを睨みつける。
大司教はバツが悪そうに眉間に皺を寄せていた。
予言省長官は怒鳴った。
「黒ミサの効力など、無に等しい。
それは何十年も前、教皇庁で開かれた公会議で決議されていたではないか!
あれは無教養な信徒を従えるための方便にすぎぬと。
まだ、脅しをやめていなかったのか、教会は!」
今度は、国王夫妻が目を丸くする。
そして、いっせいに大司教を睨みつける。
教会の大司教は口ごもるしかなかった。
「老修道女の証言がありましたゆえ……」
「まずい、まずいですぞ……」
予言省長官は身を震わせる。
「こちらへ伺う直前、〈先読みの水晶〉を確認しましたところ、真っ黒になっておりました。
漆黒の闇です」
国王夫妻は生唾を飲み込む。
「まさかーーあの伝承の……。
七日七晩、世界が闇に閉ざされたというーー」
「もっとも恐ろしい大悪魔が召喚された可能性がーー国ばかりか、世界をも崩壊せしめ得る……」
国王陛下は玉座から立ち上がった。
「すぐに騎士団に挙兵の準備を!
そして、関係諸国にも緊急連絡をーー」
だが、ここで大司教バパが叫ぶ。
「お待ちください!
もし、召喚された悪魔が、あの〈漆黒の大悪魔〉なら、そのような、人間の武力では対抗できませぬぞ。
かの大悪魔は、現在の諸国とは比肩し得ぬほど精強を誇った、古代統一帝国をも葬り去ったのです」
「では、どうしろと?」
口をへの字に曲げる国王に、大司教は説明する。
「かの大悪魔を封印したのは、天使の軍勢だと伝承されております。
その天使軍団をこの世界に召喚したのは、神に選ばれし聖女だ、と」
「聖女ーー?
ほんとうにいるのか、そのような者が?」
てっきり、童話の世界だけの存在だと思っていた。
国王と王妃は互いに顔を見合わせる。
そんな二人に対して、大司教バパは話を続ける。
「世界の中に埋もれているであろう聖女を探し出すのは容易なことではありませんがーー世界中に支部を持つレフルト教会が、総力を挙げて捜索いたします。
ですが、それよりも先に、我々、人間がなし得ることがございます」
「なんだ? 我が王国にできることなら、なんでもするぞ」
再度、身を乗り出す国王に、大司教は案を提示した。
「召喚をなした者ーーおそらくはチチェローネ公爵令嬢でありましょうが、その者が大悪魔と契約した条件を成就させないことです」
「契約の成就?」
「そうです。
大悪魔に限らず、木端の悪魔ですら、この世界に召喚されたとなれば、召喚主と何かしらの契約を交わしているはず。
その契約を果たさない限り、召喚された悪魔は力を発揮できないのです」
「おお、それは好都合じゃ。
厄災が起こる前に、悪魔が弱いうちに契約不履行に追い込んで、この世界で力を発揮させぬ、というわけか」
国王は白い顎髭を撫で付けながら納得する。
「ーーじゃが、あの娘は、いかなる契約を交わしたのであろうか?
もちろん、処刑を逃れるために監獄塔から逃亡したわけじゃから……うん?
どうした、大司教?」
大司教バパの顔から、すっかり血の気が退いていた。
再び、ガバッと平伏した。
本来、教会は王国からは独立した組織であり、その国における最高責任者である大司教が国王に這いつくばることはあり得ない。
よほどの失態を犯していない限りはーー。
「申し訳ありません。
教会は、やってはならない失態を犯したようです。
すぐさま教皇庁に通達いたしますゆえ、ご容赦を。
私ひとりの生命は、ランブルト国王陛下にいくらでもお預けいたしますゆえ……」
予言省長官シグエンサは渋い顔をする。
「やはりか。〈黒き雷〉が落下したときから、嫌な予感がしておったわ」
国王と王妃は互いに顔を見合わせてから、予言省長官に尋ねた。
「大司教が平伏しておるがーー教会はいかなる失態を犯したと?」
予言省長官シグエンサは、冷淡な顔つきで答える。
「本来は愚民を脅すための道具に過ぎぬ〈黒ミサの挙行〉ごときで、大悪魔をこの世に顕現させてしまったからです。
おそらく、チチェローネ公爵令嬢は無罪です。
数え上げられた罪状は、ほとんどすべて虚偽なのでしょう。
チチェローネ嬢は冤罪で処刑されようとしていたのです」
国王は悲鳴にも似た声をあげた。
「ど、どういうことじゃ? 冤罪じゃと!?」
「おそらくは、ご子息の王太子をはじめとした面々が、チチェローネ公爵令嬢に濡れ衣を着せて、罪に陥れたのです。
でなければ、大悪魔が召喚されることは、まずありえません。
なぜならば、大悪魔は悪魔を統べる王ですが、本来は天使ーー神の眷属なのです」
「なんと!」
驚く王様の横で、王妃様は全身を小刻みに震わせていた。頬に大粒の汗を流しながら。
「初耳です。まさか、大悪魔が神様の眷属とは……。
ですから、天使軍団でなければ討伐できないのですね?」
押し黙る大司教の横で、予言省長官は怒気を込めた表情で話を続ける。
「はい。予言省でも知っている者はごく一部。
この情報は、元は教会の枢機卿であった者からもたらされたものですから、教会の高位聖職者は知っていることかと存じますが」
大司教バパは額に血を滲ませながら詫びた。
「申し訳ございません。
大悪魔召喚とあれば、チチェローネ公爵令嬢は無罪。
清い、聖なる心の持主であると思われます。
〈漆黒の大悪魔〉は、聖女にも似た、清い心の持主でなければ、召喚できないのです。
契約自体を交わすこともできません。
なればこそ、大悪魔召喚はもっとも難易度が高い召喚術なのです」
予言省長官シグエンサが口添えする。
「聖なる清い心が、怒りに満たされたときにのみ召喚されるーーそれが〈漆黒の大悪魔〉です。
一度契約を交わされたからには、契約を果たすために動くでしょう。
そして、召喚主との契約を成就した暁には、大悪魔の力が発動します。
七日七晩、全世界を闇に閉ざして、人類にいつ果てるとも知れない厄災もたらすーー」
国王陛下は狼狽えた。
「ど、どうすれば?」
シグエンサは淡々と述べる。
「まず、チチェローネ公爵令嬢の居所を突き止めることです。
そして、失礼のないように、問いかけるのです。
大悪魔と交わした契約の内容を。
そのうえで、その契約を大悪魔の手を借りることなく、我々、人間の手だけで遂行するのです。
そうすれば、あるいは……」
ランブルト国王は膝を打った。
「なるほど!
では、さっそくチチェローネ嬢の居所を確かめさせよう。
そして、息子に問い糺さねばならん。
なぜ、チチェローネ嬢との婚約を解消したのか、そうした裁きを下すに至った経緯を」
国王の方針決定を受け、予言省長官と教会大司教も声を上げた。
「予言省は、全力を挙げて国王陛下に助力いたしまする」
「では、私もさっそく手配いたしましょう。
まずは、チチェローネ嬢を断罪した修道女を謹慎処分とし、尋問いたします。
なにゆえ、チチェローネ嬢を罪に陥れたのか、と。
それから、教皇庁に聖女捜索の願いを上げましょう」
とりあえず、これからなすべきことは決まった。
国王夫妻が安堵し、予言省長官シグエンサと教会大司教バパが立ち上がり、一礼して立ち去ろうとする。
その途端ーー。
バタリとふたりの男が地面に倒れ伏した。
予言省長官シグエンサと教会大司教バパが、まるで糸が切れた操り人形のように、両手足をグニャリとさせて、地に沈んだのだ。
国王も王妃も、思わず玉座から立ち上がる。
扉前で直立していた衛兵が急ぎ駆けつけたが、二人とも意識がなかった。
「ど、どうしたのだ?」
国王の問いに、衛兵は首を横に振るばかり。
呼びつけた王宮お抱え医師たちにも、二人の重鎮がいかなる事態で意識を失ったか、説明できなかった。
「死んではおりません。脈はありますゆえ。
ですが、息もほとんどしておらず、おそらくは、最低限、生命を保つだけの運動が行われているだけか、と」
「これも、大悪魔の力なのか……!?」
国王陛下は怒声を張り上げた。
「急ぎオネストを呼べ!」
急な呼び出しを受け、オネスト王太子が謁見の間にやって来たときは、ちょうど予言省長官と教会大司教が担架に乗せられて運び出されるところだった。
二人の様子を眺めるオネスト王太子に、国王陛下が激怒した。
「貴様、まさかチチェローネ嬢に対して濡れ衣を着せたりしてはおらんだろうな!?」
いきなりの強い叱責に、王太子は驚いた。
「なぜ、そのようなことを……?」
「大悪魔が召喚されるのは、訴えが清い者のみなのだ。
正当な怨みを持つ者のみにしか呼び出せないーーそれが大悪魔なのだ」
王太子は、監獄塔からチチェローネが脱出し、部屋には悪魔の羽が散乱していたことを、すでに知らされていた。
その結果、チチェローネ嬢が悪魔と契約を交わしたと噂され始めたのも知っていた。
それを聞いたとき、オネスト王太子は改めて自分の正しさを確信したものだった。
やはり、あの女ーーチチェローネとの婚約破棄は正しかった、悪魔と契約を交わすような悪女だったのだから、と。
だが、大悪魔とやらが召喚されたのなら、その召喚主であるチチェローネは清い心を持っていたことになる、ということは初めて、この場で知った。
でも、だからこそ、オネスト王太子は堂々と胸を張った。
「でしたら、心配ご無用です。
チチェローネがたとえ怒りに任せて悪魔を召喚したとしても、それは大悪魔などではありません。性格の悪い小悪魔でしょう。
正当に調べ、多くの者から証言を集めているのです」
「だったら、どうしてあの黒い羽ーー悪魔の羽がばら撒かれてるのよ……」
王妃様が親指を噛みながら、うわごとのようにつぶやく。
じつは王妃は、今は亡きサリー・サットヴァ公爵夫人と親交があった。
数歳年長なだけだったが、とても近寄り難い雰囲気を、先輩サリーはまとっていた。
その魔力は膨大で、現在の夫である国王をすら遥かに凌駕する力を秘めていた。
だから、八年前に亡くなった際には、密かに安堵したほどだった。
そして、サリーの魔力を色濃く受け継ぐとされるチチェローネ嬢を、自身の息子の許嫁にしておいて良かったと心底、思っていた。
あの魔力の血統を、王家に取り込むことができるのだから。
ところが、チチェローネ嬢に何度か会ったが、亡母ほどの魔力は感じられない、普通の優等生に思われた。
いささか落胆しつつ、かつ油断してしまった。
黒ミサを挙行したと聞いて、反射的に嫌悪してしまった。
たとえ優秀であっても、その力が悪に使われるぐらいなら、処刑してしまうのも悪くないーーそう思ってしまった。
それが、過ちだったのだ。
王妃は知っていた。
サリーから継承した青い羽が持つ膨大な魔力を。
そして、その青い羽の色が黒くなったとき、世界は闇に包まれる、という伝承を。
(駄目だわ。わけがわからない。
どうして、こんなことを許してしまったのかしら。
息子への盲愛が眼力を狂わせた?
いえ、私はオネストを闇雲に擁護することはなかった。
いつも是々非々で応じてきたし、人々の意見を良く訊くよう自戒してきた。
何か、不可思議な力で、判断力が鈍らされていたとしか思えない……)
ーーそう思ったとき、なぜか王妃の脳裡に、息子オネストが紹介した、可愛らしい、平民上がりという子爵令嬢の、クルクルとした赤い瞳と、満面の笑顔が思い出された。
(ああ、あれこそが、誘惑ーー)
そうつぶやきながら、王妃は急に倒れた。
「ああ、お母様!」
オネスト王太子が、慌てて王妃の許に駆け寄った。
その真横で、またもドサッと音がした。
「ち、父上!?」
気づいたら国王陛下も、玉座から倒れ落ちていた。
胸に耳を当てると、両親とも心臓は動いているようだった。
「医師を呼べ!
担架を運び出したばかりだから、まだ近くにいるはずだ。
急ぎ、戻らせよ。
そして、ガッブルリ宰相を呼べ。
緊急事態だ!」
突然、国王陛下と王妃様が倒れた。
しかも、原因不明の事態によって。
間の悪いことに、自分が断罪したチチェローネ嬢が行方不明のまま、彼女によって悪魔が召喚された、という噂が飛び交っているときに。
国王陛下と王妃が倒れたことのみならず、チチェローネ嬢が監獄塔から脱出したという事実をも、隠さなければならない……。
オネスト王太子は顎に手を当て、思案した。
(とりあえず、チチェローネの処刑は延期ということにして……あとは宰相と相談だな)
噂の口を閉じることなどできないと承知してはいるが、他にやれることはなかった。
まずは国王と王妃が昏睡状態であることを隠すため、王太子は、宰相と王宮で相談の場を設けた。
「しばらくは、俺が王権代理で良いな」
と宰相に確認を取った。
とりあえずは、国王に代わって国事行為を行う人物が必要だ。
「はい。国王陛下ならびに王妃様までもがお眠りである限りは」
ガッブルリ宰相は、腰を低くしてお辞儀する。
あっさりと認められて、オネスト王太子は安堵した。
王太子は自身が王権代理となったからには、決定しておきたい懸案事項があった。
チチェローネ公爵令嬢との正式な婚約解消である。
本来なら、彼女の死刑判決の際に自動的に婚約は解消されるはずだったが、今回は黒ミサ絡みの宗教事案だったので、即座に処刑した後に、存在の抹消をもって、すべての契約の解消とする、という事例に則っていた。
そのため、チチェローネ嬢が生きている限り、依然として彼女との婚約は解消されていない状態であった。
「して、宰相のおまえは、俺が王権代理として、自身の婚約について見直しをすると言ったら、どうする?」
「見直し」などと言うが、それは婚約破棄であることは、ガッブルリ宰相も承知していた。
そのうえで、頑なな態度を取られた。
「王太子殿下の婚約の儀におかせられましては、国王陛下がお決めになったことゆえ、動かせませぬ」
オネスト王太子は、ダンと机を叩いた。
「それでは王権代理と言えぬではないか?」
ガッブルリ宰相は、顔色ひとつ変えずに応じる。
「王権代理には、何よりも必要な責務がございます。
現在、昏睡状態であられます国王陛下がお決めになられたことを、粛々と遂行するという責務です。
その内容は、内政、外交、軍事など、多岐にわたります。
決して暇などございません。
内には大貴族、外には敵性国家と、国王陛下がお倒れになっておられることを秘さねばならぬ相手は多々ございます。
されば、王太子殿下におかれましては、ぜひ王権代理として堂々と振る舞っていただきたく。
さすれば、安心して、国王陛下が大事ない病に臥せておられると、公表することができます」
「俺には、何事も、新たなことも決められぬのか?」
オネストは嫌味のつもりで言ったが、ガッブルリに真顔で返された。
「はい。父王陛下がお目覚めになるのを待っていただかないことには」
「頑固だな、貴様は」
「褒め言葉と受け取らせていただきます。
私は王家の忠実な下僕でございます。
国王陛下のお引き立てなくして、現在の私はありえませぬゆえ」
「ふん」
不満の意を表明しつつ、オネスト王太子は身を翻し、部屋から出た。
廊下を歩きつつ、追走する侍従に問うた。
「リリアーナはどこに!?」
「行方が知れません」
「まさかチチェローネ嬢が、何か手を下したのか!?」
「わかりかねます」
チチェローネ嬢が監獄塔から逃亡したという報を受けて以来、王太子もじつは内心では激しく動揺していた。
怒り狂った彼女が、可愛いリリアーナに手を出すのではないかと気が気ではなかった。
チチェローネ嬢が優秀なうえに、筆頭公爵家の令嬢に相応しい政治力を持ち得ることを、誰よりも承知していた。
「では、チチェローネの弟メルクを呼べ。
あれでも、我が国の筆頭公爵家の次期当主なのだ。
これからの対策を立てねばならぬ」