元勇者の帰還
あの時交わした約束を果たすために、残り少ない退職金と共に
レオンはクライヤードの前で、冷たい汗をかきながら立ち止まっていた。頭がツルツルなのがバレるわけにはいかない……しかし、何か隠せるものがないかと周囲を見渡していると、ちょうど近くに小さな帽子屋が目に入った。
彼は帽子屋に駆け込み、店内を見渡す。すると、店の片隅に、立派な狼の毛皮でできた帽子が誇らしげにディスプレイされているのが目に入る。
「これだ……これなら、きっとカッコよく見える!」
彼は少しためらいながらも帽子を手に取り、頭に乗せてみる。ふわふわの毛皮が頭を包み込む感触は心地よく、鏡に映る姿も悪くない……はずだ。
「おお、狩人みたいで強そうだな!」
自己暗示も手伝い、彼は満足げに帽子をかぶったままクライヤードへ向かうことにした。
レオンはクライヤードの前で立ち尽くし、深い溜息をついた。気まずさが全身を覆い、足が前に出ない。玄関を壊したことに対しては、確かに申し訳ないとは思っている。が、それ以上に彼が気にしているのは、あの嫌味たっぷりなオーナーのクライに会うことだ。
「はぁ……」
胸の内から出たため息が、彼の不安と憂鬱さを物語っている。とにかく、クライの前でこのハゲ頭をさらすわけにはいかない。あの男のことだ、もし見つかったら、ここぞとばかりに皮肉や嫌味を言い続けるに決まっている。レオンは帽子の毛皮をぐっと押さえ込み、頭が見えないか何度も確認する。
「なんとかこのままやり過ごせるか……?」
勇気を振り絞るように、帽子をかぶり直し、再びクライヤードの入口に目を向けた。しかし、やはり心が萎えてしまい、足が動かない。
小一時間、クライヤードの前で立ち尽くし続けていた。お金を渡してさっさと帰るつもりだったのに、気持ちの整理がつかず、ただ時間だけが過ぎていく。風が冷たく感じられて、毛皮の帽子をぎゅっと押さえながら、どうするべきか考えていた。
その時、ふいに宿の扉が開き、ホウキを持った小さな女の子が出てきた。あれは……確か、あの時、怪我をさせてしまった子だ。名前は、メイラだったか?
メイラはホウキを抱えて真剣な顔で地面に何かを描いている。遠くから見ていると、あまりの集中ぶりに、ついその様子に見入ってしまう。
「いやぁ、えらいなぁ……小さな体で、ちゃんと働いてるんだなぁ」
感心しながら、さらに彼女を観察する。ホウキの後ろ側で地面に何かを描いているようだが、掃除もせずにこんなに真剣な顔をしているのを見て、俺はつい微笑んでしまう。
「……もしかして、勉強してるのか?計算問題でも解いてるとか?いやぁ、それはそれでえらいぞ」
地面をまるで黒板代わりにして、コツコツと何かを記しているメイラの姿に、俺は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。なんて真面目で健気な子なんだ……。あの年でこんなにも一生懸命に取り組むなんて、尊敬すら覚える。
「俺なんか、あの年頃の頃には遊びたくてしょうがなかったのに……この子、偉すぎだろ」
心の中でメイラを褒め称えながら、しみじみとした感情が湧き上がる。
俺は、じっとメイラの様子を見守りながら、ふと自分の姿を心の中で振り返ってしまう。
どうしてこうなったんだろう。俺はかつて「勇者」として称えられていたはずなのに、今や無職のハゲで、ツルツルの頭を隠すために、慌てて買った狼の毛皮の帽子なんかかぶって……。それに引き換え、あの子はどうだろう。小さな体で真剣な顔つきをして、ホウキを握りしめ、まるでこの世の全てを背負っているかのような集中力で地面に何かを描いている。掃除をサボっているように見えなくもないが、それでもひたむきで、なんだか健気だ。
「えらいよなぁ……俺よりよっぽど立派だ」
気づけば、口の中でその言葉を呟いていた。メイラの純粋な姿に見惚れながら、俺の胸にはじんわりと温かい感情が湧き上がってくる。
それに比べて、俺は……。
「罪もない女の子を傷つけ、あまつさえその子の働く宿屋も半壊させて……」
声に出してみると、ますます自分が情けなく感じる。勇者の称号も奪われ、大臣には散々バカにされて、ストレスで毛が抜ける始末。そして今、無職でハゲ頭を毛皮の帽子で隠すなんて、どれだけみっともないことか。
思わず、帽子をぎゅっと押さえる指に力がこもる。風が少し吹くと、帽子の毛皮が揺れて、自分の情けなさと共にひやりとした冷気が肌に感じられる。ふと、そんな風に思いつめている自分が滑稽に思えて、思わず苦笑がこぼれた。
「……俺って、ちっぽけな男だよな」
何が勇者だ。何が「国を守る」だ。俺は結局、こうして帽子に頼りながら、情けなく立ち尽くしているだけじゃないか。ため息をつきながら、ふとメイラに目を戻す。彼女はなおも真剣な顔で、地面に小さな文字や絵を描いている。まるで彼女なりのやり方で、何か大きな課題に挑んでいるようにさえ見える。
「よし……あの子を見習おう」
心の中で、静かに決意する。あのひたむきさと、無邪気な強さ。きっとそれが、俺に足りなかったものなんだ。
すると、ふいに俺の横を、甘い香りを漂わせながら金髪の三つ編みの若い女性が通り過ぎた。視線を向けると、その横顔が目に入る。どこかあどけない表情で、柔らかな垂れ目が印象的な、清楚で美しい女性だ。金髪をきっちり三つ編みにしていて、まるでお嬢様のような雰囲気をまとっている。その上、甘い香りが彼女の周囲にふんわりと漂い、俺は思わずその場で立ちすくんでしまった。
……正直、好みだ。いや、好みなんてものじゃない、好きだ。
だが、そんな俺が話しかけるなんて、とても無理な話だ。まず、女性とまともに話したこともないし、ましてや俺は無職の上にハゲている。冬でもないのに毛皮の帽子をかぶり、さらにクライヤードの前で魔族の少女を遠目から観察しているという……いやいや、これじゃ完全に不審者だろう。
「ダメだ……俺に声なんかかけられるわけがない」
自分の肩を落としつつ、心の中で何度も言い聞かせる。彼女の姿が小さくなるまで目で追ってしまったが、今の俺ができるのは、それが限界だった。
俺は、目の前で繰り広げられている光景に目を疑った。さっき俺の横を通り過ぎていった「好みの子」が、メイラと話し始めたじゃないか!
えっ、まさか知り合い?マジかよ。いや、待てよ、これはもしかして……家庭教師とか?それとも近所のお姉さん的な存在?
「好きだわ、そーゆーの!好きだわ!」心の中で拳を握りしめ、勝手に妄想を膨らませる。綺麗なお姉さんが近所の魔族の子に勉強を教える……そんなほのぼのした関係。いいぞ、たまらん!
俺はそっと聞き耳を立てて、二人の会話に集中した。あの柔らかい声をもっと近くで感じたい!
マリー(好みの子)が、何やら控えめにメイラに話しかける。
「な……かい……の?」
ん?え?何て言った?声が小さすぎて、全然聞き取れない。もしかしてテレパシーで会話してるのか?
メイラはその質問に、にこにことした顔で地面に描いた絵を指差しながら答えた。
「これか?これは勇者の絵なのだ!」
おおっ!俺の絵か?フッ、さすがメイラ、どんだけ俺のことが好きなんだよ、まったく。照れちゃうぜ……。
マリー
「じょう..だね、と..りのえ..?」
レオン
ん?声ちっさ、何も聞こえねー
メイラ
「本当か?嬉しいのだ!隣の絵か?」
「隣の絵は、うんこなのだ」
……は?え?俺の絵の隣に、何を描いてるって?
俺は思わず力が抜け、遠くからその地面に描かれた絵を見つめた。勇者の絵の隣に堂々と描かれた、茶色い渦巻きのそれ……。
あ、こいつバカだわ
好みの子が笑顔を浮かべ、可愛らしく笑っているのを見た瞬間、俺の胸はキュンと締め付けられるような感覚に包まれた。なんて可愛いんだ……笑うとさらに清楚で魅力的に見える。俺は、ただその姿を見つめているだけで心が温かくなり、彼女が宿の中に消えていくのをじっと見送ってしまった。
「……ああ、天使って本当にいるんだな」
なんて思いにふけっていたその時、不意に足元から声が聞こえた。
「おい!お前、頭の狼!かっこいいのだ……あれ?勇者?お前、勇者だろ!」
驚いて足元を見ると、そこにはメイラが、じっと俺を見上げている。彼女の大きな目が、頭にかぶった毛皮の帽子をじっと見つめ、キラキラと輝いている。
「あ、ああ……そ、そうだ。勇者、いや、元・勇者のレオンだ……」
俺は急に顔が赤くなり、慌てて答えた。まさか好みの子に続いてメイラまで現れるとは。しかも、この狼の帽子を「かっこいい」だなんて言ってくれるとは……!
メイラが小さな体で得意げに胸を張りながら言う。
「やっぱり、そうか!クライのやつ、すごいのだ。さっき『そろそろホウキ振り勇者が来る頃だ』って言っていたのだ!」
「ホウキ振り勇者」って……またかよ。俺は頭がクラクラしてくるのを感じながら、帽子をぎゅっと押さえた。クライめ、どこまで俺をからかえば気が済むんだ。しかも、そんなあだ名をメイラに教えてるとは……。
「いやいや、メイラ、そ、それはだな、誤解だ。俺は決してホウキ振りとかじゃなくて、ちゃんと剣を……」
言い訳をしようとする俺を、メイラはキラキラした目で真剣に見上げながら話を遮る。
「それでも、ホウキを振ってもすごいのだ!だって、クライが言うことはいつも面白いから!」
その純粋さに、何も返すことができず、俺はただうなだれるばかりだった。
俺はなるべく自然な顔でメイラに尋ねてみた。
「メイラちゃん?だよね。さっきの女の子、名前は何て言うのかな?彼女とはどんな関係なんだ?宿に泊まってるお客さんとか?」
やっぱり幼女相手なら、全然話せる俺!さすが勇者だぜ、と思いながら胸を張っていると、メイラは得意げに顎を上げて言った。
「マリーか?マリーはここで働く、私の仲間なのだ!後輩なのだ!どうだ、すごいだろう!お前も仲間にしてやろうか?」
え?後輩?いやいや、メイラちゃん、さっき俺とうんこの絵描いてたじゃん?働くというより遊んでたよな……とは思ったが、ここはさすがにツッコまずに笑顔で頷いた。
「うん!そうか、マリーさんね!よし!今会いに行きます!」
すると、メイラが嬉しそうにホウキを剣のように掲げ、声を張り上げた。
「タラリーン!勇者が仲間になったのだ!私の後につづけー!」
ホウキを振りかざし、まるで行進の先頭に立つ指揮官のように、威風堂々と宿の中へ入っていく。俺もそれに続き、心の中で「よし、マリーさんに挨拶するチャンスだ!」と意気込むが、ちょっとした緊張も混じり、思わず帽子を押さえ直しながらついていった。
宿の中に入ると、ハナがメイラに気づいて微笑みかけた。
「メイラちゃん、お掃除終わった?えらいね」
うーん、この子、確かに優しい言葉をかけてるんだけど、なんか妙にトゲがある気がする。俺が気にしすぎなのか?いや、きっとあの嫌味なオーナー、クライの血を引いてるんだろうな。納得せざるを得ない。
ハナは俺に気づいて少し首をかしげた。
「あれ?見た目怪しい狩人の冒険者さん?お泊まりですか?」
「い、いや、違いま——」
その言葉を言い終わる前に、メイラが胸を張って大きな声で割り込んできた。
「違うのだ!新しい仲間!ホウキ振り勇者なのだ!」
……またかよ、ホウキ振り勇者。俺の立場はどこまで落ちれば気が済むんだ?ハナが思わず「ぷっ」と吹き出すのを見て、俺はますます恥ずかしくなり、帽子をぎゅっと押さえて顔を赤くするしかなかった。
ハナがこちらをチラッと見た後、奥に向かって大きな声で呼んだ。
「おとーさーん、なんか来たよー!」
……「なんか」って、何だよ「なんか」って。やっぱりこの宿の奴ら、全員クセが強すぎる。全然勇者としての威厳も何もない扱いに、俺は思わず拳を握りしめた。これなら、玄関をもう少し強めに壊しておけばよかった……なんて、ちょっと黒い考えが頭をよぎる。
そんな風に苦い顔をしている俺に、ハナがめんどくさそうに言った。
「お父さん、お昼食べてるかもしれない、メイラちゃん、お絵描きしてないで、この怪しい狩人さんを食堂に案内してあげて」
メイラは元気いっぱいに「クライの所だな、まかせるのだ」と言い放つ
……この宿で一体、俺はどうなっていくんだ?