少しの間違い
「藤井、ちょっとこっち来なさい。あんたにやってほしいことがあるの。」
研究室の奥から聞こえたその声に、俺は軽く溜息をついた。声の主は高梨沙耶先輩。彼女は同じ研究室の先輩だが、俺に対してなぜかいつも少しキツイ。それでも、美人で頭が良く、研究でも一目置かれる存在なのは確かだ。ただ、俺たちの間にはいつも張り詰めた空気が漂っている。
「また何かですか、先輩?」
「そんな顔しないでよ。あんたにとってもプラスになることだから。」
沙耶先輩は腕を組みながら、少し不満げな顔をして俺を睨む。
高梨沙耶は、強気でツンデレな性格が特徴だ。見た目はクールな美人で、黒髪を肩まで伸ばしている。研究にも真面目で厳しく、結果にこだわるタイプだが、どこかしら不器用な一面もある。俺とはあまり打ち解けていないが、なぜかボケとツッコミのやり取りが自然にできてしまう関係だ。
「じゃあ、何をやればいいんですか?」
俺は不本意ながらも、沙耶先輩に歩み寄った。
「これよ。この実験データ、全然整理できてないのよ。あんた、データ整理が得意なんでしょ?だから手伝ってほしいの。」
「えっ、俺がやるんですか?先輩がやればいいんじゃないですか?」
俺が反論すると、彼女は少しムッとした顔で言い返してきた。
「何言ってんのよ。あんたの方がこういう地道な作業、得意そうじゃない。私はもっと大事なところを見なきゃいけないのよ。」
沙耶先輩は少し高慢な態度でそう言い放ったが、その実、自分が不器用なのを隠そうとしているのが分かる。
「はぁ……分かりましたよ。手伝いますよ、先輩。」
俺は渋々了承し、実験データの整理を始めた。
「最初からそう言えばいいのよ。」
沙耶先輩は満足そうに頷くが、どこかしら照れくさそうにも見えた。
作業を進めるうちに、俺は気づいたことがあった。
「あれ?この部分、なんか計測ミスっぽいですね。」
「え?どれ?」
沙耶先輩は急いで俺の横に来て、データを覗き込んだ。
「ここです。計算が微妙にずれてます。これじゃ、実験結果に影響出るかも……。」
「……ほんとだ。ちょっと確認してくる。」
沙耶先輩は顔を真っ赤にして、実験器具の前に戻っていった。
どうやら計算ミスに気づかなかったのが悔しかったらしい。普段から完璧を求める沙耶先輩にとって、自分のミスは認めたくないものなのだろう。
「まあ、ミスくらい誰でもありますよ。完璧主義の先輩でも。」
「うるさいわね!そんなこと、分かってるわよ!」
沙耶先輩はツンとした表情をしながらも、どこか焦っている様子だった。
「でも、こうやってお互いフォローし合えるのって、チームワークの証拠じゃないですか?」
俺は軽く冗談めかして言ったが、沙耶先輩は一瞬黙り込んだ。
「……まあ、そうかもね。でも、あんたに感謝することなんて、そうそうないわよ。だから今日のことは特別だと思いなさい。」
彼女は少し照れくさそうに、俺に背を向けた。
「はいはい、分かりましたよ、特別な日だってことで。」
「……それと、ありがとう。」
最後にぽつりとつぶやいた言葉は、俺にはしっかりと聞こえた。




