終末(十一)
『どれ位で来れる?』
祐次は時計を見た。
「三十分位で」
『え? そんなに早く? 判りました』
病院は自宅から車で五分の田んぼの真ん中にある。
病院が出来た時に高速バスも開通し、空港行きの始発バスに両親を送って行ったこともあった。
元気な頃、そこは『バスターミナル』位にしか思っていなかった。
平日の昼間に息子が帰って来たのは、靖子にとって運が良い。洋服に着替えてカツラを装着し、祐次の車に手ぶらで転がり込む。
新しい治療を始めてまだ十日余り。祐次は母をこれまでの様に病院へ『送迎するだけ』だと、思っていた。
病院の玄関で靖子を車椅子に乗せた祐次は、急いで指定された窓口へと向かう。
「怖いわ」「あら、そう」
靖子の言葉に、祐次は直ぐに速度を落した。
キャベツの箱を山盛りにして台車に積んだって、たまにしか崩したことのない祐次は、落ちる心配のない車椅子で『何が怖いのか』判らなかったが、そこは靖子の意見を汲む。
沢山の椅子が並び、立っている人もいる待合コーナーを車椅子はすり抜けて行く。
そしてその一番奥、誰も居ない一角が緩和ケアの受付窓口だ。
祐次は時計を見て丁度三十分経ったのを確認したが、人気がない。
暫く待ったが、一向に呼ばれる気配がない。
靖子が抱えた洗面器を気にしながら、祐次は受付の奥に向かって声を掛ける。
「すいませーん」「あ、はい中島さんですね」
奥から出てきた看護士は『判っている』といった感じで答えた。そして靖子が抱えた洗面器を覗き込むと、祐次に声を掛ける。
「少々お待ち下さい」「はい」
まぁ、病院はそんなもんだ。祐次と靖子は顔を見合わせて苦笑だ。
吐いてしまって楽になったのだろうか。状況も理解せず、大画面の中でつまらないギャグを言う芸人に文句を言いながら待った。
それから十分位して、意外な所から徳田が現れた。関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉が開いて、そこから出て来たからだ。
「早いねー。もう来たの」
まるで自分は関係者と言わんばかりに悪びれる様子もない。そう言って徳田は時計を見た。
「はい」
祐次が発した答えを避ける様に、徳田はその場にしゃがんだ。
そして、靖子が抱えている洗面器の中を覗き込む。そこには黄土色の液体があった。
「あー、結構きつそうだねー」「そうなんです」
靖子が答えた。
「ずっとこんな感じで吐いてる?」
徳田は顔を上げて、祐次にも聞いた。
「はい。そうです」
夜寝る前に靖子が背中を揉んでくれとせがむ。そして祐次が背中を揉んでやると、靖子は楽になったと言うが、いつも吐く。
祐次はどうしたら良いのか判らず、途方に暮れた。
「あっそー。それは困ったねぇー」
再び靖子の方を見て、徳田は苦笑いをした。
「あのね、お母さん。さっきご自宅に電話したんだけどー、
もう息子さんと出たって言うからね。
お父さんにはー、一応了承は取ったんだけどー」
首を振りながら話す徳田の顔を見ながら、靖子と祐次は頷いていた。その時祐次は『お前の母親じゃぁないだろう』と思っていた。
「ちょっとー、一泊一万円のー、
高い部屋しか空いてないんだけどー、
入院してみようと思うんだけどー、どうかな?」
祐次はそれを聞いて気が遠くなった。しかし靖子はむしろ喜ぶ。
「是非。是非お願いします。あー、良かったぁ」
洗面器を抱えて前のめりになっていた靖子だが、車椅子の背もたれに寄り掛かり、大きく息を吐いた。
祐次の気が遠くなったのは、金額ではない。