終末(12)
祐次は車椅子に乗って、多くの人でごった返す受付の前を通り過ぎた。車椅子に乗っているからと言って、同情する人は誰も居ない。ゆっくりと進む車椅子を見て、無言のまま少し道を譲るだけだ。
立ち退いた人が再び元の場所に戻ると、祐次の後ろには再び人垣が出来上がる。
まるで手品の様に人垣を突き抜けた光景だが、珍しくとも思わないのか、祐次は振り返らない。
それよりも祐次は、さっきまで左腕に刺さっていた点滴の跡を右手で擦る方が重要に思える。注射が嫌いな祐次にとって点滴が外れたことは、今日で一番良いことに違いなかった。
祐次がさっきから左手を擦っているので、車椅子をゆっくりと押す娘の春香が話し掛ける。
「手傷む?」「大丈夫だよ」
春香の柔らかい声に対して、割と太い声で祐次が答えた。
車椅子の右後ろには小さな手が添えられている。車椅子に座った祐次と目線は同じ位だが、年は大分違う。
「おじいちゃん何処行くの?」
甲高い声が響いた。そう聞かれた祐次は、首を少しだけ曲げて孫の秀樹を見る。
しかし、祐次はにこっと笑っただけで、何も答えなかった。
「おじいちゃんはね、病室を替わるのよ」
春香が祐次の代わりに答えた。幼い息子は口を尖がらせる。
「ふーん」
それは『見晴らしの良かった八階の病室から替わる』のが不満なのか、それとも『エレベーターのボタンを押す係』を、解任されたのが不満なのかは判らない。
いや、本当は、祐次が退院すると思っていたのだろう。秀樹はむっとした顔をして黙った。
もう一人むっとした顔になった人がいた。
それは車椅子に乗った祐次だ。黙って前を向き、目の前に現れた案内看板を見つめていた。
祐次がむっとしたのは、娘の春香に『おじいちゃん』と言われたからだ。
いや、判っている。人は会話の中で一番の弱者に合わせた言い方をする。
今一番の弱者は秀樹だ。腕相撲をしたら誰にも勝てないだろうし、九九も言えないだろう。
そんなことは判っている祐次だが、やはり娘に言われたくない言葉だ。
「秀樹、そこのドアを開けて」「はーい」
子供と言うのは役割を与えられると喜ぶものだ。パタパタと走って行くと、廊下の角にあるドアを押した。
そのドアは検査に向う時に前を通るが、開けたことはない両開きのドアだ。子供には重たかったのか、顔を真っ赤にして押している。春香と祐次は、秀樹が頑張って扉を開けるのを待った。
車椅子が通れる程扉が開くと、その先に長い渡り廊下が現れる。
「足、気をつけてね」
そう言われた祐次は右手で左腕を押さえるのを止め、車椅子の上で腕を窄める。
春香は手じゃなくて足だと思いながらも、ドアの間をすり抜けた。
「はい。ありがとう。手、気をつけてね」
母親の春香に言われた秀樹は、大きく開けたドアからパッと手を離し、車椅子を追うかに見えた。しかし、自分の手を離れたドアが、意外な程ゆっくりと閉じるのを観察している。
やがて『パフッ』と、空気とゴムの擦れる音がしてドアが閉まった。それを確認すると満足したのか、秀樹は鼻歌を歌いながら車椅子の後を追い駆け始める。
再び閉じられたドアの横には、検査室を示す矢印の下に、小さく『緩和ケア病棟入り口』と書かれた看板があった。
三人は受付の呼び出し音や、談話室の賑やかな声が聞こえない『扉の向こう』へと消えた。