<第六十二話・ただ、朝を待っていた>
ガーネットと呼ばれる神が、最初はどのような名前であったのかは、もはや誰も知る由のないことである。
何故ならそれはもう千年以上も昔のこと。人々は勿論、神本人さえ何も覚えていないのだから語りようがない。ただ、事実として言えば、ひとつ。今は神として力を振るい、当然のごとく人々の上位に立って支配するその存在が、かつてはひとりの人間だったということだけである。
この島は、元々は大陸から移り住んだ、褐色の肌に黒い髪、黒い眼の人々が住む土地であった。
資源が豊富なこの島の者達は、それゆえ大陸と関わりを持つ必要もなく、一つの民族として独自の文化を築き上げていったのである。歌を躍り、舞を躍り、龍を神として崇める一族。ガーネットの元となった少年もまた、その一族の元に産まれた存在であったのである。しかし。
『鬼の子よ!呪いの子!真っ赤な眼の恐ろしい悪魔め!!』
少年は産まれた時から忌み嫌われる存在だった。
同じ民族の誰とも違う、白い肌。何より血のように真っ赤な瞳が、悪魔の象徴に違いないと恐れられた為である。
母親は不貞を働き、悪魔と交わったものとして惨たらしい拷問を受けた後殺された。幼い少年は目の前で、自分の母親が不貞の罰として腹を引き裂かれ、性器をナイフで抉られて殺される様を見せつけられたのである。
女の象徴を切り裂かれながら、母親は最後まで少年を罵り続けた。お前さえ産まれなければ。お前が普通の子供でさえあったならこんなことにはならなかった。お前なんか私の子供じゃない。凄惨な光景と、信じてきた母に罵られたその言葉が、どれほど幼い心に傷を残したかは言うまでもないことである。
少年は自分の命を呪った。
己の皆と違う容姿を、ガリガリでか弱く、無力な己を呪い続けた。
救いの手はどこからも現れなかった。信心深く祈り続ければ必ず助けてくれるとされていた一族の神は、けして少年の前に姿を現してはくれなかったのである。
毎日村人達の排泄物を処理する仕事をし、重い荷物運びを悉く押し付けられ、危険な山で薬草の収集をしろと言われては命を落としかけ――そして、毎日一度だけ、村人達の残飯をどうにか与えられて生き延びる日々。次第に少年の中で、自分を虐げる人間達への憎しみが破裂せんばかりに膨れ上がっていったのだった。
――何故私だけが、こんな目に遭わされなければならないのか。
母親は死に、自分を見捨てて他人のフリをした父も結局責任を追求されて流刑に処された。
少年は幼いからという名目で生かされこそしたものの、待っていたのは死んだ方がマシかと思うような汚泥にまみれた屈辱の日々である。
自分が皆の嫌がる仕事を汗水垂らしてこなしている横で、同年代の子供達は母親に見守られて遊び回っている。自分が惨めに腐りかけたご飯を食べている目の前で、村の大人達は陽気に酒を飲み、歌を歌い、御馳走を食べて幸せそうにしている。
次第に否が応でも気付かされた。自分は本当に悪魔の子だと思われて虐げられてきたわけじゃない。ただ、自分達と違う容姿の存在が気持ち悪かっただけのこと。そして、一人――共通に叩ける存在を作ることで、村が平和になることを大人達が知っていたからだということを。
――何故、何故、何故!こんな理不尽が罷り通るのか!一体私が何をした?何故そんな想いばかりしなけらばならないというのか……!!
神様なんて、いない。
少なくとも祈るだけで叶えてくれるような、都合のいい神様なんて存在しない。
自分の世界には、ご都合主義の正義の味方も、お伽噺の英雄も一切現れることはなかった。ただただ理不尽が続き、苦しみが続き、おぞましい日々だけが転がり続けるのみ。
それが終わったのは、痩せ細った少年が六歳か七歳になった頃。
しかしそれはけして、良い意味での終わりなどではなかったのである、
『なんてこと……なんて酷い凶作!嵐が続いたせいだ!!』
『寒い、春が来ない!何故この時期に雪が降るというのか!!』
『神が、神がお怒りだ!怒りを鎮めなければ、生贄を差し出さなければ……!!』
どうして、人間はそんなくだらない発想しかできないのだろう。
天災は、神が祟ったせいではない。たまたまその年に島が嵐に襲われることが多く、たまたま冷夏になってしまったという、それだけのことである。しかし、信心深い一族の者達はこれを神の祟りと考えた。自分達の信心が足らないせいで、神が怒って祟りをなしたのだと思い込んだのである。
そしてその矛先は――屈辱の日々を精一杯生きていた少年に向けられることになるのだった。
『お前のせいだ!お前が神の威光を疑うから、悪魔の子などであるから!!やはり、生かしておくべきではなかったのだ。この者を生贄に捧げ、神に我らの誠意を見せて許しを請うべきよ……!!』
少年に、最初から自由などなかった。
人権も、届く声も、何一つありはしなかった。
自分は悪魔の子などではない、神に不敬など働いていない――どれほど繰り返し主張したところで、少年の声が届くことなどなかったのである。
この島では。神に償うための生贄は。神に背いた場所を聖なるナイフで切り裂き、太陽の光と雨の力で清めて一週間の祈りを捧げなければならないとされている。
悪魔の子とされた少年は、悪魔の翼が生えてこないようにと背中を切り裂かれ、龍の刺青を彫られた。
そして自分の罪を認めず嘘をついたことを裁くためという名目で、少年の口を耳元まで大きくナイフで切り裂いたのである。当然、どちらの“処罰”も麻酔などかけられるはずもない。地獄の苦痛の中、手当てもされずに少年は祭壇に縛り付けられたのだった。
『その状態で一週間祈りを捧げ続けることができたなら、貴様を許して我らの元に再び迎え入れてやろう……』
それは。
実質、死ぬまで許されないことと同義であった。
怪我の治療をされることもなく、一週間もの間野晒しにされる。食べ物も飲み物もなく、当然排泄も垂れ流し状態になる。不衛生な中、密林の中に置き去りにされればどうなるか。猛獣から身を守ることもできず、そして傷はどんどん化膿して腐っていくことになる。
生き延びられるはずが、なかった。
そして楽に死ぬための自害さえ、切り裂かれた状態で口を開かされ固定されたままの少年には成し遂げられるものではなかったのだ。
――どうして、どうして、どうして私だけがこのような最期を迎えなければならぬのか!誰か教えてくれ。この理不尽の理由を、この苦しみの意味を!!
苦痛と屈辱と嘆き。そして。
――憎い……憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!人間が……あやつらが憎くて憎くてたまらぬ……!!
憎悪。怨念。
もしかしたら、その強い感情に引き寄せられてたのだろうか――あの、異世界から渡ってきた“航海者”たる魔女は。
『貴方の、世界の全てを憎む声が聴こえたの』
今まで見た誰よりも艶やかで、誰よりも美しい悪意の化身。
災禍の魔女――アルルネシアは、孤独に死にゆくばかりだった少年に告げたのだった。
『憎いのでしょう?復讐したいのでしょう?それは真っ当な、貴方の権利よ。あたしが全てを許してあげる。貴方の怒りを認めてあげる。そして素敵な貴方に……全てを支配する力をあげるわ。……だって、そうでしょう?』
彼女がどんな目的で自分に近付き、自分に力を与えたのかはわからない。
それでも確かなことは、ひとつ。
『血みたいに赤くて……とても綺麗な瞳だわ。あたしは好きよ、貴方の眼。まるで宝石……ガーネットみたいよ』
寂しく、誰にも顧みられず死んでいくばかりの自分は――あの日、アルルネシアに救われ。そして彼女に名付けられ――新たな神として覚醒したのである。
ガーネット。その名前と力を自分に与えてくれたのは、人の悪意から生まれ、世界に悪意をバラ撒くことを悦びとする魔女だったのだ。
――我は神となり、我を貶めた村の奴等をまずは滅ぼして回ることにした。津波を起こして溺れさせ、氷の海に突き落としては凍えさせ、火山の火口に落としては焼き、雷に打たせては焦げた炭の塊に変えてやる。爽快だった。逃げ惑う奴等がどれほど許しを請うても聞く耳など持たなかった。奴等が苦しみながら死んでいく様が、我にとっては最大の馳走にほかならなかった。
そして、あえて一部の住民達だけ生き残らせ、自分を新たな神として崇めさせたのである。
自分が今起こした“祟り”の生き商人として。そして、自分が、神として存在し続け、人々の記憶に残り続けるそのために。
――そして、そんなある時島に流れ着いてきたのが……カナシダ一族。我は奴等を、我を称える司祭として使ってやることにしたのだ。
復讐のためとはいえ、いささか島の住人を減らしすぎてしまったのは事実。ある程度人間には数がいて貰わなければならない。そうでなければ気紛れに遊ぶことも殺すこともできなくなってしまう。ガーネットは、カナシダ一族に人間を統治させる力を与え、少しでも強い力を保ち続けるために生贄を用意し続けるよう厳命したのだった。
全てはそう、生贄に理不尽に捧げられる痛みを、人間達に味あわせるために。
島の先住民でなかろうが人間は人間。過去の自分を虐げた存在に変わりはないのだ。奴等には永遠に自分を苦しめた連帯責任を、購い続けて貰わなければならないのだから。
――そして……人間達を殺し、苦しめ続ければいつか……あの方が再び我の前に帰ってきてくれるはず。我はそう信じていたのだ……!
自分を救い、神に変えてくれた災禍の魔女。
彼女の目的などどうでもいい。利用されているだけならばそれでも構わない。ただもう一度、もう一度だけ彼女に会いたかった。この世界にはもういないのかもしれない。他の世界に渡り、二度と帰ってくるつもりもないのかもしれない。
それでも、彼女もまた人間を嫌う存在だから。自分が彼女の願いを叶え続けていればいつか――彼女が再び目の前に現れて、褒めてくれるような、そんな気がしていたのである。
だって、彼女だけだったのだから。
『血みたいに赤くて……とても綺麗な瞳だわ。あたしは好きよ、貴方の眼。まるで宝石……ガーネットみたいよ』
誰もに忌み嫌われてきたこの瞳を――綺麗だなんて、そう言ってくれたのは。
***
『ああ、やっと……ああ、やっと、やっと…思い出せ、た……!』
クオリアとカサンドラ。中と外から猛烈な攻撃を受け――ガーネットの両腕と下半身は、見る影もなく吹き飛ばされていた。
それでも、ガーネットは凄まじい苦痛の中、どこか満ち足りた気持ちでいっぱいになっているのである。
それは、長い長い月日を経たとことで忘れてしまった、とても大切な想いを思い出すことが出来たからだ。そうだ、自分は――自分はただ、誰かに愛されたかった。愛されて、自分の存在を認めてほしかった。暴虐を繰り返し、アルルネシアが好むような悪徳の限りを尽くし続ければ、いつか彼女がまた戻ってきてくれるはずだと、そう信じていたのである。
ガーネットはただ。たった一人の魔女の帰還を待ち続けていた。
復讐を果たしても恨みが消えず、空しさばかりが募り、それさえも欲しいものとは思えなくなった時。最後に残った感情は、それだったのである。
そう、それだけだったはずなのに。
待ち続けた月日があまりにも長すぎて、報われなさすぎて。神は神としての力の代償に、記憶と心をぼろぼろと劣化させていったのだった。
寂しい、空しい。なるほど、確かにクオリアが言ったことは、間違いではなかったのだろう。
『解っておるわ……無様であろう。滑稽であろう。好きなだけ見下げるといい。我はこのザマよ、もうじき死ぬ。神としても、人としても、この身はもはや滅びを止められぬ。それが、我の過ちの証明であったというのなら、好きに解釈するといい。だが……』
息が苦しい。
下半身が吹き飛んでいてもまだ死ねないのは自分が神であるからなのか。それとも、まだこの身には生への未練があるからなのか。
『だが……ならば、我にはどうすれば良かったのか。神にならず、人のまま無様に朽ちていけばそれで良かったのか……?復讐など考えた、我が悪かったと……?』
その、ガーネットの視界に――映り込む影。
「それは、違う」
カサンドラだった。少女はどこか泣き出しそうな顔で、ガーネットの姿の前に膝をつく。
「復讐をしても何も変わらないと言う人は多いけれど……私は、そうは思いません。復讐は悪ではない。誰だって、奪われたものを取り返す権利は確かにある。それが二度と戻らない命であっても……奪われた誇りや、未来を、購わせたいと願うのは人ならば当然のことなのですから。そして。……私は何も、アナスタシア女王の考えを一から十まで全て否定していたわけではないのです」
『何……?』
「犠牲を当たり前のように誰かに強いるのは間違っている。でも、それでもきっと。確かに貴方と王家のおかげで救われてきた人達がいるのも事実で。私達はきちんと感謝をもしなければならないのでしょう。ただ。復讐するのも、平和を実現するのも、愛する人を待つやり方も。貴方達はそれを、ほんの少し間違えてしまった……それだけのことではないでしょうか。あと少し……もう少し何かが変わっていたら。きっと私達は、傷つけ合わずに済む未来もあったはずだと私はそう、思います」
私は貴方のしたことを、全て許して認めることはできないけれど、と。カサンドラは言った。
「貴方の……誰かへの想いと、痛みは本物だった。私達がそれを、受け継いでいくことはできます。ガーネット神。いつかまたこの世界に……貴方の待ち人が現れた時。貴方の想いを、その人に伝えることだって」
どうしてなのだろう、とガーネットは思う。
自分は紛れもなく彼女の大切な人を奪おうとし、彼女達の敵として、世界の敵として目の前に立ち塞がったというのに。
どうして自分の想いを、そこまで尊重してくれようとするのか。
どうして――ああどうして、人間はとても醜いはずなのに。汚くて、利己的で、救い用なんてないことは自分が一番よく知っているはずなのに。
どうして今の自分はそんな彼女を、信じてみようだなんて思えるのだろうか。
『ああ、そうか……そうしてくれるのか…』
ガーネットは眼を閉じる。
初めてアルルネシアに出会った時のことを思い出した。悪意の存在であるはずなのに、この世界に災禍を撒き散らすために彼女はやってきた筈なのに。
彼女と出会い、声をかけられた時のことを思い出していた。
その瞬間の喜びと、憎悪さえ吹き飛ぶほどの、幸福を。
――ああ、今。最期に目蓋に焼き付けて……我は消えていくことができるのだ……。
『礼を言おう……カサンドラ・ノーチェス』
消えていく光の中。礼の代わりにほんの少しだけ、ガーネットは願ったのだった。
どうか自分を救い、思い出させてくれた彼女達に、少しでも幸福な未来がありますように、と。




