真実ちゃんのルージュ
月の満ち欠けにそって、昔の人たちは陽気になったり不機嫌になったりしたらしい。
不機嫌がマックスになるのは満月の夜で、そうなるのは特に男性で、とても限られた人は狼になっちゃったりしたらしい。
でも、もちろん昔の話。日本狼は絶滅している。だからあたしは、狼がどれだけ大きいとか、牙と目がどんなに恐ろしいとか、そんな一切を知らない。
「真冬ちゃんは調子が良くないね」
「夏だからかな。真冬ちゃん夏は苦手だもんね」
「ごはんちゃんと食べないからだよ」
「運動じゃないかなあ!? ぴゅっと走れば目が覚めるし!!」
調子が良くないねと、心配してくれたのは心ちゃん。いつも誰かのことを心配しているのに、忘れ物が多い。でも算数はちゃちゃっと計算できる子だから、あたしはうらやましい。
夏は苦手だもんね、と原因を言い当ててくれたのは夏樹ちゃん。真冬という名前のあたしと反対で、夏が好きで、笑顔が夏の樹のようにキラキラとしている女の子だ。
ごはんちゃんと食べないからだよ、と余計なお世話を言ってきたのは真実ちゃん。当てずっぽうで色々言うのが好きだけど、真に受けてはいけない。この子は的外れなことを言う天才だからだ。でも勉強は一番できる。特に理科はあたしたちの先の先を行き過ぎて、異次元を突っ走ってる感じ。眼鏡をかけているからかな。とにかく不思議さでは一番な子だ。
そして、ぴゅっと走ればと言ってそわそわし始めたのはひかりちゃん。別に光の速さで動けるわけじゃないけれど、太陽の光の下でかけっこをするのが、この子はとても好き。最近のブームはサッカー。男子たちに交じってしゅるしゅるとドリブルをする姿がかっこいい。この子は授業中も外を見ていて、雲の切れ目に太陽を探している。天気がどうなるのかを言い当てるのが上手くて、10分後の空模様を外したことはない。
心ちゃん、夏樹ちゃん、真実ちゃん、ひかりちゃんと給食を食べていたあたしは、みんなの顔を1人ひとり眺めながら、うーんとはにかんでから、コッペパンをかじった。
豚汁と牛乳とコッペパンと野菜炒めと夏ミカン。これがあたしたちの給食。
他の学校はどうか知らないけれど、あたしたちは昼休みに机をずらすことを許されている。
このクラスで女の子はあたしたちしかいないから、戻すのが簡単なのが理由なのかも。
男子たちはもう給食を食べ終わって、校庭を駆け回っている。あの子たちの最近のブームはサッカーで、わあわあ叫んだり転んだりしながら、ひたすらボールを追いかけている。
ひかりちゃんがそわそわしている。この子は前髪がぱっつんのショートカットなのだけど、耳の前のおくれ毛だけ長くて、貧乏ゆすりをすると、おおっぴらに揺れる。
「行きたいんでしょ? ひかりちゃん」
「うちは真冬ちゃんを待つ! そしてシュートを決めさせるたげるよ!!!」
首を傾げたあたしに、ひまわりみたいな笑顔をくれるひかりちゃん。
そんなこの子のおでこに、あたしは満面の笑顔で右手をのばし、びしっ!!! っとデコピン。
「いだっ」
「調子悪いの知ってるでしょ? あたしは無理」
「うー。じゃあ今日はあきらめる。また今度ね!!!」
おでこをさすって立ち上がるひかりちゃんをみんなで見上げて、いってらっしゃいと言う。
「足くじかないでね」
と心ちゃん。心底、心配そうな顔で言う。けど、毎日飽きずにこういう顔をできるのは、何かの才能なのかもしれない。将来、誰かと結婚してお母さんになったら、超絶過保護になるんだろうな。
ハの字眉毛にしわを寄せる、大人になった心ちゃんが、あたしは想像できる。
「期待してる。超絶シュート」
夏樹ちゃんの笑顔はやっぱりキラキラしている。色素がちょっと抜けていい感じにふわふわしてる茶色い髪も関係しているのかもしれない。
トレーをワゴンに運んでいたひかりちゃんは、夏樹ちゃんを振り返って、ぐっと親指を立てた。
そんな彼女を、真実ちゃんはもう見ていない。ショートパンツのポケットからメモ帳を取り出して、謎の文字列を眺めている。あたしにごはんをちゃんと食べないからだよ、と言うわりに、この子が一番食が進んでいない。小食なのか、クリスマスもひな祭りも、どんな特別メニューが出ても、真実ちゃんは半分残す。でも長い黒髪はつやつやだし、陽にあまり当たらないから静脈が青く細く浮くくらい色白だけど、ほっぺたは赤い。
で、あたしはそんな真実ちゃんのほっぺたを、たまに両側からつまんで、引っ張りたくなる。
柔らかくてさわり心地が良いからってのもあるけど、一番はこの子がちゃんとあたしの前にいるのを、確かめたくなるから。
ちなみに真実ちゃんは、ほっぺたをお餅みたいに引っ張っても、何も言わない。長方形の眼鏡の奥が半目になるくらいだ。でもその半目も可愛いと思う。ちょっといじわるをしたい気持ちと、全世界の災難から守ってあげたくなる気持ち。この2つを一緒に抱かせる子は、真実ちゃんだけだし、これからもこの事実は変わらないんだろうな、と思いつつ……。
あたしは昼休みの残りを、机にぐでーっと突っ伏して過ごした。両手を前に伸ばして、顔の半分を机の板につける。ちょっとひんやりとして、気持ちがいい。
うちの学校では、昼休みは蛍光灯のスィッチを切る。省エネらしい。町の予算がないからかな。電力を節約して、美味しい給食を用意してくれる、先生、係のおばさんたちに感謝。
美味しいんだけど、あたしは残してしまう。これは月の満ち欠けが関係している、と、長年の研究で、あたしは分かった。
満月の時、あたしは昼間も元気だし、給食だって残さない。ひかりちゃんと一緒に外で駆けっこしたり、授業中だって質問をたくさんする。予習復習だってばっちり。忘れ物だってしない、完璧人間になる。
でも、満月が過ぎて、夜空が新月の闇に向かうと、やる気もどんどん減っていく。
昼も夜も気だるいし、給食は味がしないから、喉だって通すのに苦労する。もちろん駆けっこなんてする気も起きなくなっていく。あたしの中で、やる気が溶けていくのが分かる。
それは、冷凍庫から出して夏の陽にさらしたアイスみたいに。
まあ、いくらやる気がなくても、うちの家業は本屋さんなので、国語は得意だし、本もたくさん読むんだけど。忘れ物は担任の先生もさじを投げるレベルだ。
新月の日には、そんなあたしを見越して、隣の席の真実ちゃんは、あたしが何かを言う前に、机を寄せてくれる。教科書の文章を分け合ってくれる。
「ありがとう」
と小さな声でお礼を言うと、真実ちゃんはあたしを見ずに、
「宇宙の法則に想いをはせすぎなんだよ」
と、わけのわからないことを言う。はせすぎなのは真実ちゃんの方じゃないかと、あたしのへそは曲がる。
……ずっと前、真実ちゃんがいつも眺めているメモについて、訊いたことがある。
「算数なの? メモの数字」
「数式っていうの」
「難しい?」
「楽しい。宇宙の法則をね。とても綺麗に描いているから」
眼鏡の奥で真実ちゃんが笑った時、あたしはとても驚いた。
そんなこの子は見たことが無かったからだ。
それは一瞬のことだった。けれど、あたしには時間が止まったように思えた。
真実ちゃんの、いつも、そっけなく結ばれている唇に、赤のルージュがひかれて……。
高校生とか、大学生とか、それ以上に大人びて、宇宙とか時空を超えたみたいに成長した真実ちゃんが、目の前に出現。太陽と水星と金星と地球と火星と木星と土星と天王星と海王星と冥王星が一列に並ぶ上に、宇宙空間を満たしながらびゅんびゅんと飛んでいく無数の光線の上に、あたしと真実ちゃんは立っている。
そんなとんでもない錯覚は、校庭から届いた男子たちの歓声で吹き飛ばされた。
時計は12時の30分を刻んでいて、時計は文字盤の縁がちょっと汚れていて、教室にそなえつけのものだった。昼休み。消された蛍光灯。窓からさし込む真っ白い陽光と、男子たちの止まない歓声。
「大丈夫かな。バク転しながらシュートなんかしちゃって。足首痛めてないかな」
「オーバーヘッドシュートっていうらしいよ。ひかりちゃん、最近ずっと練習してたから。でもすっごいよね!!!!」
心配する心ちゃんと、彼女に説明しながらテンションを上げてく夏樹ちゃん。
2人は窓枠に腕をのせて、校庭を眺めている。
風と光が心ちゃんと夏樹ちゃんをきらきらさせている。
あたしは、現実感が戻らないままに、あの子たちと真実ちゃんを交互に見る。
そんなあたしを前の真実ちゃんは、完全にいつもの真実ちゃんにもどっていた。
彼女はおもむろに立ち上がる。
「真実ちゃん?」
「祝福したい。窓から。真冬ちゃんも、いこ?」
さしのべられた、白くて小さな魚みたいな手を、あたしは取る。
これは日常。穏やかで静かで、でもちょっと騒々しい、あたしたちの日常。
でも、立ち上がりながら、現実感が戻らないのは、月の満ち欠けのせいではないのを、この時のあたしは知っていた。それは真実ちゃんのルージュのせい。
あの時の宇宙君感の幻覚について、真実ちゃんに訊いてみたいけれど、あたしは何故かできない。
でも、良いとも思う。真実ちゃんのルージュは、本当に美しい赤なのだから。その正体は分からないけど、そして誰も知らない秘密でも……。
ルージュの色彩の記憶が、今のあたしの一番の宝物であることは、間違いがないのだから。