彼女の紅いくちづけ
曇りのない夜空、星の瞬きを圧倒する満月の輝き。
流れる黒髪、紅の双眸、白磁の肌。
見慣れた制服、その手に煌めく白刃一振り。
地に伏す男、広がる血だまり、物言わぬ男の生首。
日常の中に突如として現れた、非現実的な出来事。
これは夢だ。現実ではない。と思い、そう思い込もうとするも、五感がそれを否定する。
苦悶の表情を浮かべる男の顔、見開かれた真っ赤な目、極度に肥大化した牙の様な犬歯。辺りに充満する血の臭気。身の毛もよだつ男の悲鳴。
そのどれもが、夢ではあり得ない圧倒的な存在感をもって、目の前の出来事が現実だと物語っている。
脳の処理が追いつかず言葉を失っている俺に向かって、少女が歩いてくる。
見慣れた制服、見知った顔。しかし手には男の首を切り飛ばした刀が握られている。煌めく白刃。刃先の赤黒い汚れがその輝きを曇らせている。
段々と彼女が近づいてくる。月を背にしているためその表情は陰となり伺い知れない。
殺される。そんな思いがよぎったと同時に、どうしてこうなった、と今までの行動を振り返った。今日も、つい先ほどまで彼女と談笑をしながら、帰宅をしていただけだった。彼女と仲良くなり始めていたところだった。
なのにどうして今、俺は殺されようとしているのか。
現実離れした出来事に加え信じたくない出来事のために、脳内は更なるパニック状態で、身動き一つとることができなくなっていた。
血のりを払うように刀が振るわれ、風切り音と共に白刃の煌めきが目に痛く突き刺さる。
後少しで刀の届く距離となった。
もう終わりだ。死の間際には走馬燈が見えると言うが、そんなことはなかった。ただ刀を持つ少女の姿が目に焼き付いていた。
彼女は腰だめに刀を構え、ゆっくりと刃をすべらせた。
・・・
高校生活2年目の春。新しい環境にも慣れ、仲のいい友人もでき始めた今日この頃、青春を謳歌する高校生の主だった話題は色恋沙汰であった。クラスの誰それがカッコイイ、隣のクラスにとてもカワイイ子がいる、誰と誰が付き合い始めたらしい。等々。
クラスに同じ部活の男子がいたため何とか孤立を避けられた、人見知りな少年、守屋徹こと俺に至っても、状況は大きく変わらなかった。
部活の友人を中心に形成されるグループに入り、みんなの話に合わせ相槌や返事を返す。誰かに告白する勇気など持ち合わせていないが、誰がカワイイ、タイプだと口にするだけなら自由である。
そういった男子同士の下世話な話をしていると、必ず一度は挙がる名前がある。
鬼倉美佳
2年生から同じクラスになった女子で、いつも独りでいるため、別の意味で目立っている。
背丈は平均的だが、手足はスラリと長く、背中まで伸びた髪は流れるようで、誰もが見惚れる艶やかな黒髪。目鼻立ちも人形のように整っており、その肌はシミひとつなく太陽を浴びたことがないかのように真っ白である。
しかし彼女はいつも俯きがちで人と目を合わせようとせず、話しかけても首を振ったり頷くだけで声をほとんど発しない。またその白い肌もよくよく見れば、青白く病的な印象を受けるものであった。
そのせいで、陰気さや不気味さが、彼女の美貌を凌駕し、今では誰も彼女に話しかけることはなくなった。
しかし俺は、もちろん誰にも話したことはないが、そんな彼女のことが気になっていた。
幼いころは体も気も小さく自分から他人に話しかけたことなど一度もなかった。成長し、体は大きく、気も少しだけは大きくなったが、それでも初対面の人と話すのは未だにとても苦手だ。
そんな自分と彼女が重なったのか、それともただ単に彼女の美しさに惹かれたのか。自分でもはっきりとしないが、確かに守屋徹は鬼倉美佳を意識していた。
しかし彼女と話す機会はなかなかなかった。
そもそもからして話したことのない相手に話しかけることを考えただけで尻込みしてしまう俺である。休み時間に話しかけるなどできなかった。普通の女子に話しかけるだけでも無理なのに、クラスから浮きに浮いている彼女に、みんなが見ている中で話しかけるのは無理中の無理であった。
授業が終わった放課後にしても、俺は部活に行かなければならないし、彼女も彼女でHRが終れば早々に帰ってしまう。
そうしているうちに、新学年になった時から気になっている女の子に、話したいと思いながらも話しかけられず、あっという間に1ヶ月が過ぎてしまった。
こうして離すこともないまま、半年が過ぎ、1年が過ぎてしまうのだろうか。そう考えていると偶然にも話しかけるチャンスがやってきた。
それは、俺たちの住む田舎では珍しい、物騒な事件がニュースに流れた日だった。
「朝のニュース見た!?」
朝から教室内はその話で持ちきりだった。
事件があったのは昨夜未明ごろ。朝になり現場周辺の住人が、男性の遺体を発見した。身体中にひっかき傷があり首筋には獣の噛み跡のような傷のある、男の遺体。
殺人事件なのか。野犬に襲われたのか。オオカミが出没したのか。など、様々な憶測が飛び交っている。その中で非現実的な妄想が一番話を盛り上げていた。
多くのテレビ局が事件の概要だけを報道している中、ある局だけがその詳細を報道していた。その中で最も印象的なのが、首の傷についての報道。
一際大きな牙が食い込んだ傷跡が2つ。
首から肩にかけての損傷が激しく詳しくは分からないが、その2つの傷跡だけははっきりと見て取れたと言う。
「犯人は吸血鬼だったりして!」
誰かがそんなことを口にした。非現実的なあり得ないことなのに妙にしっくりと感じられた。初めはバカな話だと笑っていたクラスメートたちも段々とその気になり、いつの間にか「吸血鬼犯人説」が定着していた。
吸血鬼はどんな恰好をしているか。男なのか女なのか。容姿の美醜、国籍など、様々な憶測、妄想が飛び交い膨れあがった。
吸血鬼が犯人であるはずがない、と思いながらも、みんなに話を合わせる。そんな中、男子の誰かがつぶやいた。
「どうせ襲われるなら、美人の吸血鬼がいいよな」
バカげた発言に失笑と苦笑に、若干名からは爆笑が起きる。
「襲われて死んだらおしまいだろ!」
まったくその通りだと思う。ニュースによれば、被害者の首は傷跡がよく分からないくらい傷ついていると言う。そんな、傷を受ける痛みの最中に、相手が美人で良かったなとど考えられないだろう。
そう思い、俺も鼻で笑うように唇をつり上げるが、自然と視線は教室の隅、鬼倉の方へ向いていた。
俺は何かを期待していたのかも知れない。が、鬼倉はいつもと変わらず、俯き垂れ落ちる髪の隙間から青白い顔が見えるだけだった。
その日の放課後、珍しく部活が中止となった。事件の事もあり、遅くまで生徒を残すことは危険と判断した学校側より、部活動の全面中止および全校生の一斉下校が命じられたからだ。
俺もその指示に従い学校を出るが、校門に差し掛かったところで忘れ物に気づいた。携帯電話がポケットにもカバンの中にも入っていなかった。今日は部室には行っていないため、教室の机の中にでも置いてきてしまったのだろう、と自分のクラスへと戻っていった。
教室へ着くと、まだ1人生徒が残っていた。
鬼倉である。
俺が戻ってきたことに疑問を持ったのか、彼女は視線だけをこちらにやった。長い髪の間からのぞく大きな瞳が、俺の眼をしっかりと見つめていた。
「鬼倉さん、まだ帰ってなかったんだ」
俺たち2人しかいない今この瞬間が、話しかけるチャンスだと気づき、思い切って声をかけてみた。しかし彼女からの返事はなく、沈黙が流れる。
「誰か待ってるの? 俺、携帯忘れちゃってさ」
見つめあったままの沈黙に耐えられず、自分の席へと移動しながら言葉を続ける。敢えて彼女を見ようとせず、椅子を引き机の中をのぞき込む。
携帯があったことに安堵しつつ、鬼倉の方へ視線をやると、彼女はこちらをじっと見つめていた。
相変わらずとても綺麗だが、無言で見つめられるとかえって怖い。
「あっ、もしかして親を待ってるとか・・・・・・?」
なんとか沈黙をなくそうと言葉を続けるが、やはり彼女は無言。もういい加減に辛くなってきた。
もう帰ろう、と思い立ち上がろうとした時、彼女が口を開いた。
「別に誰かを待っている訳じゃないの。ただボーッとしてるだけ」
初めて彼女の声を聞いた。凜とした透き通ったその声音は、耳の中を滑るように入ってきた。その心地よさに一瞬で心を奪われた。
「そっ、そうなんだ。でも早く帰らないと危ないよ」
返事をもらえた嬉しさで若干声が上ずってしまったが、なんとか最後まで言い切ることができた。
「吸血鬼に襲われるから?」
そう言って彼女は、小首を傾げながら僅かに唇をつり上げた。それは本当に小さな彼女の微笑みだった。
「どうしたの、守屋くん?」
その微笑みに見とれて黙っていると、彼女は首を傾げたまま表情を元に戻す。
「なっ、何でもないよ! ていうか俺の名前覚えてくれてるんだ」
慌てて彼女から視線を逸らすが、名前を呼んでくれたことに嬉しさがわき上がってくる。まさか覚えられているとは思いもしなかったから。
「クラスメイトの名前だよ? 覚えてるに決まってるよ」
そう言って彼女はまた小さく微笑む。それにつられて俺も笑みをこぼした。
「それもそっか。それより早く帰った方がよくない? 吸血鬼がいるかは別にして、人が死んでるわけだし」
吸血鬼犯人説なんて馬鹿げた話は一切信じていないが、人間を襲った何者かがいるのは確かだ。まだ日は高いが、暗くなってくれば襲われる可能性が高くなってもおかしくはない。
「そうだね。帰ろっか」
彼女は小さく頷き、鞄を持って立ち上がった。俺も立ち上がり教室を後にする。
無人の廊下を言葉を交わすことなく歩いて行く。先ほどまではこの沈黙が辛かったが、ちゃんと話ができたからか今は全く苦痛を感じていなかった。それよりも彼女と会話をし、彼女の笑みを見られた嬉しさで胸が一杯だった。
そのまま校門まで行き、お互いが同じタイミングで立ち止まった。
「鬼倉さん、家どっち?」
「あっちだけど、どうして?」
家の方向を指さした後、首を傾げて俺を見上げる。
「物騒な事件があったばかりだし、女子1人は危ないかなと思って」
もう少し一緒にいたいのが本音ではあるが、彼女を危険から守りたいのも嘘ではない。
「俺、身体でかいし、わざわざ襲ってくるやつなんていないと思うよ」
「じゃあ、途中までお願いしようかな」
俺が力こぶを作り冗談めかして言うと、くるりと回って帰路へと身体を向け、歩き出した。慌てて彼女の後を追い、歩幅を合わせゆっくりと歩き出した。
特に会話らしい会話をしないまま彼女の通学路を歩いていた。それでも嫌な沈黙ではなかった。
10分ほど歩いたところで彼女が立ち止まった。
「ここまでで大丈夫。もうすぐそこだから」
T字路の真ん中に立ち、右側の道を指さしている。
「ありがとう、守屋くん。また明日ね」
どうせなら家まで、と言いかけたところを彼女の言葉に遮られた。優しい口調なのに、何故か有無を言わせない迫力を感じた。
「うん、じゃあ、また明日」
その迫力に押し切られるように別れの言葉を口にする。
彼女はすぐには歩こうとせずこちらを見ていた。そんな彼女に遠慮がちに手を振れば、控えめな様子で手を振り返してくれた。俺はホッとしたように息をつき、笑顔でもう一度大きく手を振り、彼女に背を向けた。
彼女に付いてきたために、かなりの遠回りをしてしまったが、問題はない。今日はとても良いことがあった日なのだ。俺は振り返らずに軽やかな足取りで歩き出した。
・・・
鬼倉と一緒に帰った日から、俺たちは徐々に打ち解けていった。
相変わらず口数は少なく、2人でいる時も会話は少ないが、クラスの中でも少しずつ話すようになってきた。
同じクラスの部活仲間に冷やかされたりするが、外から見た様子は仲が良いとは言いがたいものなので、すぐに話題にも上がらなくなった。そのおかげで最近では気兼ねなく彼女に話しかけることができている。
それに加えて一緒の下校も続いている。
1週間ほど前に起きた殺人事件のテレビ報道はめっきり少なくなったが、まだ解決はされてない。そのため依然として部活は禁止、一斉下校も続いている。
クラスから人がいなくなるのを2人で待ち、人がいなくなったころに教室を出る。それまでは宿題をしたり携帯を触りながらポツポツと会話をする。
そうしているうちに彼女との会話の数や笑顔をも増えてきた。
この頃になって、俺は自分の彼女に対する気持ちを正確に認識した。もうずいぶん前からそうだったのだろうが自覚するには至っていなかった。
俺は鬼倉美佳が好きなのだ。
自覚をすると今まで以上に彼女のことを意識するようになった。彼女の何気ない仕草にも眼が離せなくなり、眼が合わずとも胸が高鳴った。
学校ではもちろん、家に帰ってからも彼女のことを考えていた。自分のことながら気持ち悪いとは思うが、恋する乙女のように彼女に恋をしていた。
それから1週間、2週間が過ぎ、梅雨の気配が近づいてきた。
この頃になると、事件が解決した訳ではないが、俺たちの生活はいつも通りに戻っていた。
学校から口酸っぱく気をつけるよう注意されるが、部活も再開されるようになった。俺の所属する剣道部ももちろん再開している。
そんな訳で俺はただ今、大量の汗をかきながら部活動に励んでいた。
梅雨が近づいているため、気温、湿度ともに高く、少し動いただけですぐ汗が出てくる。それに加え防具を着けるため更に暑い。特に頭部を守る面は熱がこもるためもうクラクラするほど暑い。
本当に倒れるやつも出てくるが、そうならないよう大声を出し自分に気合いを入れる。そうして今日も、部活時間ギリギリまで竹刀を振り続けていた。
部活が終わりすぐに着替え、急いで教室に向かう。当初は待ち合わせなどしていなかったが、今はお互いに特別な用事がない限り、ほぼ毎日一緒に帰るようになっていた。俺は部活をしており彼女は帰宅部であるため、必然的に彼女を待たせる形になっていまう。
少しでも待たせる時間を短くするため、すぐに更衣室を出る。以前はダラダラとしゃべりながら着替えていたが、今では一言、二言話してすぐに更衣室を出る。
教室が近づくと一旦立ち止まり、汗臭くないかをチェックする。以前はそんなもの気にもしなかったが、今は汗拭きシートと制汗剤できっちり臭い対策。まさか俺がこんなことをするようになるとは思ってもいなかった。
階段を駆け上がって乱れた息を整え、教室のドアを開ける。
いつものように鬼倉がノートを広げて勉強をしている。ちょうどキリがよかったのかペンを置いてこちらを向く。
「お疲れさま。帰ろっか」
彼女は手早く、ノート、筆記具類を鞄にしまい立ち上がる。いつもその所作に魅入ってしまうが、それはやはり彼女が俺の特別だからだろうか。
「ごめんね、いつも待ってもらって」
「ううん、勉強を家でやるか学校でやるかの違いだし」
俺としては申し訳ない気持ちが大きいが、彼女は何でもないように微笑む。その姿に、綺麗だなー、優しいな-、と言葉を忘れて見つめてしまう。
それに気付かれないよう慌てて教室を出る。彼女が出てくるのを背を向けたまま待ち、2人揃って廊下を歩き出す。
部活帰りの生徒の声を遠くに聞きながら薄暗い廊下を歩いていると、何だか別世界にいるような気持ちになってくる。
梅雨が近づき曇りがちな日が続いていたが、今日は久々の快晴で空には雲一つなかった。
校舎を出て空を見ると、月が山の向こうから顔を出したところだった。
綺麗な満月だと思った。どんよりとした曇り空が晴れて、気持ちまで晴れやかになったのか、いつもよりも満月が綺麗に見えた。
ふと視線を下げると、鬼倉も空に目を向け、じっと月を見つめていた。俺も視線を戻し、2人して月を見つめていた。
何かいいなー、と自然と笑みがこぼれた。いつも通りの日常にちょっと良いことがある。良い1日だ。
「行こっか」
ただいつまでもそうしている訳にはいかないので、彼女に声をかける。彼女は笑顔で頷いて歩き出した。
本当に良い日だ。彼女に続いて歩き出し、隣り合うように歩調を合わせる。
大きな月がゆっくりと空を昇っていた。
いつもと同じ帰り道。その道のりの半分のところで、鬼倉が立ち止った。それに気付き振り返ると、彼女が険しい表情をしていた。普段、学校でも見ない表情だった。
「鬼倉さん、どうしたの?」
少しうつむきがちな彼女を覗き込むように尋ねるが、返事はない。
どうすればいいのか分からずにいると、彼女が口を開いた。
「守屋くん、今日はここまででいいよ。じゃあ、また明日ね」
それだけを言うと、俺の返事も聞かずに彼女は歩きだしてしまった。
何か声をかけようとしたが、有無を言わせない言葉とその気配に、俺は言葉を発することができなかった。
そうしているうちに鬼倉はどんどん離れていき、路地の角を曲がり見えなくなってしまった。
俺は立ち尽くし、茫然と鬼倉の消えた曲がり角を見つめていた。いつもの帰り道とは違う道だった。
帰る途中に何か用事があるのだろうか。
どうして俺と別れたのか。
人に、俺に知られたくない用事があったのだろうか。
一体どんな用事なのか。
色々なことが頭に浮かび、俺はその場から動くことができないでいた。彼女の用事を想像するだけでなく、彼女を疑うような発想にまで考えが至っていた。
何か俺に隠し事があるのではないだろうか。
その時、声が聞こえてきた。野太い男の声だ。悲鳴のような、唸り声のような、身の毛もよだつ声だった。
声は、鬼倉が歩いて行った方向から聞こえてきた。
俺はすぐに駆けだした。
鬼倉が声の聞こえた方向に行った確証はない。全く見当違いの方向にいるのかもしれない。しかし鬼倉のすぐ近くで、目の前で、あの声が発せられた可能性も否定できない。
初めて通る道を、とにかく方角を決めて突き進んでいく。声が聞こえた先には大きな月が輝いていた。月に向かって走って、走って、走った。
声は断続的に聞こえていた。時折耳を塞ぎたくなるような不快な唸り声が響き、それはだんだんと大きくなっているように思えた。つまり声の発生源に近付いているのだ。
細い路地を走り抜けると開けた空間に出た。そこは児童公園のような場所だった。ただ児童公園というには住宅から離れており、寂れたところだった。
肩で息をしながら立ち止ると、ひと際大きな声が響いた。その声は、恐怖におののくものではなく、耐えがたい苦痛による悲鳴だった。命を失う直前の断末魔の叫び声にも似た響きだった。
声は公園の中心からだった。目を向ければ、人影が2つ。うるさく響く鼓動を抑えるように、息を潜めて歩き出した。
あれから声は聞こえなくなり、風が木々を揺らす音だけがこの場に満ちていた。
もう、人影の様子がよく分かる距離まで来ていた。
「うそだろ……」
俺がポツリとつぶやいた言葉は、驚くほど鮮明にこの場に響き渡った。公園の中心に立つ人影に、その声が届くには十分すぎるほど鮮明に。
その誰かはゆっくりと振り返る。こちらの存在に気づいていたのか、驚くそぶりは見せずゆっくりとした動きで。早鐘を打つ俺の鼓動とは正反対だ。
俺は目を見開き、息をするのを忘れていた。振り返ったその誰かの姿があまりにも衝撃的だった。
曇りのない夜空、星の瞬きを圧倒する満月の輝き。
流れる黒髪、紅の双眸、白磁の肌。
見慣れた制服、その手に煌めく白刃一振り。
地に伏す男、広がる血だまり、物言わぬ男の生首。
目の前に広がる光景は信じがたいものだった。
日本刀のようなもので、男が首を切り落とされて死んでる。男の首を中心に広がる血の海はひどい臭気を放っている。
しかしそれ以上に、刀を持つものの正体が信じられなかった。
つい先ほどまで一緒にいて、言葉数少なく会話を交わし微笑みあっていた。
艶やかで長い黒髪、病的なまでに白くすべやかな肌。しかし常と違い、瞳は紅く、小さく薄い唇からは大きな八重歯がのぞいていた。
鬼倉美佳がそこにいた。
もう訳が分からなかった。
クラスメートが人を殺したであろう場面に遭遇した。しかも死んでいる男を見れば、瞳が血のように紅く、口からは牙のような大きく鋭い歯が飛び出している。どう見ても人間とは思えず、まるで吸血鬼のようだ。
更に鬼倉が俺を混乱させる。
死体のそばで血に濡れた刀を持ち、落ち着きはらった様子で佇んでいる。その様子や表情はいつもと変わらないように見えるが、紅い瞳と大きな八重歯は、彼女と死体の男との関連性を考えさせる。
俺が茫然としていると、鬼倉が俺に向かってゆっくりと歩き出した。
手に持った刀を振るい血のりを払った。白銀の刃が月下のもとにさらされる。刺さるようなその輝きを横目に、俺は鬼倉から目が離せなかった。紅く輝く瞳に引き込まれていた。
鬼倉が近付いてくる。刀の届く距離までもうすぐだ。
動くことができない俺に対し、鬼倉はどんどん近付いてくる。刀の間合いを通り越し、手の届く距離を通り越し、俺と一歩だけ間をあけて立ち止まった
「どうして帰らなかったの?」
いつものように、俺を見上げ小さく首をかしげて、鬼倉は尋ねた。この状況を俺に見られたことなど、どうでもいいかのように、いつもと変わらない様子だ。
「あの後、すごい声が、鬼倉さんの行った方から聞こえたから、その、心配で……」
俺は何とか言葉をひねり出す。
確かに俺は彼女を心配してその後を追いかけて行った。果たして彼女に怪我はなく無事だったが、まさか彼女が男の悲鳴の元凶だとは夢にも思わなかった。彼女の無事を安堵する間もなく、血のついた刀を持ちながら接近される恐怖を与えられた。
「そっか、心配してくれたんだ、ありがと。でも私は大丈夫だから」
何が大丈夫なのだろうか。吸血鬼のような男を殺したのは彼女で、それだけ強いと言いたいのだろうか。
「私は大丈夫だけど、守屋くんはそうじゃない。怪我したり死んじゃうかもしれない」
怪我をする? 死ぬ?
俺が何かに襲われるのだろうか。
何が何だかわからないうちに彼女は言葉を続ける。
「だからね。これ以上私と一緒にいない方がいいよ」
彼女と一緒にいない方がいい? せっかく仲良くなれたのに?
「じゃあ…… さよなら」
そう言って彼女は踵を返し歩き出した。こちらを振り返らず、死体さえ放置し彼女はどんどん遠ざかっていく。
小さくなっていく背中を見つめながら、彼女の言葉の意味を考えた。
「またね」ではなく「さよなら」
彼女は本当に俺との関わりを断つつもりなのだろうか。
いやだ、と思った。それと同時に、人を殺し、人ではないかもしれない彼女を、俺は今まで通りに見ることができるのだろうか。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
ふらふらとその場にへたり込み、ただ茫然と月を見上げることしかできなかった。
・・・
気づけば朝になっていた。
昨日、どうやって家に帰ったのか。家族と何か話したのか。夕食を食べたのか。風呂に入ったのか。いつベッドに入ったのか。何も覚えていなかった。
親曰く、ボーっとして心ここにあらずだったようで、食事や入浴はいつも通りだったが、かなり心配だったようだ。
今朝はいつも通りだと安心されたので、ちょっと疲れていただけと誤魔化しておいた。
いつものように朝食を食べ、いつものように学校へ向かった。
本当にいつも通りだった。
テレビのどのチャンネルを見ても、昨日の殺人事件のことは報道されていない。ネットを見ても、以前の事件が出てくるだけ。
本当に夢だったのではないのだろうか。
今でも昨日の出来事は鮮明に思い出すことができるので、実際に起こった出来事だと思っているが、一切情報がないためその確信が揺らいできている。
そうしているうちに学校に着いた。
校門を抜け下駄箱に行き、階段を上る。段々と教室が近付くにつれ緊張で鼓動が速くなってきた。鬼倉に会うことを思うと足取りが重くなる。
どんな顔をして会えばいいのかが分からない。何を話していいのかが分からない。何をしていても昨日の出来事が思い出されて、いつも通りに振る舞えない気がする。しかしクラスメートである以上会わないわけにはいかない。彼女が無口なタイプであることが唯一の救いだ。
教室に至るまでの道のりも至って普通。いつも通りだった。階段でも、廊下でも殺人事件の話をしている人間はいない。教室の中でもいつものように仲のいいグループで集まり、朝礼までの時間つぶしをしている。
教室に入り、自分の机へと向かいながら近くの友人に挨拶をする。そのいつもの風景の中で、いつもと違うことがあった。
鬼倉美佳がいなかった。
鬼倉は、体育はいつも見学をしていたが、学校を休んだところを見たことはない。少なくとも同じクラスになってからは一度も。
その鬼倉が教室にいなかった。
俺が事件を目撃し、彼女が俺に「さよなら」と言った、その翌日に。
またね、と言わなかった彼女は、本当に俺ともう会うつもりがないのだろうか。俺との関わりをなくすつもりなのだろうか。
せっかく仲良くなれたのに、会えなくなるのは嫌だった。先ほどまでは会うのが嫌だと思っていたのに虫のいい話ではあるが、鬼倉と会いたい。会って、彼女とこれからも友達で、できればその先の関係へとなっていきたい。
ただどうすれば彼女ともう一度会えるのかが分からなかった。仲良くなり一緒に下校するようにもなったが、家の前まで一緒だったことはないし、連絡先も交換していない。
今日の休みがたまたまで、何日か経てばいつも通りの様子でやってくるかもしれない。そんな期待を持っていたが、彼女はやってこなかった。
週が変わっても休みのままなので、俺は心配になり担任に彼女のことを尋ねるが、「風邪が長引いている。」「連絡先は教えられない。」との答えしか返ってこなかった。
俺はどうすることもできなかったので、あてもなく彼女の下校路をなぞって帰ることにした。
ストーカーじみている気がするが、いつも彼女と別れるところまで行き、そこから色々な道へと足を踏み入れていった。日が落ちて暗くなるまで、毎日違う道を行き、彼女の家を見つけられず落胆して帰路についていた。
その中で鬼倉を最後に見たあの公園にも何度も立ち寄った。男の死体や血だまりがまだあるのではないかと思っていたが、ニュースにもなっていないので当然ながら何もなかった。
そうしているうちに、一か月が経とうとしていた。その間、鬼倉は一度も登校しなかった。一部で鬼倉が重病に罹っているという噂が流れたが、今はもうそのことに触れるやつもいなくなった。俺も、もう鬼倉とは会えないのだろうと、諦めようとしていた。
鬼倉と会えなくなってからちょうど一カ月目の今日。俺は最後にもう一度だけ、彼女の下校路を辿ることにした。今日で何もなければ、本当に諦める。そう決意して学校を背に歩き出した。
今日は部活が長引いたため、いつもより空は暗い。しかし長々と歩きまわるつもりはなかった。事件のあった公園に行き、そこからいつも彼女と別れる道に行く。会えるとも思っていないが、探すつもりもない。彼女を諦めるための道のりなのだ。
下校路をゆっくりと歩いていると、彼女との思い出が甦ってくる。彼女との会話は少ないが、その分その一つ一つをよく思い出すことができた。すべて他愛のない話だ。けれど会話を重ねるごとに、少しずつ鬼倉の笑顔が増えていった。そんな彼女を見ているのが俺も楽しかった。きっと彼女もそうだと思っていた。やはり突然のさよならには納得がいかなかった。
ゆっくりと歩いていたつもりだが、すぐに例の公園に着いてしまった。
この公園にくるときはいつもそうだが、今日も誰もいない。確かに住宅街から離れており誰も訪れないようなところだが、公園の周りで人を見かけたことが一度もない。今思うと奇妙なことである。加えて、今日はいつにも増して静かな気がする。
空気が止まっているかのように何の音もしなかった。街の喧騒も届かず、ただ自分の鼓動や足音だけが響いていた。その静けさに妙な不安を感じ、鼓動が速くなってきた。
立ち止まってあたりを見渡してみる。いつもと変わらず、誰もいない公園があるだけだった。ぐるぐると視線を一周させても、誰もいない。ただ俺が立っているだけだ。
もう行こう。そう思い歩き出そうとした時、
「なんだ。前に嗅いだことがあると思ったら、男か」
突然後ろから声が聞こえた。
俺は慌てて振り向き、声の主を探した。
俺が視線を向けたその先には、俺が見上げるほどの大男がこちらを見つめて立っていた。
俺の目の前に立つ男は一目見たところでは体の大きさ以外に注目すべき点はないように思えるが、よくよく見るとそのそれぞれが人間離れした特徴を持っていた。
まず目につくのはその肌の白さ。抜けるように白く、陽光の下だと青白く見えるだろう。そしてその頭髪も真っ白で月明かりに照らされ銀色に輝いている。その髪の隙間からのぞく瞳は血のように紅く、こちらを射殺さんばかりに睨みつけている。そして何よりも人間離れしているのが、上唇を押し上げるほど大きく肥大した牙のように鋭い歯。
そんな男が、真っ黒な衣服に身を包み、こちらを見ていた。まるで獲物を狙う猛獣のように。
まさしく吸血鬼と思えるような男から取って食われうような視線をぶつけられながらも、俺は大きく動揺はしなかった。驚きはしたし恐怖も感じているが、全く動けなくなるようなことにはならなかった。以前に死体となった吸血鬼を見ていたからだろうか。
「へぇ……俺を正面から睨みつけるとは、中々肝が据わっているな」
俺が逃げ出さずに男を見据えていることに、少し感心した様子だ。恐怖を感じ若干脚も震えているが、視線だけはそらさなかった。目を離した途端に襲ってくるような気がする以上に、死体となった吸血鬼や、鬼倉との関係性が気になった。だから逃げ出すわけにはいかなかった。
「あんたなのか、この町で人を襲ったのは」
黙っていても仕方がないと思った時、ふと頭に浮かんだのは未だ解決していないひと月以上前の殺人事件だ。クラスで吸血鬼犯人説が噂された時は呆れたが、こうして目の前に吸血鬼然とした男がいると、それが真実のように思えた。
「……なんでそう思う」
問答無用で襲われると思ったが、こちらの言葉に反応した。それに少し驚くと同時に、この男が何かしらの関わりを持っていると感じた。
「あの事件の犯人は吸血鬼なんじゃないかって噂が流れた。あり得ないと思ったが、あんたやここで死んでた男は、吸血鬼のように見えるから」
俺が死んでいた男に言及すると、目の前の男は驚きの表情を見せた。目を瞠り、驚きの様子を隠そうともしない。
「なんであいつを知ってる」
やはりこの男は何かしらの関わりを持っているようだ。
「たまたま、この公園で死んでいるのを見ただけだ」
嘘ではない。確かに男の声を頼りにこの公園へ向かったようなものだが、目的は鬼倉に会うためだ。意図して男の死体を見たわけではない。
「たまたまね……あいつは俺の手下だ。この町で男を襲ったのもあいつだ」
俺は男は襲わねぇからな、と付け加えられた言葉に、女なら襲うのか、と悪態をつく。しかし、やはりこの男も関わりがあったのだ。
「あんたたちは一体何者なんだ」
ここまで来ると何もかもが気になってくる。どうして男を襲ったのか。そもそも彼らはどういった存在なのか。
「俺たちが何者か、ね……いいぜ、教えてやるよ。冥途の土産にな」
あっさり教えてくれることに驚くが、その後の言葉に戦慄した。この話が終われば、殺されるということだ。男は襲わないんじゃなかったのかよ。
「俺たちはいわゆる吸血鬼だが、実はそうじゃねぇ」
俺たちも、お前と同じ人間だ。
そう言って男は話し始めた。
「同じ人間。正確には元だがな。
俺たちは人間から突然変異で生まれた。それが種として定着したのが俺たちだ。ただ突然変異と言っても、DNAを見ればほとんど人間と一緒だ。
肌が白いのはアルビノ、つまり色素欠乏症だ。日光で目や肌がやられるのは、このアルビノが原因だ。牙も八重歯と大して変わんねぇ。奇病の歯の肥大症も併発しているが、遺伝子的に大きな差はない。
五感が鋭く身体能力が高いのも人間の範疇だろう。人間にだって俺たちと同じくらい耳や良かったり力が強いやつはいる。実際に見たこともある。
傷の治りが早いのも新陳代謝がいいだけだ。マンガみたいに切れた手がくっつくなんてことはない。
まぁ、こういった人間には珍しい形質が、ほぼ確実に遺伝するようになった、ってことだ。普通はあり得ねぇから突然変異といってもおかしくはないが、人間の遺伝子の組み合わせの一つってことさ。
それに血に関してもそうだ。
俺たちは人間の血がなければ生きられないわけじゃない。人間と同じ食事だけで生きられる。もちろん血を栄養にはできるがそれは人間だって同じだ。血にはいろいろな栄養が流れてるからな。
まぁ、しかし、俺たちが血を好むのは事実だ。血なんて飲まなくても生きられる。だが、あの匂い、あの味、あの舌触り! そのどれもがこの上なく心地いい!
酒やタバコと同じだ。生きる上では必要ない。しかし生活の質を高め、生きる満足感を与えてくれる。
つまりだな、俺たちは吸血鬼と呼ばれ、俺たちもそう呼んでるが、その実は単なる血が大好きな人間ってことだ」
演説をするかのように話していた言葉を切り、一息つく男。その内容は驚くべきものだった。
小説の中の吸血鬼のような妖怪じみたものではなく、人間の突然変異だという男の話は現実味を帯びていた。万に一つよりも小さいかもしれないが、あり得ない話でもなかった。普通であれば信じないが、吸血鬼張本人から話を聞いたために、俺はほとんど真実として受け入れていた。
「さて、本来なら逃がしてやってもいいんだが、今はちょっとやっかいでな」
途中から気安い感じで話を聞いていたため忘れていたが、話が終われば殺される予定だった。男も、出会った時のような殺気を再びまとっていた。脚が再び震えだした。
「せめて、できるだけ苦しまないように殺してやるよ」
そう言って男は懐に手を入れた。引き抜いた手には大きなナイフが握られていた。鉈のような分厚く無骨なナイフ。護身用などではない、戦うための、人を殺すためのナイフだ。
それを手に男がゆっくりと歩いてくる。
恐怖が体を縛り付ける。
心臓がうるさい。
男との距離がどんどん縮まってくる。このままでは殺されてしまう。
震える手で肩に掛けていた袋から中身を取り出す。剣道部であればだれでも持っている、型の演舞用の木刀。何の変哲もない木刀だが、木は堅く人を撲殺するには十分な強度を持っている。
左手で握り右手を添えて、切っ先を男の喉元へと向ける。呼吸は荒く体は震えるが、何んとか構えを取り、心を落ち着かせながら男を睨みつける。
男が歩みを止めた。やはり驚きの表情が浮かんでいた
「抵抗する気か?」
言外に、意味がないと言っている。
「窮鼠、猫を噛むってやつだ」
言葉を発したおかげで少し落ち着いた。体の震えも少し収まってきた。
「無駄な抵抗だ。苦しむだけだぞ」
「だったら見逃してくれよ。誰にも言わないからさ」
無駄だと思いつつ、命乞いをしてみる。慈悲深いようには見えないが、元は人間だというのだ。土下座くらいすれば同情して見逃してくれないだろうか。
「それはできない。悪いがここで死んでもらう」
言うが早いか、男が駆けだしてきた。確かに速く、俺たちの距離はすぐに縮まった。
ナイフが届く距離になると男は腕を大きく振り上げ、思い切りナイフを振りおろした。その巨体も相まってものすごい迫力だ。死を覚悟するには十分だ。
俺はその恐怖を何とか振り払い、左下から木刀を振り上げ、ナイフに思い切りぶつけた。ナイフはやや右に逸れ、俺は木刀を振った勢いそのままに左側へ駆け抜けた。ナイフは空を切り、何とか死は免れた。
お互い背中合わせの形となった。数歩距離を取り振り返る。再び男と向かい合わせになった。お互いの武器が若干届かない距離だ。
男はすぐに駆けだしナイフで突きを繰り出してきた。突きは避けるのが難しい。男は腕が長いために余計にそうだ。しかし先ほどの振り下しよりもパワーもスピードもなかった。だから男の腕に木刀を添わせ、突きを受け流すことができた。
今度は外側ではなく内側にもぐりこんだ。全身隙だらけで打ち込み放題だ。木刀を思い切り振り上げ、男の顎を打つ。そして渾身の力を込めて木刀を振り下す。
男の中でも力が強い俺が木刀で人の頭を思い切り殴れば、間違いなく大けがだ。当たり所が悪ければ一撃で死んでしまうかもしれない。しかし今はそんなことで躊躇をしている余裕はない。むしろ相手を殺さなければこちらが殺されてしまう。
本当かどうかは知らないが、人間とそう変わらないのであれば、頭を思い切り殴れば少なくない損傷を受けるだろう。殺せなくても少しでも動きを封じれば逃げられる。
そんな思いで振り下した木刀は、過たず男の頭部へ向かっていったが、ついぞ打つことはなかった。木刀が当たる直前、腹部にものすごい衝撃を感じ、体が吹き飛ばされた。
空と地面が何度も入れ替わり、全身に激しい痛みが襲いかかる。息ができず空気を求めて喘ぐが、苦しさばかりが募り涙がにじんでくる。
男に殴り飛ばされたと気付くのに時間がかかった。呼吸を取り戻し、滲んだ視界が鮮明になるにつれて、自分が地面に横たわっていることにも気付いた。
男は平然と立っている。俺は痛みでしばらく動けなさそうだ。
「驚いたぜ。まさか一発入られらるとはな……」
そう言って男は顎をさするが、大して効いているようには見えなかった。
「人間にしてはなかなかやるじゃねぇか。だがもう終わりだ」
今度こそ死がやってきた。もうどうあがいても男の攻撃をかわすことはできない。体中の痛みのせいで這いつくばって逃げることもできない。
「待ちなさい!!」
俺が死を受け入れようとしたその時、鋭い声が公園に響いた。それが誰なのか分からなかった。こんな場面に割り込んでくる人間に心当たりはなかった。しかしその姿を見た時、再び俺の息は止まった。
白刃を煌めかせ、男の前に立ちはだかる、鬼倉美佳の姿がそこにあった。
・・・
これは夢なのだろうか。はたまた死の間際に幻を見ているのだろうか。目の前の光景に俺はそう思わざるを得なかった。
会いたくても会えなかった鬼倉その人が、俺の窮地のそのさ中に現れたのだ。あまりにもいいタイミング、まるで物語のようだ。女性に助けられる男、という非常に情けない状況ではあるが。
彼女がどんな顔をしているのか、俺に背を向けているために分からない。しかし先ほどの声音やその背中からは、緊迫した只ならぬ気配を感じる。
「出やがったな……組織の犬が」
そんな中、男が憎々しげな様子で言葉を投げる。しかしどこか喜色もうかがえる。
「大人しく組織の下に来なさい。さもなければ、最悪殺すことになるわ」
男に対して鬼倉は冷徹に言い放つ。普段では想像もつかない、ぞくりと肌が粟立つような声音だ。
「あいつを殺しておいてよく言うぜ。本当は殺りたくてうずうずしてるんだろ」
男は気圧された様子もなく、逆に鬼倉に侮蔑の言葉を重ねる。鬼倉の背中からのぞく男の表情は、今にも飛びかからんばかりに殺気に満ち溢れている。俺に向けられていたものが子供だましにしか思えないほど強烈な殺気だ。
「いつもはウジャウジャ群れてうっとうしいが、今日は一人みたいだな。遠慮なくぶっ殺してやるよ!」
そう言って男は懐から何かを取りだした。四角く平べったい容器のようなもの。ちょうどウィスキーを入れるスキットルのようなものだった。
それを見た鬼倉が慌てたように駆けだした。しかし男はすぐにフタを開け、容器の中身を飲み干した。
あっという間に鬼倉は距離を詰め、鋭い突きを放つが、男は難なく回避し後ろに飛びずさった。その動きは俺を相手にしていた時よりも遥かに機敏だった。
「なぁ、さっきお前に言ったこと、1つ嘘があったんだ」
男は刀を持った相手を前にしながら、気安い調子で俺に話しかけてきた。視線も、鬼倉ではなく俺に向けられている。
「俺たちも人間も変わらず血を栄養にできる。まぁ完全に嘘ってわけじゃないが、血は俺たちに大きな力を与えてくれる。血を飲めば、もともと人間よりも大きな力が更に強くなる」
つまりあのスキットルの中には血が入っていたのだろう。それを飲み強くなり、動いが機敏になったのだろう。
「さぁて、そろそろ始めようか。すぐに死んでくれるなよ、半端者!」
言うが早いか男は駆けだし、ナイフを縦横無尽に振り回す。
様々な方向から振るわれるナイフは凄まじい勢いで、人間の手足など簡単に切り落としてしまうだろう。そんな嵐のような攻撃を鬼倉は見事に受け流し、隙を見つけては反撃を繰り出している。しかし反撃はいとも簡単に受け止められはじき返される。鬼倉も吸血鬼なのであろうが、血を飲み自らを強化した男の力には及ばないのか、技術以前に力で完全に負けてしまっている。
男の攻撃の勢いは止まることを知らず、むしろその苛烈さを増していた。対して鬼倉は徐々に男に押され始め、小さな傷が体中に刻まれている。俺はその様子をただ見ていることしかできなかった。歯を食いしばり手を握り締めても、立ち上がる力は湧いてこない。
「ほらほら、どうした!」
男はずいぶんと余裕があるようで、相手を煽りながら鬼倉を攻め立てている。対して時折見える鬼倉の顔には苦悶の表情が浮かんでいる。体中に切り傷を受けながら、必死に刀を振るっている。
男の攻撃を何とか防ぎつつ反撃をしていた鬼倉だが、今では防戦一方。致命傷を受けないだけで精いっぱいだった。小さくない傷を受けることもあり、制服に赤黒いシミが浮かんでいる。
「ぅあっ……!」
そうしているうちに鬼倉が吹き飛ばされ悲鳴を上げた。男に刀を上へ弾かれ、無防備になった胴に強烈な蹴りを受けて、俺のところまで吹き飛ばされたのだ。そのあまりの衝撃に、鬼倉は刀を手放し、苦悶の声を漏らしている。
「鬼倉さん! 大丈夫っ!?」
何とか体が動くようになった俺は鬼倉に駆け寄る。腹部を押さえ歯を食いしばりながら、彼女は男を睨みつけている。これだけの力の差がありながら彼女は逃げずに戦おうとしている。
「もう終わりか? まぁ、血も飲まずに俺の相手になるわけはないか」
男は手の中でナイフを回しながら、その場から動かず鬼倉を見下ろしている。鬼倉は男に向かうために立ち上がろうとするが、力が入らないのか体を起こすこともできなかった。その様子を男は憐れむように眺めている。
「そうだ。ちょうどそこに活きのいいのがいるし、飲んだらどうだ?」
名案が浮かんだと、男は手を叩き、ナイフを俺へと突きつける。活きのいい、新鮮な俺の血を飲めということだろう。そうすれば鬼倉はこの男に勝てるのだろうか。そうであれば血を飲まれることに迷いはない。
「そんなことは、絶対にしない。……吸血鬼の血が流れていても、私は人間だっ」
鬼倉は苦しそうに息を吐き、途切れ途切れになりながらも、男に言葉をぶつける。人の血を吸わない。これは鬼倉の人としての矜持なのだろう。
「はぁ……半端者のプライドか知らねぇが、そのプライドのせいで命を縮めるんだから、哀れだな」
鬼倉の言葉にがっかりしたように肩をすくめ、男はゆっくりと歩き出した。もう終わりにするということだろう。
「守屋くん、ごめんね……」
男の意思を察知したのか、鬼倉は俺を振り返り涙を浮かべて謝罪の言葉を口にする。
「私のせいで危険な目に遭ったのに、守って上げられなくてごめんね……」
鬼倉は全部自分が悪いとでも思っているのか、とても辛そうな顔で何度も何度も謝ってくる。俺が勝手に首を突っ込み、勝手に危険な目に遭っただけだというのに。
「守屋くんだけでも逃げて。あいつは私が何とかするから……」
俺が首を突っ込まなければ、鬼倉も無駄に傷を負うことはなかったというのに、俺の身を案じてくれている。自分の命よりも優先し、俺を逃がそうとしてくれている。自分が殺されてしまうことが分かっていても、俺を少しでも安心させるために鬼倉は笑っていた。
俺は情けなくて涙が止まらなかった。自分の勝手な都合で傷つけて、その命を奪おうとしている。あまつさえ自分だけ逃がしてもらう。しかも自分が好きになった相手から。情けないにもほどがある。
「そんなこと、できるわけないだろ?」
俺は涙を拭き、苦笑いをしながら立ち上がった。深呼吸をし心を落ち着けながら、男を睨みつける。
「またやるのか?」
男は驚き、しかし呆れる様子なく口の端を吊り上げた。
「だめっ、逃げて!」
鬼倉は俺を止めようと声をあげて、手を伸ばした。その手が足を掴む前に、俺は歩き出した。鬼倉の刀のもとへ。
「守屋くん、逃げて! それは人間には扱えない! 吸血鬼には勝てない!」
それはそうだろう。さっきも全く勝てる気がしなかった。血を飲み強くなったというなら、手も足も出ないだろう。けれどそれは引く理由にはならない。
足元の刀を屈んで拾い上げる。その重さに驚いた。持てない重さではないが、自由に振り回せるとは思えない。鬼倉は軽々と降っていたが、確かに俺にはまともに扱えないだろう。それでも引くわけにはいかない。
「そいつの言うとおりだ。重くて扱えない武器を持って、さっきより強くなった俺に勝てるつもりか?」
男はニヤニヤと笑っているが、不思議と俺を嘲る様子はない。先ほどよりも強い視線で俺を睨みつけている。
「まさか、勝てるなんて思ってないよ。勝てるわけがない」
けど、と俺は後ろを振り返る。鬼倉が苦しそうな悲しそうな表情で俺を見上げている。俺は小さく微笑んでから前を向く。
「好きな子を見捨てて、逃げれるわけないだろ?」
そう言って俺はニヤリと笑った。
恐怖心はあったが、自然と笑みが浮かんだ。ボコボコにされて女の子に守られた後だが、今の状況は男が女の子を守っているところだ。物語であれば見せ場だ。ちょっとくらい格好つけてもいいだろう。
そんなことを考えているとまた笑みが浮かんできたが、気を引き締めて刀を構える。
鞘から抜き放つように、刀を、手の中で滑らせ、円を描くように男へ向ける。それと同時に右足を一歩前に出し、左のつま先に重心を残す。柄を左手に持ち替え、右手を添える。切っ先は相手の喉元にまっすぐ向ける。ゆっくりと呼吸をし、相手の体全体をじっと見据える。
試合の時のように目の前の相手にだけ集中し、周りの景色も音も遠く感じる。紛うことない命の取り合いの緊張は試合の比ではないが、体は動く。背負っているのは自分の命だけではない。勝てる気はしない。けれど必ず生き残る。
「来いっ!」
刀を腰に引きつけ突きの構えを取り、再び強く睨みつける。
男は歯をむき出した笑みでそれに応え、一歩足を踏み出す。ゆっくりとした足取りが徐々に速くなり、ものすごい勢いで迫ってくる。
驚くような速さだが、今はその動きがよく見えた。大きく振り上げられた手は、どこを狙っているのかを隠そうともしていない。大上段から袈裟掛け。
間合いに入った瞬間降り下されるそれを、受けることはもちろん、避けることもできない。どう逃げてもナイフの餌食となるだろう。
横にも後ろにも逃げ道はない。
ならば前に出るしかない。
男が間合いに入りナイフを振り下す直前、体を捻りながら大きく足を踏み出す。
刀を後ろに大きく引きつける。
右足が地面を叩くその瞬間に、体を捻り刀を前へ、全身の回転を刀に乗せる。
踏み込みで体が沈みこみ、下へと向かう力を前方への力へと向きを変える。
飛び出し、回転、踏み込み。その全ての力を突きの力へと集約し、限界までため込んだ力が、刀を弾きだす。
眼前まで迫っていたナイフの下をかいくぐり、刀を男の体の中心へ。
男が体を捻り、肩を切り裂く。
苦悶の表情を浮かべる男。
刀は振り上げたまま。
すぐさま引き下ろす。男を肩から袈裟に切り裂く。
衝撃を受け男が遠ざかる。
気づけば地面に転がっていた。傷を与えたからか、二度目だからか、痛みには何とか耐えることができている。
「守屋くん! 大丈夫っ!?」
倒れている俺のそばに鬼倉がやってくる。どうやら動けるまでには回復したようだ。
「何とかね……それよりあいつは……?」
耐えられてはいるが痛みは酷い。少し体を動かすだけでも泣きそうなくらいの痛みが襲ってくる。どこか骨でも折れているのだろう。
しかしそれよりも男の様子が気になる。俺の渾身の突きも袈裟斬りも、かすり傷程度の傷しか与えられていない。すぐにでも襲ってきそうなくらいだ。
「心配しないで。もう大丈夫」
その鬼倉の言葉に何とか視線を向けると、苦悶の表情と脂汗を浮かべる男がいた。今にも崩れ落ちそうで、酷く肩を上下させながら何とか踏みとどまっているように見える。
「吸血鬼はね、銀にだけ反応する極端な金属アレルギーを持っているの。あの刀は、切った吸血鬼の体内に銀を注入する仕組みになっているの」
つまり今あの男は体中で銀アレルギーが起こっている最中なのだそうだ。
なんでも吸血鬼は銀に触れただけでも肌が赤くなり、長時間触れていると爛れてくるらしい。体内に銀が入れば体中で内出血が起きるなどして、かなり苦しいようだ。
「あんな風になれば、さっきまでの力は出せない。今なら私が止めてる間に逃げれる」
男の苦しみ様と鬼倉の言葉で何とかなりそうだと思った矢先、鬼倉に言葉でズッと気分が沈みこむ。男があんな状態になっても2人で逃げることはできないのか。鬼倉は1人で戦ってちゃんと生き残るつもりなのか。俺を逃がすために犠牲になるつもりなのか。
「鬼倉さんが1人で戦えば、あいつに勝てるの? ちゃんと生きて帰ってこれるの?」
情けない俺の懇願めいた問いに、鬼倉はうつむいて言葉を濁す。どうやら刺し違えるくらいの気持ちでいるようだ。
「鬼倉さんを残して逃げるなんて無理だ。例え2人とも殺されるとしても」
殺されるのはもちろんいやだが、鬼倉を見殺しにすれば後悔しか残らない。例え自己満足でも、彼女を置いてここから逃げる選択肢はない。
「お願い、逃げて! 私だって死にたくない! けど、守屋くんには生きててほしい!」
鬼倉は寂しさや苛立ちの入り混ざった複雑な表情で悲痛な叫びをあげる。胸が締め付けられる。
「私も2人で生きたい! けど血を飲んだ吸血鬼は、銀で攻撃されても、ただの吸血鬼よりも強い。今の私じゃ足止めが精いっぱいなの……」
鬼倉は懇願するように俺に言い聞かせる。自分だけでも逃げてくれと。しかしそんな鬼倉の哀願をよそに、俺はあることに思い至った。
あの男は血を飲むことで吸血鬼の力を大きくした。それなら鬼倉はどうなのだろうか。吸血鬼である彼女もまた、血を飲めばその力を大きくすることができるのではないだろうか。あの男も、鬼倉が血を飲めば少しは相手になると言っていたのだから。
「鬼倉さんも、血を飲めば、あいつに勝てるくらい強くなる?」
鬼倉の目が大きく開かれる。そんなに驚くことだろうか。彼女にとってあり得ない選択肢だったのか。それとも人間が血を飲めと言うとは思いもしなかったのだろうか。
「どちらかが犠牲になるなんてばかげてる。足掻いて、もがいて、2人で生き残ろう!」
ほとんど動かない手を何とか動かし、強引にボタンを外し首回りをはだけさせる。
「で、でも……血を吸ったら、私は、本当に吸血鬼になっちゃう……」
血を飲まないのが、人としての鬼倉の矜持だ。しかしそれにこだわり2人の命を失うのは間違っているように思う。何より、鬼倉が血を飲もうが飲もまいが俺には関係ない。
「例え人の血を飲んでも、鬼倉さんは鬼倉さんだ。吸血鬼だとか人の血を飲むとか、そんなことは関係ない。また2人で、放課後に話したり一緒に帰ったりしたいんだ」
放課後の誰もいない教室で話し、2人で一緒に下校する。その楽しい時間は鬼倉が何であるかは関係ない。人であっても吸血鬼であっても、鬼倉だったから、楽しくかけがえのない時間だったのだ。
「それに、鬼倉さんにだったら、血を吸われてみたいな、なんて……」
ふと、殺人事件が教室を騒がせた時の、馬鹿な男子のセリフが思い出された。その時は本当に馬鹿だと思ったが、今であればそう馬鹿に出来たものではなかった。
事実、鬼倉であれば血を吸われてもいい。それこそ死ぬまで吸いつくされても。
「本当に……?」
鬼倉の目に驚きと共に喜色が浮かんでいる。もしかしたら飢色も浮かんでいるのかもしれない。
「遠慮なくどーぞ」
体は痛いし、血を吸われるのが怖くないわけではないので、精いっぱいの強がった笑顔を見せる。
鬼倉の喉が鳴るのがわかった。
鬼倉は俺を抱き起こし、首筋を冷たい指で優しく撫でる。ゾワリとした感覚が背筋を走る。指で服を押させ、首筋に顔を近づけてくる。
鬼倉の吐息が首筋に当たる。なんだか妙に熱く感じる。その熱さが強くなるたびに、俺の鼓動は速くなっていく。
首に鬼倉の柔らかな唇が押しあてられる。すぐに歯が当たるのかと思っていたため、予想外の感触に動揺してしまう。その動揺を知ってか知らずか、なかなか唇が離れない。それどころか何やら吸いつく感触がする。完全に首にキスをされている形だ。
更に首をヌルリとした感触が撫でていく。唇で吸いつきながら舌を這わせている。背筋がゾクゾクし、鼓動が先ほどよりもどんどん速くなっていく。
ついに唇が離れ、硬い感触が首筋に当たる。肌を押す力が強くなり段々痛みを感じてくる。
指を針で刺した時のような感覚に体が一瞬こわばり、その後に熱さに似た痛みが広がっていく。首筋が熱を持ちじわじわと痛みが強くなる。
牙が抜かれ、吸いつきながら舌が傷口の周りを這う。時には牙の痕に舌先が入り、ズキリと痛みが走る。痛みと艶めかしい感触、耳元の淫靡な音に頭が痺れそうになる。
唇の離れる音と、首を撫でる風の感触に、意識が鮮明になる。見上げると恍惚とした鬼倉の顔がすぐ近くにあった。
「もう大丈夫。すぐに終わらせてくるね」
そっと俺を下し、口の端の血を舐め取りながら、男へと向かっていく。手にはいつの間にか刀が握られている。
「くそがっ……! 絶対にぶっ殺してやる……!」
男がギラギラとした目でこちらを睨みつけている。銀のダメージの回復に時間がかかったのか、それとも俺たちのやり取りはそれほど時間がかかっていないのだろうか。男は鬼倉の変化に気付いた様子はない。
「どうあっても組織の下に来る気はないのね」
「当たり前だぁ! そうなるくらいなら、少しでもお前らを殺して、戦って死んでやるよ!」
鬼倉の問に、間髪いれずに男は叫ぶ。組織とは何だろうか。あの男は、その組織に何か恨みでもあるのだろうか。
「そう。ならここで死んでもらうわ」
鬼倉は一瞬だけ目を伏せ、すぐさま男に向かって走り出した。あっという間にその距離を詰め、刀を構える。その速度は血を飲んだ男以上に思えた。
振り上げられた刀は男の首へと向かうが、男がナイフを押しこみ防ごうとする。ナイフは難なく弾かれ、双方腕を大きく振り上げた形で対峙する。
刀が一瞬で降り下され、男が袈裟に切り裂かれる。肩から斜めにずり落ち、男の体が二つに分かれた。
首から下を斜めに切られ、頭と右腕だけになった男は、吸血鬼の生命力故かまだすぐには死にそうにはなかった。しかしまだ足掻きそうだったところ、白刃が眉間を貫いた。そこで男は目を見開いたまま動かなくなった。
散々と俺たちを苦しめた男だったが、終わりは何ともあっけないものだった。
男が死んだことに安堵したのか急に意識が遠のいていく。曖昧な意識の中、鬼倉の名前を呼び、震える手を伸ばした。
冷たく柔らかな感触に包まれ、鬼倉の笑顔を最後に意識が途絶えた。
・・・
その後、公園で意識を失った俺は、気づけば病院のベッドで眠っていた。鬼倉ゆかりの、つまりは『組織』の運営する病院で、治療を受けていた。
組織とは、人間社会で人間と共存することを決めた吸血鬼の集まりで、日本全国に支部があり、政府ともつながりのある大きな団体だそうだ。
鬼倉は吸血鬼と人間のハーフであり、孤児として組織で育てられてきたらしい。人間として生活する傍ら、組織に属さない吸血鬼の捜索と説得、やむを得ない場合は殺害を行ってきたようだ。
どれも全治一カ月ほどの怪我を負った俺のお見舞いに来てくれた鬼倉が教えてくれたものだ。政府にもつながりのある吸血鬼の組織があることには驚いたし、鬼倉が危ないことをしているのは心配でならなかった。
しかし、今は鬼倉がほぼ毎日といっていいほどお見舞いに来てくれることが何よりうれしかった。一度は俺ともう会わないと言った彼女が、今でもこうして俺と会ってくれていることが本当にうれしい。
死ぬほど痛い思いをしたが、戦ってよかったと思える。自惚れではなく俺の一撃がなければあの男に殺されていただろう。奇跡的な一撃だったが、あれのおかげで今も鬼倉と一緒にいることができている。あそこで逃げなくて本当によかった。
そんな俺たちだが、あの日からその関係が少し変わった。いや、少しではない。俺にとってみれば大きな変化だ。
「徹くん、気分はどう?」
今日も鬼倉がお見舞いに来てくれた。初めの頃は俺を巻き込んでしまったことを責任に感じ少し暗かったが、今ではとても明るい表情を見せてくれる。
「だいぶ良くなったよ、美佳ちゃん」
ベッドの上で体を起こし、鬼倉に笑顔を向ける。
そう、お互いに名前で呼び合う関係に、更に言えば恋人の関係になったのだ。怪我で病室を出られないのは退屈だが、こうして彼女と2人で会えるのだから嬉しさの方が勝つ。
あれから鬼倉は人としての学生生活に戻ったが、学校以外の時間は俺の病室で過ごしている。この病院は組織の運営であるため、鬼倉に面会時間の制限はない。なので大半の時間を俺たちは2人で過ごしている。そうしている内に、俺が告白し恋人として付き合うこととなった。
もう入院から2週間以上が経ち、ゆっくりとであれば自分の足で歩けるようにまで回復した。目が覚めた時はまともに体も起こせなかったので、十分回復した方だろう。
「顔色も良くなって、もう元気そうだね」
俺が元気になるたびに鬼倉も元気になっているように思う。やはりまだ責任を感じているのだろう。俺からすれば自業自得で気にする必要はないのだけれど。
鬼倉はベッドのそばの丸椅子に俺と向き合うように座る。決まった話題はないが、お互いの昔のことやこれからのことをポツポツと話し、会話が途切れるとお互いに見つめあい、恥ずかしくなって目を逸らすなんてことを繰り返している。
そんな時ふとある疑問が浮かんだ。と言いつつも前々から気になっていたことだ。
「吸血鬼は人の血を美味しく感じるって聞いたけど、俺の血はどうだった?」
あの男が本当のことを言っていたかは分からない。ただそうであるなら、俺の血を美味しく感じていて欲しかった。鬼倉が望めば、死なない程度にはいくらでもあげるつもりもあるのだから。
「えっ、とぉ……」
鬼倉は頬を染め、視線を逸らせて俯いてしまう。これは良い答えが聞けそうだ。しかし恥ずかしいのかなかなか口を開こうとはしない。
「もしかして不味かった……?」
少し不安げな様子で尋ねると、鬼倉はバッと顔を上げ大きく否定する。
「そんなことない! すごく美味し……かったよ……」
最後の方は消え入りそうな声だったが、どうやらお気に召したようだ。
「人によって美味しい、美味しくないとかあるの?」
人間には分からないだろうが、吸血鬼には吸血鬼なりのこだわりがあるのかも知れない。
「私は、徹くんが初めてだったから分からないけど、結構人によって違うみたい」
組織の中では戦いの前などに輸血用の血を支給されることがあるらしく、その中で旨い不味いや好き嫌いがあるようだ。
また吸血鬼は血を飲まなくても生きていけるが、まったく摂取しないと不調をきたすようだ。鬼倉がいつも病気がちに見えたのは、血をまったく飲んでいなかったことが原因のようだ。
「俺の血が美味しかったなら、いつでも飲んでいいよ」
俺の血を飲んでから鬼倉はかなり元気そうに見える。抜けるような肌の白さは変わらないが、病人のような青白さは薄れ、少し血色が良くなっている。学校のみんなも彼女を不気味がらずその魅力に気付いているだろう。
「それは、だめ。人から直接血を吸うのは禁止されてるから」
組織のルールというやつらしい。だが、そんなもの俺には関係ない。鬼倉が俺を吸い殺すことはないだろうし、例えそうなっても本望と言えば本望だ。好きな子の命となって死ねるのだから。
「でも健康のためとは言え不味い血なんて飲みたくないでしょ? それに俺は、俺以外の血を飲んで欲しくないな」
我ながら気持ち悪いと思うが、変な方向に独占欲が働いてしまっている。しかし、輸血パックだとしても他の誰かの血を飲んでる姿を想像すると、イライラしてくるのも事実だ。
「本当は、俺の血はもう飲みたくないとか?」
もしそうだったとしたら悲しくて泣いてしまいそうだ。
「そんなことっ……ないよ」
どうやら杞憂であったようだ。ついでに彼女の視線が俺の首に一瞬注がれたのを俺は見逃さなかった。
「じゃあさ、今から飲む?」
俺はパジャマのボタンを開け、肩まで肌を露出させる。鬼倉の視線が釘付けになっている。首筋に痛いほど感じる視線に、狩られる獲物になった気分だ。
「どうぞ、おいで」
両手を広げて彼女を誘う。しばらく理性と本能の葛藤があったのかじっとしていたが、ついに覚悟を決め、いそいそと俺の腕の中へとやってきた。
膝の上に座り肩に手を添えて、首筋にそっとキスをする。優しく吸いつきながら舌を這わし肌を撫でていく。
腕を背中に回し顔をうずめるように、強く唇を押しあて甘噛みをするように血管をなぞる。
病室に口づけの淫靡な音が響く。ゾクゾクとした快感を感じながら彼女を抱きしめる。
長い口づけの末に、彼女の牙が首に突き立てられる。
ズキリとした鋭い痛みが、熱を伴って広がる。
意識は鮮明で、痛みも、快感もはっきりと感じられる。
牙が引き抜かれ、より強く唇が吸いつく。舌が傷跡をなぞり傷口へ舌先が押し込まれる。体の内側を撫でられる感覚に、彼女を強く抱きしめる。痛みに声を上げないよう、歯を食いしばる。
長く傷口を弄られ、痛みの感覚が薄れてくる。
彼女の唇と舌の感覚だけがはっきりと感じられ、快感で頭が痺れている。
長い彼女の口づけが終わると、一瞬虚脱感に襲われる。
大きく息をつき、唇を舐める彼女に目を向ける。
恍惚とした表情で妖艶な笑みを浮かべる彼女を抱き寄せる。
真っ赤な彼女の唇にそっと唇を重ねる。
それは、鉄錆と甘い香りの、彼女の紅い口づけ。
初投稿の拙作、最期までお読みいただきありがとうございます。
これから少しずつ投稿していくつもりです。
お暇な時にでも、目を通して頂ければ幸いです。
これからもよろしくお願いいたします。