速読のクスリ
廊下を歩いていく生徒たちはなんだかだるそうで、五日前に終わった夏休みをまだ惜しんでいるように見える。
私も夏休みが明けた直後は『学校が突然、消えちゃえばいいのに』なんて考えていたのだけど。
ここ数日は違う。
最近は学校の図書室に通い詰めている。
もはや学校ではなく図書室目当てに来ていると言っても過言ではない。
図書室に入るとドアの近くにある本棚に近づき、適当な本を取り出す。
本のタイトルは『脱サラしてラーメン屋に。今はオカマバーを経営している男の人生相談』だった。なんだそれ。ってゆーか高校の図書室に置く本なのかな。
とりあえずそれを読むふりをして、ちらりと視線を右に移動させる。
少し離れたところに棚から本を取り出している男子が一人。
中性的なイケメンですらりとした長身で、名前は星川龍之介。一年三組で八月二十九日生まれの十六歳。私が彼について知っている情報はそれだけだ。
こっそりと『図書室の王子様』と呼んでいる。本人の前で呼ばないように気をつけよう。
私が彼を観察している間に、図書室の王子様は本を持って椅子のあるほうへ移動してしまった。
……というわけで、棚と棚の間から王子(長いから省略)を眺めて至福の時を過ごすことにする。
本を読んでいる姿がものすごく絵になるなあ。
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そもそも王子と出会ったのは、私の担任教師の一言がキッカケだった。
『読書感想文も忘れたの?! 高校生活初めての夏休みだから浮かれるのも分かるんだけどね』
担任教師はそう言うと、何十年も前も自分の高校時代の夏休みの話を始めた。
ちょうどバブル全盛期でね、社会人からナンパされてね、と意気揚々と語り出すのを止めて、私は尋ねた。
『で、結局、何の用事なんですか?』
『なんでそんなに苦虫を噛み潰したような顔をしてるのよ。その顔はこっちがしたいくらい』
やれやれと担任は額に手を当ててから、こう続けた。
『とりあえず、読書感想文を書いて提出して。期限はそうね、二週間あげるわ。どうせ本も選んでないんだろうから今日は図書室で読めそうな本を選んで借りて帰りなさい』
『はーい!』
『あ! 絵本禁止ね!』
『なんで分かったんですか?! 先生エスパー?』
私の言葉に担任は大きな大きなため息をついた。絵本がダメなら挿絵が多い本を選ぼう。
こうして私は図書室へ行き、一人窓辺で本を読んでいる王子と出会うのであった。
これがちょうど五日前の出来事。
それ以来、図書室に通いつめては王子を眺めている。
でも、今日になって私は不満を感じるようになった。
眺めるだけじゃ物足りない。話しかけたい。同じクラスならともかく、クラスが別でおまけに私は待ってても相手から声をかけられる美少女じゃない。
だから、こちらからどんどん攻めないとイケメンはすぐに美少女にかっさらわれてしまう。
今は接点が『同じ高校の同じ学年』ということだけだけれど、これから接点を増やすことはできる。
王子の趣味らしきもので分かっているのは本が好きだということ。
彼が本を借りて帰らないのは、読むのがやたらと早いからだと思う。図書室で読むだけで事足りてしまうのだ。
三十分で一冊は読んでいる。絵本じゃなくてハードカバーの分厚いやつ。
だから、そんな速読王子に近づくには、私も速読になるしか道はない。
その日の帰り道は私は速読の方法を考えていた。
でも、考えても分からない。そもそも私は本を読むことが好きじゃない。むしろ嫌い。これは致命的だ。
なんだか王子と自分の距離がどんどん離れていくように感じる。もともと近づいてはいないけれど。
ため息をついたところで、用事があったことを思い出す。
そういえばシャンプーが切れていたんだっけ。
目の前にタイミング良くドラッグストアがあったので、そこで購入することにした。こんなところにドラッグストアなんてあったかな? まあいいか。
私は速読の方法を考えつつ、店内に入る。
店に入ってすぐにポスターが目に飛び込んできた。
『読書の秋ですね。でも、本を読む時間がない。そんなあなたに良い薬があります』
ポスターの下に平積みされていた薬にはこう書かれてある。
「スグヨメール?」
私は薬の箱を手に取って、薬の名前を声に出して読んでみた。なんてまぬけな名前。
名前はまぬけだけれど、速読ができるようになる薬らしい。一錠飲むだけで劇的に速く読めるようになるとか。
なんとも胡散臭いし、薬で速読ができるようになるなら誰も苦労しないだろう。
私はそう思って、薬を棚に戻した。
その場から去ろうとして、ふと浮かんだのは王子の顔。
三秒だけ考えてから結論を出した。
そして、私は買い物を終えてドラッグストアを出た。袋にはシャンプーと薬。
家に帰ると、早速、『スグヨメール』を一錠飲んでみた。
それから父の部屋から持ち出した本を読んでみる。
ちょっと速くなったかなー? くらいの速度だ。まったく効果がないと思っていたから効果があることには驚きだ。
でも、これじゃあ速読には程遠い。一錠じゃダメなのかなあ。
もう一錠飲もうと思って、箱の注意書きを読んでみる。
あなたの成長に影響が出る可能性があるので、大量に服用または長期間服用をしないでください。
プラス二錠は大量じゃないよね。うん。一回三錠まで服用しても良いみたいだし三錠飲んじゃおうかな。よし、いっちゃえ! 女は度胸!
私はえいっと二錠を口に入れ、水で流し込んだ。
「す、すごい!」
私は今、ものすごく感動している。
なぜなら、父の部屋にあった四百ページの小説を三時間で読めたのだから。カバディと写経が趣味の作家がスキップだけでエベレスト登頂に成功したノンフィクションなんて興味ないのに三時間で読破!
これはいいペース。興味のあるジャンルだったら、もっと速く読めそう。
明日は図書室で本を借りてこよう。そして王子をじっくり眺めて、ついでに読書感想文用の本も読んじゃおう。
なんだかやる気が出てきた! 恋も読書感想文も今ならうまいくいく気がする。
私の青春はいま始まったばかりだ!
次の日の放課後に図書室へ行くと王子がいた。
いたのだけれど……。
私はうーんと首を傾げた。
王子は、いつものように本を読んでいる。でも、なにかが違う。
じーっと彼を観察していたら、王子が立ち上がったのでようやく分かった。
背が伸びたんだ!
そうだよね。成長期だもんねー。イケメンにさらに磨きがかかるねー。
私は納得して、読書感想文用の本を借りた。ちなみに借りたのは『実録! 嫁VS姑の終わらないバトル』という本。実録ってところに惹かれた。
今日も家に帰ると、薬を三錠飲んだ。
すると今日は一時間で読破できた。昨日よりも速くなってる。薬に加えて好きなジャンルだから余計に速くなったのかもしれない。
でも、読書感想文は全然、進まない。嫁姑バトルからひたすら無関心を貫いていた夫の悪口を書けば三枚くらいなら余裕だけど、それじゃあ感想じゃないしなあ。
とりあえず感想文は明日にしよう。
「あら。なんだか背が伸びたわね」
次の日の朝。
母にそう言われて気づいたのだけれど少し背が伸びていた。
私は背が伸びてもあんまり嬉しくない。だって既に百六十センチあるのだからもういい。止まってよし。
あ。でも、王子も背が伸びていたっけ。何だかおそろいみたいで嬉しいな。
私はスキップをしたい気持ちで放課後の廊下を歩く。
今日のミッションは、王子が読んでいる本を読破することだ。彼のさわった本を触りたい……という不純な動機ではない!
王子のことをもっと知るためには同じ本を読むのが手っ取り早いと考えたから。別に王子の触った本にさわりたいわけじゃない!
図書室に行くと、王子が以前、読んでいた本を手に取る。こっそりタイトルをチェックしておいて良かった。
ふと王子の方を盗み見ると、なんだかいつもと違って見える。
妙に大人っぽい顔つきになった気がするなあ。でもイケメンは変わらないなあ。
じっと彼の顔を見ていたら、こちらの気配に気づいたのか顔を動かそうとしたので慌てて棚の後ろに隠れる。
バクバクする心臓を抑えながら思う。昨日の今日で顔なんて変わらないよね。
そう結論を下して、王子が借りていた本を手に家に帰った。
王子が読んでいた本は恋愛小説だった。
『余命三ヶ月くらいのエイリアン ~触覚まで愛して~』というタイトルの本。
すごく意外だけれど、これなら私もすらすら読めそう。
……と思ったのが間違いだった。今日も薬を三錠飲んで、読破したのは三時間。
なぜこんなに時間がかかったのかというと、つまらなかったからだ。
余命三ヶ月だと宣告された主人公が、手術でエイリアンに改造されて永遠にも近い寿命を与えられるものの、その化け物のような容姿に彼氏が戸惑い、ケンカし、すれ違い、結果的に二人が結婚する話だ。
「なにこれすごくつまんなかった!」
私は本を睨みつけ、ため息をついた。王子はこれにどんな感想を抱いたんだろう。
あ! そうだ。明日聞いてみよう。話しかけてみよう!
うん。これはチャンスだよ。同じ本を読んだ者同士、きっと話が弾む、と思う。
私はその日の夜は王子との会話のシュミレーションを繰り返した。気づけば深夜二時を過ぎていて慌ててベッドにもぐる。
明日は、絶対に話しかけるんだ。明日、話しかけられなかったら明後日にしよう。明後日がダメなら、まあ、三日以内にはなんとかしたい。
次の日の放課後。
手のひらに「人」という字を三回書いてそれを飲み込んでから、図書室のドアを開けると王子がいなかった。
今日はお休みなのかな。それとも用事があって来られないのかな。
ガッカリしたような。安心したような。
そんな気持ちでいると、本棚から本を取り出している人がいた。
その横顔は王子に似ていたけれど、王子ではない。
彼の年の離れた兄だというなら納得できるけれど、別人だ。
でも、それにしては王子に似ている。
私は何気なく王子(兄?)の上履きを見た。つま先が青で、おまけに油性マジック『星野』と苗字が書かれてあった。
一年生で星野という苗字の、図書室にいる男子といえば、一人しかいない。
でも、顔が……違うんだけど。突然の整形?
私が悩んでいると、王子(整形疑惑)は二冊の本を持って椅子に座った。
棚の隙間から整形疑惑(王子?)を盗み見すると、本のタイトルが見える。
そこで私は「あ!」と叫びそうになって自分の口を慌ててふさいだ。
本のタイトルは『余命三ヶ月くらいのエイリアン ~ハネムーンが星間戦争に?~』だったから。
あれは例の『余命三ヶ月くらいのエイリアン ~触覚まで愛して~』の二作目だ。
二作目もあるんだ、じゃなくて。
王子の見た目がなんであんなに変わっているのかが分からない。
整形じゃないと思う。だってイケメンだし。それとも実は重大事件に巻き込まれて顔を変えなくてはいけないとか。
いや、そんなはずはない。もし、そうならのこのこと学校に来てる場合じゃない。
王子の顔は、成長したからというわけじゃなく明らかに老けたと言える。
一日でこんなに人の外見って変わるものなの?!
私がそんなことを考えていると、王子が横を通り過ぎていく。
声をかけようかどうか迷っていたら、王子がブレザーのポケットからスマホを取り出した。
その拍子にポケットの中から、何かが落ちる。
床に落ちたものを王子は素早く拾いあげて、図書室を逃げるように出て行った。
私は家に帰ると自室にこもって、机の上に置いた『スグヨメール』を眺める。
王子が図書室で落としたのは、この薬の箱だった。
彼もこの薬を飲んでいるんだ。
おそろいで嬉しい反面、嫌な想像がよぎる。
王子の背が急に伸びたり、顔が大人っぽくなったりしたのは、この薬のせいかもしれない。
あなたの成長に影響が出る可能性があるので、大量に服用または長期間服用をしないでください。
この注意書きが『急激に成長を促す可能性がある』という意味だとしたら……。
私は考えに考えた結果、この薬の製造販売元であるA製薬会社に電話をかけて問い合わせることにした。
電話をかけてみると、サポートセンターにつながり、用件を伝えると『少々お待ちください』と言われる。
なんで保留音が『天国と地獄』なの……。笑えないって。
間の抜けた『天国と地獄を』聞きながら、私は膝を抱える。
このまま、どうなるんだろう。製薬会社の人はこういう事態を想定していなかったら。想定していたとしても、『自己責任でお願いしますよー』とか言われて取り合ってくれなかったら……。
そんなことを考えていたら、ようやくオペレーターの人につながる。
『スグヨメール』のことついて話すと、オペレーターは後日こちらからかけ直します、と告げてきた。なんでもこの薬に詳しい人に折り返し電話させるそうだ。
じゃあもっと早く言ってよ。
電話を待つべく自室で膝を抱えたままでいると、自分の髪の毛が視界の隅に見えた。
そこには何本か白髪が混じっている。
私は鏡で自分の顔をよくよく眺めてみた。
王子は老けてしまったけれど、私は以前より大人びた顔になった。
気のせいなどではなく、ハッキリと顔つきが変わったのだ。
この外見なら、二十歳くらいに見られてもおかしくない。
こんなに急激に成長するなんてやっぱりおかしい。病院に行くべきだろうか。
でも、両親はあいにく今日から一週間、家を留守にしている。親戚の結婚式のついでに二人で旅行もしてくるそうだ。
「のんきだなあ」
そう呟いた途端、両親の笑顔が浮かぶ。母とよく行くスーパーで一緒に献立を考えたこと。父のオセロに深夜まで付き合わされたこと。なんでもない日常が走馬灯のように浮かぶ。
鼻の奥がつーんとして、涙が溢れる。
このまま、どうなるんだろう。
人よりもずっと早く老けていくの?
もし、老ける速度が上がって、数年でおばあさんになったら?
そうならない保証もない。
いやだ。私は高校生になったばかりなのに。
速読にならなくても、恋愛も叶わなくてもいいから。
退屈でも学校に行って、家に帰って、テレビ観たりゲームしたりゴロゴロしたり、そんななんでもない日常が送りたい。
ただ、それだけでいい。
なんで私は速読をしようと思ったんだろう。
なんであの薬に手を出してしまったのだろう。
薬を飲まなければ、こんなことにはならなかったのに。
ふと視界に入る白髪。
でも、もう遅いんだ。
私が膝に顔をうずめたところで、自宅の電話が鳴った。
電話はA製薬会社の人だった。
どうやら『スグヨメール』の担当部署の人が、家まで薬を届けに来てくれるらしい。
その薬は、成長し過ぎた体を元の年齢に戻す薬だそうだ。
まるで魔法のような話だけれど、『スグヨメール』で私はやけに成長してしまった。だから元に戻る薬があっても、もう驚かない。
どちらにしても、元に戻れるならこんなにうれしい。
でも、まだ不安は拭えないけれど。
A製薬会社の人は一時間ほどで家に来た。
私が事情を説明すると、製薬会社の人はこう言う。
「また学生さんなんですね。大丈夫ですよ。たまーにいるんです。うちの薬で副作用が出ちゃう人って」
その言葉が少し引っかかったものの、製薬会社の人が気さくな雰囲気の女性だったのでなんとなくホッとした。
「それでは、この青いカプセルを二錠飲んでください」
女性はそう言って手のひらの上に乗せたカプセルをこちらに差し出す。
「あの、今、ですか?」
私の言葉に女性は「はい。そうです」と答える。
青いカプセルはやけに鮮やかで、これが毒で製薬会社の秘密を知った私は殺されるのでは? と考えてしまう。
でも、これを飲まないと元には戻らないんだよね。このままどんどん老けるかもしれない恐怖に怯えるよりは飲んだほうがずっといい。
私は意を決して青いカプセルを飲んだ。
「元に戻ることはできるのですが、薬の副作用でここ一週間から十日ほどの記憶に影響が出ます。ただ、それ以外に副作用はありません」
飲みこんでから製薬会社の人がそう説明してきた。
遅い。遅いけれど、戻れるのならいいや。
そう思った途端、強い眠気に襲われた。
@
目を覚ますと、そこは自室のベッドではなかった。
「あれ……。なんで私、玄関で寝てるの?」
ぼんやりとする頭で記憶を手繰り寄せてみる。
そういえば、昨日は友だちと夜遅くまでカラオケしてたっけ。昨日と今日は父は出張で母は実家に帰っているから、遅くなっても怒られることはないし。
「だからってこんなところで寝るほどはしゃぐなって話だよねー」
私はそう言うと、ハッとした。
そういえば昨日は八月三十一日。
「今日、始業式じゃん!」
私は光の速さで自室に戻り、そして着替えると家を出た。
学校へ向かっていたら、お腹がぐううと鳴りだす。
朝食抜きはやっぱりキツイ。昨日はカラオケに夢中で夜はまともに食べてないんだよね。
でも通学路にコンビニってないんだよなあ。コンビニに寄ると遠回りになるしなあ。
そんなことを考えていたら、すぐそばにドラッグストアがあった。こんなところにあったかなあ。
まあいいや。ドラッグストアならパンも飲み物も売ってる。
私は迷わず店内へと入った。
中に入ってすぐに目に飛び込んできたのは、ポスターだった。
「速読ができるようになる『スグヨメール』か。胡散臭いなあ」
私はそう言って、怪しげな薬売り場から離れて、食品売り場のコーナーへ向かう。
パンを買い、レジへ向かう途中で足を止める。
『スグヨメール』という商品名がやけに引っ掛るなあ。なんでだろう。
考えてみるけれど、引っ掛りの正体が……あ! そうだ。
そういえば、夏休みの読書感想文の宿題、まだやってなかったな。本すら読んでないっけ。
私は少しだけ考えてから出入り口の近くへ戻ると、薬を手に取った。
<了>