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かしこまりました、社長様  作者: じゅり
― 本編 ―
31/57

31.松宮財閥、松宮千豊の助け船

 夜の七時頃、会社を出てすぐだった。


「そこの可愛い彼女ー、ちょっとお茶しない?」


 背後からいかにもナンパな声を掛けられる。私はそこの可愛い彼女という名前ではない。と言うことで、よし、無視だ。そう思って振り返らずに歩こうとすると、その声の主は数歩後ろにいたようですぐに追いついた。そして彼は苦笑を零すと私の肩に手を掛けた。


「木津川さん、無視するなんて酷いな」

「え?」


 振り返るとそこに立っていたのは鷹見一樹社長だった。


「……鷹見社長、お久しぶりですね。お仕事帰りですか」


 私がそう言うと、彼は少し眉をひそめた。


「お久しぶり? この間の日曜日も会ったよね」

「え?」


 記憶を失っていた期間に会っていたようだ……と言うことにしておこう。本当は覚えているのだけど。ええ、家の前まで押しかけて来て、言葉巧みに車で連れ去られた事まで克明に覚えておりますよ。


「すみません。最近、頭を打って記憶を失ってしまったみたいなんです」

「え? 大丈夫なのかい?」

「ええ、ありがとうございます。検査に異常はありませんし、生活にほとんど支障はきたしておりませんので」

「そう、良かった。じゃあ、行こうか」

「……はい?」


 今度は私が眉をひそめる番だ。


「それも覚えていないか。前回会った時、ザッハトルテの美味しいお店に連れて行くと約束したんだけどな」

「ザッハトルテは食べた……」


 そこまで言って、はっとした。


「木津川さん、記憶失ったとか嘘だね?」


 ちっ。初歩的な引っかけで見事に躓いてしまったではないか。こういう時ばかりは自分のスイーツ脳が恨めしい。

 私はため息を吐いた。


「いえ、頭を打って一部分の記憶を失ったのは嘘ではありません」

「へぇ、そうなの? でも日曜日に会った事は覚えていたんだよね」

「……ええ」

「なぜ嘘吐いたのかな?」

「それは……」


 鷹見社長が恐いと言ったら笑われるだろうか。力で抑えられる恐怖の一方、甘い誘いで脳内を麻痺させられる。人は知らず知らずの内に鷹見社長に支配される事に心地よさを感じてしまうのではないだろうか。まさに飴と鞭の使い方が上手い人なのだろう。


 けれど一方で、いつの間にか自分の意見まで鷹見社長の良いようにねじ曲げられて、操られそうで恐い……と思う。


「頭を打った後遺症でしょうか」


 私はこめかみ辺りに手を当てた。


「なぜ咄嗟に嘘を吐いたのか、思い出せませんわ」

「へえ」


 鷹見社長は面白そうに口角を上げた。……やばい、この手の輩はマジでやばいです。逃げるが勝ちと見た。


「こ、これ以上、無礼な事を申してはいけませんので、失礼させて頂きますね。それでは」


 頭を下げて再び足を前に進めようとすると、腕をくいんと引かれて戻される。


「うーん。それでさよならするつもりはないんだけど。何を警戒しているのかな」


 警戒。私の態度を警戒と取ったか。まあ、そうなんですけどね。だったらいっそうの事、本能があなたに近付くなと言っておりますと言ってみるのはどうだろうか。いや、かえって鷹見社長を挑発するだけか。止めておこう。


「思ったんですけど、そもそも鷹見社長と違う社の社長秘書である私がプライベートで会う事は色々勘ぐられて良くない事かもしれないのかと」

「君の会社は交際禁止なのかい?」

「そう言うわけではないと思いますが」


 社長秘書としての立場はどうなのだろう。他の会社の人と交際していいものなの? でも社内恋愛こそ禁止だよね。秘書が会社内の事を恋人に漏らしてしまう可能性もあるだろうし。


 ……ん? あれあれ? じゃ、じゃあ、私って誰となら交際できるのでしょうか? 一度社長に確認してみなくては。それにしても交際相手まで上司にお伺いを立てなきゃいけない私の状況って一体何なのでしょうか。――いやいや、その前に、社長にまるで交際してくれる相手でもいるようだなと鼻で笑われそうだ。うわぁ、く、屈辱的。


 そこまで考えて、今は社長とそんな軽口を叩ける状況でもなかったと気付いて気落ちし、ため息を吐いた。もう帰ろう……。


「と言うわけで、失礼致しますね」

「こらこら。一人で何を納得したのか知らないけど、こちらの用件はまだ終わってないよ?」

「ああ、申し訳ございません。そう言えば結局の所、何のご用でしたか?」


 鷹見社長は苦笑する。


「だからお茶……いや、この時間だったらディナーかな」

「すみません。食欲がなくて」


 鷹見社長が行くような高級レストランやら高級料亭のコースとかに付き合うとか絶対無理ですから。その前にお財布が付いて行きたくないって泣きますから。


「君は精神的に負担が掛かると、食欲が落ちるタイプなんだね」

「え?」

「前に誘った時もそんな事を言っていたから」

「精神的負担?」


 小首を傾げると、鷹見社長はくすりと小さく笑った。


「顔に疲れが出ているよ」

「え、あ……」


 精神的ストレスか。確かに最近また体重が減ったかも知れない。夜も眠れない日もあったりするし、色々精神的に堪えているのだろうか。


「しっかり食べなきゃだめだよ。最近の女性はダイエットばかり叫ぶけど、女性はお肉が付いている方が良い」


 いや、すみません。私はダイエットしていませんし、だから私の胸を見て言うの、やめてもらっていいですか……。ちょっぴり泣きそうです。いいですか。女性はね、胸じゃないんですよ。そのお胸の奥にあるハートが大切なんです。ハートですよハート。――と詰め寄った所で虚しさが増すので止めておこうね、自分。


「じゃあ、そう言う事で……って、あれ」


 未だ鷹見社長の腕に掴まれていて身動き取れない。


「さっきから何、自己完結しているのかな」

「あら。私、お断りしていませんでしたっけ」

「してないね」

「そうでしたか。申し訳ございません。じゃあ、今日は遠慮させて頂きます」

「遠慮しないで」


 いや、一切遠慮してないな……。でもどうしよう。会社のすぐ近くだし、またここで一騒ぎさせる訳にはいかない。


「あ、あの。きょ、今日じゃなくて、別の日ならもしかしたら空いてなかったり、そうだったりするかもしれ――」

「そう言えば」


 鷹見社長は私の言葉を遮って、後ろを振り返る。


「君の職場って、この近くだっけ。……ああ、あのビルかな?」


 ぎくり。表情が強ばる。鷹見社長の顔を見上げると彼は微笑している。


「人目が気になるなら少し移動する?」


 はいと答えてもいいえと答えても、結果は私の負けのようだ。

 諦めて頷こうとした時。


「あれ? もしかして木津川?」


 その声に振り返るとそこに立っていたのは、鼻筋がすっと通り、意志の強そうな瞳と眉が印象的で、どこか手負いの獣を彷彿させるような野性的な男子学生。いや、今は角が取れた感じだけれど、学園で生活していた頃に色々協力してくれていた松宮千豊クンだった。


 大学生になって身長も伸び、顔つきも少し精悍になって頼りがいのある彼はまさに救いの神様ですーっ。


 振り返った時に既に緩んでいた鷹見社長の腕は解け、私は松宮君に飛びついた。


「わっ!?」

「松宮君、お久しぶりーっ。元気してたー?」

「お、おう」


 戸惑いながらも私を受け止めてくれる。


「……ごめん。お願い、助けて」


 ぼそりと呟いた声で私の行動に戸惑っていた彼はすぐに立ち直り、私を引きはがすと鷹見社長の方を見て会釈した。


「こんばんは、鷹見一樹社長」


 え。何ですと。お知り合いなの?


「君は……ああ、確か松宮財閥のご子息だっけ。ええっと」

「松宮千豊です」

「そう、千豊君だ」


 あ、そう言えば、松宮君も財閥家の息子だった。前に彼も跡取りとしての顔見せで色々パーティーに参加していると言っていたな。その中で鷹見社長とも会っているのかもしれない。


 鷹見社長の視線がこちらに移動する。


「へぇ。木津川さん、彼とも知り合いなんだ? 随分親しいみたいだね」

「え、ええ、まあ、はい」

「松宮財閥のご令息と瀬野財閥のご令息である瀬野貴之社長の秘書か。妙な取り合わせだね」


 しまった。松宮君に助けを頼んだのは藪蛇だったか。

 そう焦っていると、松宮君は不意に腕時計を見た。そして口を開く。


「お話し中、申し訳ありませんが」


 鷹見社長に一瞬だけ目をやって私に視線を移す。


「この後、悠貴の所に行くんだけど」


 い、今、悠貴と? 二宮と呼んでいた彼が悠貴さんの下の名前で呼ぶ仲になったとは! 何だか成長した我が子を見ているようで誇らしいです!

 キラキラした瞳で見ていたせいか、松宮君は訝しげな瞳を寄越しながらも言った。


「時間ある?」

「え?」

「たまたま会えて良かったよ。悠貴が木津川から借りたままにしているものを早く返さないといけないと気にしていたんだ。時間があるなら一緒に取りに来てくれ。結構急ぎの物なんだろう?」

「う、うん、そうねっ」


 貸した物なんてないけど、松宮君が考えてくれた言い訳なんだろう。ありきたりな言い訳だけど、鷹見社長にはそれが真実かどうかを確かめる術は無い。


「……へえ、そうなんだ?」


 鷹見社長がそう呟いた。私は振り向いて大きく頷いた。


「そ、そうなんですっ」

「じゃあ、車でそこまで送るよ。急ぎなんだよね?」


 うっ……。それ、は……。

 言葉に詰まる私の一方、松宮君はいいえと落ち着いた声で答えた。


「俺も車を待たせているので、うちの車で行きます。ありがとうございます」

「……なるほど。じゃあ、俺の出番はないようだ」


 良かった。引いてくれる。

 心の中でため息を吐いていたら、私の表情を読んだ鷹見社長が苦笑した。


「あからさまにほっとしないで欲しいな。俺でも傷つくよ」

「い、いえ。そ、そんな、つ、つもりでは」


 少しだけ罪悪感が生まれた。


「た、ただ今日は日が悪く……」

「じゃあ、また誘っていいかな?」


 そ、それもちょっと困ったりするわけで……。


「え、えと、そう――」

「次、また誘うね」

「は、はい……」


 鷹見社長の笑みで隠した無言の気迫に負けて頷いてしまった。


「じゃあ、木津川さん。お大事にね。松宮君もまた」

「ありがとうございます」

「ええ」


 それだけ残すと鷹見社長は去って行った。

 彼の姿が見えなくなって私はようやくため息を吐く。


「……ありがとぉ。松宮君。助かったわ」

「ん、ああ。何? またトラブルにでも巻き込まれているのか? それにお大事にって言っていたけど、どこか悪いのか?」

「あー。階段から落ちて頭を打ったらしくてね。ちょっとばかり記憶が飛んで……ははは」

「また!? ……おいおい、大丈夫かよ」


 松宮君は目を丸くした後、呆れたような表情を浮かべた。


「うん。今回はほんの一週間程度の記憶だから」

「そういう問題でもないけどな。その……色々大丈夫か?」


 聞いていいものかどうか迷っているようだ。さすが空気を読む松宮君だね。


「ね! 松宮君、これから時間ある? ご飯食べに行かない? 今のお礼にごちそうするわ。君が普段行くような高級レストランじゃないけどね」

「え?」


 松宮君は一瞬戸惑った表情を浮かべた。しかしすぐに頷いた。


「まあ、いいけど。あ、いや、別にごちそうしてもらわなくてもいいけど」

「じゃあ、決まりね。……あ、お家の車は? 待たせているんだよね?」

「いや、今日は歩きだから」

「そっか。機転が利くね! ありがとう。じゃあ、行きましょうか」

「ああ」


 そして私が先導し、歩き出した。

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