22.声が聞きたくて
本日は日曜日で午前中は掃除や洗濯を行って時間を潰したのだけれど、それが終わった途端することがなくて、落ち着かない。昨日は早紀子さんと会ったから良かったけれど、今日は午後まるまる空いてしまって、家にいるのに身体の置き場所がない。
以前、支社にいた頃は普通に休みを取っていたはずだ。あの頃の私は一体何をしていたのだろうか。友人と出かけたり、あるいは買い物に出かけていたりしたのかもしれない。けれど今は到底そんな気になれない。
不安を覚えて目についた仕事用の携帯を手に取る。そしてぎゅっと握りしめて無意識にかけた先は――。
「……どうした?」
一コールで繋がった相手は瀬野社長。
社長の落ち着いた低い声が耳に届いてはっと我に返る。いくらぼんやりしていたからって、私は一体どこに電話をかけていたのか。
「しゃ、社長!? い、いえっ。ま、間違えました」
「……間違い?」
不審そうな社長の声の背後から聞こえる人の声。社長は今、外にいるようだ。
「し、失礼致しました。ご予定があるとおっしゃっていたのに」
「いや、それは――」
「そ、それでは失礼致します」
「あ、おい――」
最後社長が何か言おうとしていたのに、思わず切ってしまった。ホント最低だ、私。社長の邪魔までして、何をやっているんだろう……。
社長の声を聞かないと落ち着かないだなんて、まるで、まるで――。
「ひよこの刷り込みだぁぁ」
卵から孵化したひよこが親鳥を見て、ぴよぴよ付いていく様子を思い浮かべて頭を抱える。
駄目だ駄目だ。せっかく早紀子さんに頑張る宣言したのに、こんな弱気じゃ。でも……。そうだ。彼なら。門内さんならいつでも相談に乗りますと言ってくれた。お言葉に甘えて一度電話してみようか。
そう思って再び携帯を手に取り、操作する。コール音が二回して相手が出る。私はこくりと息を呑んだ。
「こ、こんにちは、門内さん」
「こんにちは。お電話を頂くなんて珍しいですね。どうされました。――木津川さん」
何だか楽しそうな門内さんの声がする。何がそんなに楽しいんだろう。基本的に門内さんはいつも穏やかな笑みを湛えているけど。
「あ、あの。少しご相談が」
「相談ですか? 木津川さんが私に? 社長ではなくて私に? それは嬉しいですね」
「え、あ、え、はい」
う、嬉しいものなんでしょうか?
「お、お時間とか頂ける日があれば」
「直接お会いしてのご相談がよろしいですか?」
「い、いえ、お電話でも」
「いえ。そうですね。確かにお会いした方がいいですね」
「……え?」
な、何だか会話がかみ合っていない気がするのだけれど、なぜ?
「いつがよろしいでしょうか? え? すぐにお会いしたい?」
「あ、あの?」
「本日でしたら、午後からなら時間が空いておりますが、いかがいたしましょう?」
「か、門内さん?」
「それでよろしいでしょうか? ええ、私も楽しみにし――どういうつもりだ」
急に穏やかな門内さんの声が聞き慣れた剣呑な低い声に変わり、びくりと肩が跳ねた。
「……えっ!?」
あ、あれ。今の声、社長っぽくなかった?
「なるほど。先ほど俺にかけてきた電話は門内と間違えたという事か」
社長が何だか呟いていらっしゃるようだけれど、私はただいま混乱中です。
「え、えと。あの、もしかして、しゃ、社長ですか……?」
「そうだ」
やっぱり社長だぁぁぁ。つまり今、門内さんと一緒にいるという事!? と言うか、何で門内さんの電話を奪って会話しているの。
「木津川君」
「あ、は、はいっ」
「それでどういうつもりだと尋ねている」
「え?」
一体何がどういうつもりなの?
「門内に会って相談と言うことだ」
ああ、そういうこと。でも会って相談したいとまでは言っていないんだけど。って言うか、よく考えてみれば社長だって門内さんに会っているんじゃない。どーせ、私じゃ頼りになりませんよーだっ!
「社長だって門内さんとお会いしているじゃないですか」
口調にむすっと拗ねた感情を含ませた。
「俺は少し門内と話が」
「私にだってあるんですっ」
「だからなぜ社長の俺を差し置いて」
何で? 社長とか関係ないでしょう。社長を通さないと門内さんと話してはいけないとでも言うの?
売り言葉に買い言葉である。
「社長の肩書きとか今、関係あります?」
「それは――」
「はいはい。お二人、そこまで」
門内さんの声が割り込んできた。携帯を取り返したのだろうか。
「私の為にお二人が争わないで下さいね。もっともお二人が嫉妬されているのは、光栄にも私のようですが」
そう言って彼はくすくす笑う。
うっ……別に社長と争ってなんかないし、門内さんに嫉妬している訳じゃ……ううん、嫉妬しているんだろうな、やっぱり。
「……すみません。何だか巻き込んでしまったようですね」
「いえいえ。とんでもない。とても楽しませて頂いております」
なぜだ……。
「ところで木津川さん、ご相談の件ですが」
「あ、はい」
「よろしければ本当に承りますよ?」
「あ……ありがとうございます。何だか今日は身の置き場がなかったんですけど、でも門内さんのお声が聞けて、少し気持ちが落ち着きました」
「そうですよね。社長の声では落ち着きませんよね」
な、何を言い出すの、門内さんっ!
「え!? あ、い、いえっ! そ、そんな事はございませんっ」
何だか電話から今にも社長の機嫌が悪そうな雰囲気が伝わってきそうな気がして、慌ててそう叫んだ。
「冗談ですよ。そこまではおっしゃっていません」
苦笑しながらそういう声は少し小さいので、きっと社長に向けてそう言っているのだろう。門内さーん、私で遊んでいませんかー。
「あ、あの、門内さん」
「ああ、木津川さん、すみません」
「い、いえ」
「木津川さん、社長は口数が少なくて不安になる事もあると思うのですが、社長はあなたを信頼しております。ですからあなたも社長を信じて差し上げて下さいませんか」
私は社長を信頼している。けれど私は社長にとって本当に信頼に値する人間なのだろうか。本当にまだ少しでも信頼してくれているのだろうか。
「……門内さん、私」
声が震えて携帯を握りしめる手に力が入る。
「恐いんです。もし不測の事態に陥った時、どうやって対処すればいいのか。何もできない自分が……。しゃ、社長の信頼を失うことが恐ろしいんです」
「大丈夫ですよ。そう思っているのはあなた一人じゃありません」
「え?」
「社長も同じです」
「い、一体どういう……」
「社長を信じてあげて下さい。……申し訳ございません。社長が凍りそうなほど冷たい瞳でこちらを睨んでいるので、今、私から言えるのはそれだけなんです」
門内さんはそう言って苦笑したようだ。
「……はい。分かりました」
「ありがとうございます。最後、社長に代わりましょうか?」
「い、いえ」
あんなやり取りをして、社長に何を話せばいいのか分からない。
「ああ、分かりました。社長には代わりたくないのですね?」
「え!?」
そ、そこまで言ってませんよっ!
電話の奥で木津川さんは社長に代わるのが嫌だってと門内さんは言っている。やーめーてーっ。明日、社長と会うのが恐いです!
「代わります代わります、私、代わります!」
「おや、そうですか? では代わりますね」
「は、はい」
くすくす笑う門内さん。ねえ、門内さん、絶対私で遊んでいるでしょう……。
少しして、社長の咳払いが聞こえた。
「木津川君」
「は、はい」
「その……さっきは悪かった」
悪かった? 何か悪いことされたっけ?
「門内に相談する事についてだ」
ああ、それでしたか。
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」
「……いや」
「あ、あの。先ほど、社長にかけたお電話の件ですけど」
「ああ」
これだけは言っておきたい。
「ま、間違い電話ではありません。無意識で。……も、申し訳ございません」
「そうか。いや……謝る事はない」
しばらく沈黙して。でもその社長の沈黙は気まずいものではなくて、むしろいつまでもその時間が続けばいいと思うくらいで。
「では……また明日」
「はい。お疲れ様です」
結局、社長からはそれ以上の言葉は無かったけれど、何だか社長らしくてそれもありかと思ってしまった。
「また明日からよろしくお願い致します」
「ああ」
そして私たちは電話を終えた。




