12.ミスを繰り返す
翌日。いつもと変わらない日常だったはずの翌日。
「おはようございます」
秘書室に入って、もうすでに来ていた菅原室長に挨拶すると、室長は複雑そうな表情を浮かべた。
「おはよう」
「おはようございます。何か……あったんですか?」
「これよこれ」
そう言って視線を向けた先にあったのは脚立だった。
「え? これは?」
「秘書課の依頼でということで総務課の人間が持ってきたのよ」
「どうしてですか? 電球の取り替えなら昨日終わらせましたけど、まだ他にもありましたか?」
眉をひそめる私に、室長は肩をすくめた。
「そうじゃないの。秘書課の備品として申請が下りたのよ。つまり秘書課の脚立って訳よ」
「…………。ええっ!?」
一瞬反応が遅れてしまう。
「どうして、一体誰が?」
「その様子だとあなたが申請を出したわけではなさそうね」
「はい。澤村さんの言う通り、やはり秘書課に置くスペースはありませんし、結局ひと月の間にそう何回も使うわけではありませんから。しかし、申請を出したとしても許可が早くありませんか?」
「そうなのよね……」
室長は何やら考え込んでいると、おはようございますと次々と秘書さんたちが入って来た。すると彼女たちはめざとく脚立を発見する。
「あれ? 脚立? 木津川ちゃん、また照明、切れちゃったの?」
「違うわ。秘書課の備品として届いたのよ」
野田さんの質問に室長が先に答えてくれる。そして続いて宮川さんが尋ねた。
「え? と言うことは、秘書課に常に置いておくと言う事ですか?」
「ええ、そういうことになるわね」
澤村さんは無言でこちらをじっと見つめてきた。
わっ。もしかして誤解されている!?
「あ、ち、違う。わ、私じゃな――」
「瀬野先輩、良かったですねっ!」
自分じゃないと言い切る前に、まるで私の言葉を遮るように伊藤さんが嬉しそうにそう叫んだ。
「え……」
「だって、先輩、秘書課に脚立を欲しがっていたじゃないですか!」
「そ、そうだけどでも」
「先輩の思いが通じたんですね!」
「え、いやでも……」
彼女は喜んでくれているのになぜか喜べない。
そんな私を見て、室長は言った。
「とりあえずこれはひとまず預かっておきましょう」
「はい。後で総務課へ確認しに行って来ます」
「そうね。さあ、仕事を開始するわよ」
手を叩いて室長が場を締める。そして私たちはそれぞれの場についた。
午後になって少し時間が取れたので、総務課の浦本さんの元へと訪ねていった。
「浦本さん、こんにちは」
「ああ、こんにちは木津川さん」
「あの。早速なんだけど、脚立の事、聞いている?」
「ええ」
彼女は冴えない表情で頷いた。
「それって浦本さんが掛け合ってくれたの?」
「いいえ。と言う事はあなたが申請を出したわけじゃないのね」
「ええ。私も今朝、出勤してびっくりしてしまったわ」
「そう……。私も間違いじゃないかと確かめたんだけど、間違いなく秘書課からの依頼だって言われて」
「でも、申請してから受理、許可されるまでいくらなんでも早すぎない?」
私がそう言うと、彼女は用心深そうに周りを見渡す。そして耳打ちした。
「秘書課による強制だって」
「……えっ!? そんなっ」
「しかもね、その指示した人物と言うのが……」
まさか……。嫌でも予感してしまう。
「もしかして、私?」
浦本さんはこくりと頷いた。
「私はそんなはずはないと言ったんだけどね。そもそもこういう権威をふるうようなやり方は、あなたが一番嫌うやり方だものね」
この本社のほんの限られた一部の人間は支社での私の事情、横暴な上司に意見して追い込められた経緯を知っている。新しい社長秘書ともなれば、多少なりとも話題になるからだ。そして優秀な前秘書の門内さんとの交代劇にいかほどの人物が後任に就くのか、調べられるのは当然のことだろう。
彼女は支社に友人が配属されていて、その流れで聞いたようだ。
「私が絶対に違うと言い切ったら課長も怯んで、今回は内々で収めてもらうようにしたから大丈夫よ」
「あり、がと……」
「その……差し出がましい事を言うようだけれど、もしかしたら部署内で何か連絡がうまく伝わってないんじゃないかな」
そんな事はありえない。だって昨日、皆が揃っている場で話していたんだもの。けれど……。
「ん……。助言ありがとう。戻ってすぐ確認してみるね」
私はただ彼女の言葉に頷く他できなかった。
秘書室に戻り菅原室長に報告すると、室長は頷いた。
「そう。分かったわ。……とりあえず、今ここで突き返したところで総務課との亀裂を生むだけね。一時的にうちで預かっておきましょう」
「……申し訳ございません」
「あなたが謝ることではないわ。きっと何か……行き違いがあったのでしょう」
室長は言葉に含みを持たせながらそう言った。私が首を傾げていると、室長は笑みを浮かべて私の肩をぽんと叩いた。
「さあ、あなたはもうこの事を気にしなくていいから、自分の席に戻って仕事に集中しなさい」
「……はい。承知致しました」
そうだ。これくらいの事で動揺して、仕事に専念できなくてどうする。これから今までの分を取り返していけばいいのだから。
しかしそう決意してからも気持ちだけが空回りしているのか、ミスが頻繁に起こるようになってきた。重要書類のコピーの原稿を取り忘れたり、コピー枚数を間違えたり、必要なメモを捨てようとしたりして、その度に新人の伊藤さんに助けられてきた。
何なのだろうか。全てチェックしているはずなのになぜか手落ちが出てくるのは。コピー用紙の原稿の回収も枚数も確かにチェックしたはずだし、走り書きのメモ用紙も絶対に捨てたりすることはなかったのに。
一つ一つのミスが小さなものでも積み重なると、自分の行動の全てが信じられなくなってくるような気がして、酷く精神的な疲労感を覚える。
苦い思いでため息を吐いていると、伊藤さんが首をこてんと傾げて心配そうに尋ねて来た。
「先輩、お疲れなんじゃないですか」
「え? ええ……そう」
曖昧な言葉を返してしまって、慌てて謝罪と感謝を述べる。
「あ、いつもごめんね。ありがとう」
「いいえ。お役に立てて光栄です!」
彼女はにっこり笑みを浮かべてくれる。
伊藤さんはこちらが一度説明したことはすぐに理解し、仕事が正確で速い。彼女の方が余程、心にも余裕があって優秀じゃないだろうか。
そんな思いをしながら彼女のデスクでパソコン操作を説明する。
「あ、木津川さん、ごめんなさい。少しだけ、こちらいいかしら」
宮川さんにそう声を掛けられた。
「はい。ごめんね、少し待ってもらっていい?」
私は伊藤さんに声を掛けると、彼女は笑顔で頷く。宮川さんは伊藤さんにもごめんなさいねと声を掛けている。私は席を立って宮川さんの元へと向かった。
「ありがとう、ごめんなさいね。これの処理なんだけど、分かる?」
「あ、はい。それは――」
宮川さんに説明しながら時折伊藤さんの方を確認すると、彼女は一人で進めてくれているようだ。
もうできるようになったのか。本当に優秀だな……。
「ありがとう。助かったわ!」
「いえ。とんでもないです。それでは」
「ええ、ありがとう」
私が宮川さんのデスクから離れ、伊藤さんの元へと戻る。
「どう? 出来ている?」
「えーっと。そうですね。ここがちょっと分からなくて」
「ああ、そこは」
彼女と席を代わってパソコン操作したその時。
「な、何でっ……」
特に間違った操作などしていないのに、いきなり重要データが消去されて行くのを目の当たりにした。突然の事に頭が真っ白になる。
なぜ、どうして。何がどうなって――。
「せ、先輩!? こ、これって……」
彼女の焦った声にはっと我に返る。ぼんやりしている場合じゃない。
「伊藤さん、パソコンは触らずにこのままにしておいてね」
「え?」
「ちょっとシステムエンジニアに相談してくるから」
「は、はいっ」
私は席を立つと黒田君の元へと駆けて行った。そして部屋の前で社員証をかざして、インターフォンを鳴らす。
「黒田君、黒田君っ!」
「んー」
彼はすぐに返答してくれると、鍵のロックを外してくれた。勢いよく室内に入る。
「随分焦っているね、木津川さん」
「ご、ごめん。今ね、操作していたら急にデ、データの消去が始まっちゃって!」
「ふーん、そう。じゃあ、ソファーにでも座って寛いでいて」
こちらは気が急いているのに黒田君は至って飄々としていて、余計に気が焦らないでも無い。とても椅子に座って寛ぐ気分になれず、彼の背後に立って待つ。
「ど、どう?」
「うん、そうだね。木津川さん、何かした?」
黒田君はキーボードを鳴らしながらこちらに尋ねてくる。
「何も……。後輩の子に代わって操作しようと思ったんだけど、何も特別な操作はしなかった……はずなのに、い、いきなり消去が始まったの」
「そう」
「も、元に戻りそう?」
「戻るよ」
ドキドキしながら尋ねたのに、あっさりとそう言われて拍子抜けしてしまう。
「え、ほ、ホント?」
「うん、普通にね。元々バックアップはあるからそれは問題ないんだけどさ……うん出来た。戻ったよ」
そう言うと彼はこちらを向いた。
「ほ、ホント!?」
「うん」
「黒田君、あなたって天才よ……」
「え? 何? 知らなかったの?」
彼はにっと笑った。
「知ってた……。っ、ありがとーっ、黒田君」
感動で彼にがばりと抱きついた。
「わっ!?」
彼の驚く声と私の勢いで彼が座る椅子が少し動いたけれど、気にしない。……本当に良かった。
心からの安堵の息を吐く。
「……木津川さん?」
いつまでも彼を解放しない私に戸惑った声を掛けてくる黒田君。
「ごめん……ね」
「…………」
「最近、私、ミスが多くてね。その上、データ消去までやらかしちゃって……もうどうしようもなくて」
やっとの思いでそう言うと、彼は背中をぽんぽんと叩いてくれた。
「大丈夫。これは木津川さんのミスじゃないよ」
「……え?」
私は彼からようやく離れた。
「少し構成がいじられていたから」
「どういう事?」
「……さあね。パソコンに少々詳しい者が自分の使いやすいように構成し直そうとしていた途中だったのか、あるいは――」
黒田君はそこで言葉を切った。
「あるいは?」
「ん、いや。とにかく、木津川さんが悪いわけじゃないよ。これはあくまでもパソコンの不具合の話だから気にしなくて良いよ」
「不具合?」
「うん。木津川さんでなくても誰でも対処できなかったプログラム構成の不具合。だから木津川さんのせいじゃないから安心して」
「……そう、なの?」
そう言って笑う黒田君に私は少しほっとして笑みを返した。
「とにかくありがとうね」
「うん。またこういう事があったら言って。まー、いつでも対決してあげるよ」
挑戦的な笑みを浮かべてそう言う黒田君。
「え? 誰と?」
「……エラーとだよ」
「そっか。とにかくありがとうね」
「うん」
私はいつものようにお礼としてチョコレートかキャンディーをと思ってポケットをまさぐると、今日は一つも出て来ない。そう言えば補給するのをすっかり忘れていた。まさか私がそんなミスまで犯してしまうとは。
「ごめん。今日は何も手持ちない」
「いーよ。もうもらったし」
「何を?」
「木津川さんの感謝のハグ」
悪戯っぽく笑う黒田君に私は苦笑いしてしまった。
「あー、あははは。ご、ごめんねぇ。つい感動してしまって」
「何でそこで謝るかなー」
セクハラ案件として謝れって意味じゃないのか。
「うん?」
「いや、いいよ」
「う、うん? じゃあ、本当にありがとう。戻るね」
「うん。また何かあったら……いつでも言って」
「ありがとう。じゃあ」
そうして私はその部屋を後にした。戻った私の元へ駆けつけて来る伊藤さん。
「いかがでしたか?」
「うん、大丈夫。心配かけてごめんなさい。データは復元できたから」
「そうですか! 良かったです! もう、私びっくりしてしまって」
「そうね」
「何が原因だったんですか?」
「え?」
何が原因?
「ああ、何でもパソコンの不具合だって」
「へぇ、そうですか。良かったぁ。私が何か触ったのかと思ってしまいました」
そう言えば黒田君は構成に変更が加えられていたって言ったわよね。このパソコンは伊藤さんしか使っていないんだけど。……まさかね。
それにしても本当に失敗体験が続いて、自信が無くなってきた。いや、初めから自信などなかった。ただ、前秘書の門内さんに劣る事のないようにと、秘書が代わった途端に効率が落ちたと思われたくないと、なりふり構わず突っ走ってきただけだ。きっと門内さんならこんな事を起こさないんだろうなと、仮に起こしたところで自己解決できるのだろうと思うとさらに自分が嫌になってくる。
実際、引き継ぎの間、結局彼が失態を起こすような事は一度もなかった。いや違う。門内さんだけではない。ここに集まる秘書さん方は全て何かしらの才能や能力を持っていて、それらを日常業務で発揮している。そう思うと自分には一体何があるだろうか。
いや、考えるまでもない。私には何も無い。何も持っていない上にミスばかり繰り返す私は、いつしか社長の信頼を失うのではないだろうか。……それが酷く恐ろしい。
気持ちが後ろ向きになっていたからだろうか。私はまた失態を起こす事となる……。