何もなかったぼくより。2
まだスタート前のアップ段階のような、嫌な予感がします。
バンドの名前を決めたのは、シズカだった。
「『ワルツ』にしようぜ」と、即決したのである。僕は極めて冷静に、その理由を問いた。シズカは三本指をたてて、
「俺達三人で、初めて調子が合うんだよ。ワルツって三拍子だろ。ほら、イチ、ニイ、サン」
マル、ぼく、そしてシズカ自身を指で指す。このグループの実質的リーダーは彼なので、受け身なぼくとマルには断る権限が無かった。
「な?完璧だろ?」
いささか強引だが、マルを盗み見れば満更でもなさそうだった。「あいつのことだから、イタイ名前にしてくるかと思ってたけど、割と普通だったんだよ」後にマルはこう語った。一方、ぼくは内心緊張していた。ワルツ。その響きは僕の人生を大きく変える予感がしたのだ。
「まあ、考えたりはしたけどさ」
僕は鞄から作詞ノートを取り出す。作詞作曲はぼくの担当で、常に歌詞ノートは持ち歩く習慣をつけていた。ちょっとずつ進めていた歌詞にもならない単語やらフレーズの羅列をぼんやりと眺めると、不思議と文になったりする。電車の中で、ぼくは毎日それを眺めながら登下校を繰り返していた。ノートを開いてその繋がった荒い文を二人に奉呈する。これは毎度おなじみの儀式である。
オレンジジュースに口をつける。
先に口を開いたのは、シズカだった。
「……まあ、いいんじゃねえか」
マルも頷く。
「荒削りな感じがするね」マルはいつも容赦がない。
「まあ、そこはこれから詰めるよ」
「でもこの歌詞はこのままで言ってもいいと思う」
そう言ってマルが指差したのはページのちょうど中央辺りの一文だった。
『何もない僕が獲るはずの何かも、今はただ、』
「ただ、何なのかなーって」
僕は平たい笑いで誤魔化した。これは正直見落としてもらいたかった箇所だ。消しておけばよかったと後悔した。体が熱くなる。しかしこの文はいれなくてはならなくなってしまった。ああ、本当にやらかした。
「お待たせ致しましたイカ刺しになりまーす」
するりとぼくとマルの間を、店員さんの腕が伸びる。イカの刺し身を注文したのはシズカだった。注文したとはいえ、結局は三人で割り勘することになる。ぼくは箸立てから割り箸を三膳抜き取り、二人に手渡す。
シズカが小学生並に手を直立させた。
「あ、すいません鶏の唐揚ください」
「かしこまりましたー」
店員さんは「園原」さんというらしい。金髪の似合う活発そうな女の人だ。ぼくは普段から店員さんの名札を真っ先に見てしまう癖がある。ある時は「高澤天使」と書かれたネームプレートだけを見て、「たかさわてんし?」と首を傾げたところ、「実は、『たかざわあんじゅ』って読むんです。変わってますよね」と自己紹介されてから、名前もなかなか面白いと思うようになった。俗にいうキラキラネームだから余計に面白かった。
「また名前見てんの。好きだよねぇ」
マルはネームプレートに目をやる僕にいつも生暖かい視線を送ってくる。完全に子供扱いされているのである。
「ほっといてよ」
「なぁ、俺ずっと謎なことあるんだけどさ」
お品書きを刮目していたシズカが顔を上げる。
「急だな」
「酒って誕生日から飲めるのか?それとも成人式から飲めるのか?」
「……さあ、どうだろう」
マルはシズカに対しては時々冷たい節がある。大概、扱いが面倒臭いと感じた時だ。今も、心底どうでもよさそうに、割り箸を割った。
「いただきまーす」
「なあ、マールー。どうなんだよー。お前はもう飲めるのか?飲めるんだな?」
身を乗り出して指を突きつける。飲んでもいないのに、シズカは居酒屋の雰囲気だけで酔っている。
マルは6月生まれなので、三人の中で最も誕生日が長く、現在一人だけハタチなのだが、シズカがそれを時々ネタにしている。今もまさにそれだ。
「どうなんだよ、どうなんだよオトナぁ」
「なんで飲んでもないのに、静心は酔った感じになるんだよ」
「シズカ、立つな」
名ばかりの静を鎮めて、僕も刺し身に箸を伸ばす。こりこりとした食感を楽しみながら、ノートと格闘する。居酒屋の喧騒の中で歌詞を考えていることも多い。サークル全体の飲み会でも、こうして三人だけ別会と化すことが常だった。最近ではテーブルすら違う。橋のほうで酒の入った先輩たちがどんちゃん騒ぎをやっている騒音が耳障りでならない。まだ隣の席の親父の方がひっそりと酒を酌み交わしている。
メロディーは出来ていた。だが、それに合う歌詞が見つからない。いっそメロディーから書き換えてやろうかと思ったが、そこまで時間は無いし、二人にメロディーは楽譜にして渡してしまった。駄目だ、何がなんでも歌詞をこのメロディーで仕上げなければならない。
何もない僕が獲るはずの何かも、今はただ、
その先を書こうとしてペンが止まる。手が小刻みに震えて、鋭敏に拒否反応を示している。
……頭から書こう。書き出しの文を黒く塗りつぷす。
「俺さ、イカ刺しじゃないけど、イカリング食って筋が喉に詰まってさ、本気で死にかけたことあるんだよな」
「何だよそれ」笑い混じりにマルは、イカ刺しを箸で摘み、シズカの前でぷらぷら振り子のように振ってみせた。
「じゃあトラウマで普通は食えないだろ」
シズカはそれに自ら食らいついた。不敵に笑い、ゆっくりと咀嚼する。
「そこだよ。普通は食う気失せるだろ。でも敢えて食うんだよ」
「なんでだよ」
「そうじゃなきゃ、悔しいだろう」
五十回以上咀嚼して、ようやく嚥下した。よほどイカへの警戒心が強いようだ。
「イカの美味さは分かってんのに、ただ筋のせいで食えないのがさ。トラウマなんて、乗り越えるための人間への試練以外の何物でもないんだよなー、これが。俺なんてトラウマだらけだわ。試練だらけだよ」
「お待たせ致しましたー鶏の唐揚でーす」
園原さんが、鶏の唐揚の皿をテーブルに置いて、他のご注文はございませんかと聞いてくれる。ぼくは顔だけ園原さんを向き、すっと手を挙げる。やっぱり園原さんの業務用の笑顔は人を和ませる力がある。
「もも二本ください」
「タレと塩の二種類ございますが」
「両方でー」
園原さんが下がっていく気配を感じる。ノートに目を落とす。今のは使えるかもしれない。ちょっと閃いた。
トラウマは、自分を乗り越えるための試練。それだけ。
ノートに簡潔に書いて、嘲笑した。シズカへではない。
自分に、嘲笑うのだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回もまた覗いて頂けたら幸いです。