ラ・ルース湖2
リリアナは、自分のベルトでしっかりとルルーを体に縛り付けると、エクラスに手を伸ばした。
エクラスは、片手でリリアナを抱き、片手でルルーの瞳の石へと触れて、膜を見上げた。
「行くぞ、リリアナ。上まで、なるべく早く泳ぐが二分ほど掛かるかもしれぬ。しっかり息を吸え。」
リリアナは、大袈裟なほどハーッと胸を膨らませて息を吸い、ぐ、と止めた。途端に、エクラスは膜へと脚立を蹴って飛び込み、驚く早さで上昇して行った。
「急げ、咲希!エクラスは速いぞ!」
咲希は、克樹の声にハッとして急いで脚立の上へと足を乗せた。そして、グッと立ち上がって膜を通ると、そこは間違いなく、水の中だった。身を切るように冷たい…まるで氷のようだ。
…息がもたないかも!
咲希が下で心配そうに見上げる脚立の前の皆を見る。それでも、下へと腕を伸ばすと、ラーキスの声が言った。
『サキ、顔はこちらへ出せば良いから!それでは息が出来ぬだろうが!』
水の中で聞いているので、くぐもって聴こえる。咲希は、慌てて顔も膜の向こうへと出した。途端に、空気が肺を満たして、不安感が無くなった。
「エクラスが見えぬようになるゆえ、行くぞ!」
クラウスの声がして、咲希の手を掴んだ。咲希は、そうだった、とその手を引っ張り上げた。
クラウスが膜を抜けて来る。咲希は、すぐにまた手を下ろして、今度は克樹を掴んだ。
「じゃあお先に!」
克樹も、クラウスについて水の中を上昇して行く。そうして咲希は、次から次へとさくさく皆を膜のこちら側へと引っ張り込んで行った。
「ついて参れ、ラーキス!」
アーティアスがそう言い残して、膜を抜けて上へと泳いで行った。ラーキスは、咲希の腕を掴んだ。
「サキ、上まで結構掛かるようぞ。しっかり息を吸って、オレに掴まっておれよ。」
咲希は、しっかりと頷いて、ハーッと息を吸い込んで目を閉じた。
その瞬間に、ラーキスの腕がしっかりと自分を引き寄せたのを感じて、そのままその背に腕を回して抱きついた。冷たい水の中を、ラーキスの体の温かさだけを頼りに、上へ上へと運ばれているのを感じながら、咲希はただ息を止めて必死に目を閉じていたのだった。
ラーキスは、先を行くアーティアスの足が、ひらひらと見えるのをひたすらに追っていた。片腕を上へと伸ばし、力いっぱい水を蹴って上を目指すが、アーティアスが水面に出る様子はまだない。
腕の中の咲希は、じっと目を閉じて咲希なりに精一杯の力でラーキスに抱きついている。口の端や鼻から、小さな気泡が上がって来るのを見て、人はそれほど長い間水中で息を止めていられない事実を悟った。
いつもなら、気泡を大きく作ってその中へと入り、そのまま上昇すればいいだけのことだった。だが、ラ・ルーのせいで魔法が使えない。今咲希が苦しみ出しても、魔法で助けるともっと悲惨なことになるのが目に見えているので、そのまま進むよりない。
焦ったラーキスは、とにかく水面へ出なければと、猛烈な勢いで足を動かした。一人で身軽なアーティアスの足が、小さく霞んで見える。距離が開いている。
ラーキスは、必死だった。咲希の顔が、微かに歪み始めた。もう、二分にもなりそうな気がする。
…サキ、頑張るのだ!
ラーキスは、心の中でそう叫んだ。咲希はその声が聴こえたかのように、目を開くとラーキスを見た。そして、苦しげにあえいだ。
口から、恐らくは堪えていた空気が一気にたくさんの気泡になって溢れて来る。このままでは、水を飲んでしまう!
ラーキスは、咲希が水を飲むことが出来ないように、強く自分の胸に咲希の顔を押し付けると、ようやく見えて来た水面に向けて飛び上がるように突っ込んで行った。
「サキ!」ラーキスは、水面に上がってすぐに、立ち泳ぎをしながら咲希の顔を上に上げて叫んだ。「サキ!しっかりせよ、上へ出た!」
咲希は、ぐったりと背泳ぎの時のように上を向いて目を閉じていたが、それでも必死に呼吸をしてむせていた。先に水面へ出ていたアーティアスが、岸へと向かっていたのを振り返って、慌ててこちらへ引き返して来た。
「ラーキス?サキは息が続かなんだか。」
ラーキスは、アーティアスを見た。
「大丈夫ぞ、何とか間に合ったようだ。だが、水が冷たい。早よう岸へ。」
アーティアスは頷くと、ラーキスに手を貸して、二人で咲希を水面に寝かせるように浮かせ、引っ張って岸へと向かった。
岸の上では、びっしょりと濡れたままの状態で、リリアナとエクラス、クラウス、克樹、アトラスが立っていた。メレグロスが岸へと上がり、ダニエラが這い上がるのを手助けしている。アーティアスとラーキスも、咲希を連れてそこへと到着した。
すぐに、メレグロスが咲希を引っ張り上げる。ラーキスとアーティアスは、やっと岸へと上がった。
「と、とにかく、どこか、魔法を使っても大丈夫な所に。」克樹が、ガタガタと歯を鳴らしながら震えて言った。「さ、寒すぎて、このままじゃ風邪をひくよ。というか、その前に凍る。」
エクラスが、リリアナを風から庇うようにしながら、言った。
「少し離れれば、大丈夫よ。近くで魔法を放てはどこまでも追って来るが、陸で魔法を使っておっても湖の上でもない限り気取らぬから。さ、あちらへ。」
アーティアスも、びっしょりと濡れたまま西の方を指した。
「あちらへ。あちらに見えておる森の向こうがサルークよ。ここまで来れただけでも、幸運であったわ。日が昇らぬ間に、森へ。」
克樹が、とにかく動かないと凍えて死ぬと、足早にそちらへ向けて歩き出す。
ラーキスは、びっしょりと濡れたままで、まだ座り込んだままの咲希を見て言った。
「サキ、寒いであろうが、ここではラ・ルーが面倒ぞ。さ、オレの側に。早よう森へ入って、炎の術で乾かそうぞ。」
咲希は、ただ無言で頷いて、ラーキスの手を握った。ラーキスはそんな咲希を抱き上げると、こちらも早足で森へと向かったのだった。
森へ入ってすぐに、脇の岩場の影へとメレグロスがテントを立てた。テントを大きくするのにもしやまたラ・ルーがと緊張したが、今度は何も起こらなかった。どうやら、エクラスが言っていた通り、少しでも離れていたらラ・ルーは気取らないらしい。
ホッとして気を良くした一向は、そこで木の枝を集めて来て焚き火を炊いた。濡れていない服を出して着替え、咲希がテントから出て来ると、焚き火の回りには男性陣が座ってこちらを振り返った。
ラーキスや克樹、それにメレグロスやアトラスは見慣れた感じの服に着替えていたが、アーティアスとクラウス、エクラスは今まで着ていたディンメルクの服とは、また違ったデザインの物を着ていた。何と言うか色彩が鮮やかで、これまでのようなくすんだ色ではなかった。
「何だか、感じが違うわね。」
咲希の代わりにダニエラが言った。アーティアスが、答えた。
「ここはサラデーナであるしな。サラデーナの民は、このように皆、主らの地と同じように派手な色合いの服装を好んでする。我らは、昔から受け継がれた草木の染めの物をまとうからの。」
そうか、あれは草木染めなのか。
咲希が思っていると、克樹が言った。
「じゃあ、アーティアス達は好んで草木染めの木綿素材の服装を?」
貧しいとかではなくて、とは克樹は言わなかった。だがアーティアスは、答えた。
「我らはの。しかし、一般の民は違うらしい。サラデーナの民が着るような、派手やかな物を好むな。だが、この染めはかなり命の気を使わねば出来ぬのだ。この、滑らかな布地もな。なので、ディンメルクの民からすると、このような服は贅沢品なのだ。サラデーナと交易があれば幾らでも手に出来ようが、しかし敵対しておるからな。我らは、もしかして敵地にもぐりこむようなことがあってはならぬので、サラデーナで買い求めていつなりこのような服を持っておるがの。」
やっぱり命の気が少ないので、貧しい生活を余儀なくさせられているのか。
克樹も、他の皆も思ってそれを聞いていた。鮮やかな染めや、滑らかな織りは、あちらではしたくても出来ないのだ。
「早く、命の気の循環を作ってしまわなければいけないわね。」咲希が、それを聞いて言った。「命の気さけあれば、好きな着物を作って着ることも出来るのだもの。こちらの国だけにそれが許されているなんて、確かに不公平だわ。」
メレグロスが、頷いた。
「確かにの。20年ほど前の、我らの地での命の気の分散とは訳が違う。リーマサンデの民は、命の気など無くてもやっていけるように進化した。そして、命の気が毒になるような体にまでなった。だからこそ、ライアディータにだけ命の気が流れていて、うまく行っておるのだからだ。こちらのあちらは違う。」
克樹が、腕輪の時計を見た。
「それで、もう日が昇るだろう。今日はどうする?サラデーナ領にうまく潜入出来たようだけど、この森はもう、サルークなのか?」
アーティアスは、頷いた。
「そうだ。ここもサルークの一部。細かく言えば、ラ・ルース湖もサルークなのだ。ここからこのまま森を抜ければ、街がある。街へ行けば、潜んでいる我々の仲間と接触出来るゆえ、情報ももらえるがの。しかしここはそんなに大きな街ではないぞ。サラデーナでもっとも北に位置する、工業の街。ラ・ルース湖へと流れ込む川の近くに工場が立ち並んでいる。」
メレグロスが、首をかしげた。
「ライアディータで言う、ルクシエムのような感じかの。では、今は冬季で人は少ないか。」
それには、クラウスが首を振って答えた。
「主らの言うルクシエムは、北の凍りついた町で、冬季は閉めるであろう。こちらは、そこまで雪深くないし、年中工場は稼動しておる。しかしまあ、この時期は観光客も居らぬし常よりは人も少なか。」
アーティアスが、頷いた。
「確かにの。だが、川を遡ったルース山脈の方へは、冬季は雪が積もるので板で滑ったりするのを楽しむ人が多く来るようよ。」
スキー場か。
咲希が変に納得してそれを聞いていると、克樹が焦れたように言った。
「で?その工業の街サルークで、オレ達はどこに石を設置するべきなんだろうな?」
そう言われて初めて、ゆっくりしている場合ではないことを思い出した一向は、咲希を見た。咲希は、皆が自分を見ているので、慌てて考えた。
「ええっと…岩場みたいに、どっしりと根ざしたものがいいってクロノスは言っていたわね?」と、キョロキョロと辺りを見回した。「ここ…岩場だし、いいんじゃない?」
ラーキスが、顔をしかめた。
「サキ、いくらなんでも思いつきでそのように。もっと探した方がいいのではないのか。」
咲希は、首を振った。
「いいえ、思いつきじゃないわ。だって、ここならラ・ルーも側に居るから、誰も大きな術なんて使えないでしょう。一度設置してしまったら、きっと取り除くのは難しいんじゃないかって。」
「設置の際の大きな魔術が気取られないか心配ではあるがな。」とアーティアス。
ラーキスが、肩を落とした。
「それがあったの。まずサキの力を結晶化させ、それを設置するわけだ。クロノスがラ・ルーをどうにかしてくれればいいが、そこまで望めないだろうし、覚悟しておいた方がいいかもしれんな。」
アーティアスがあからさまに嫌そうな顔をした。
「あのなあ、主らはあれと直接対峙したことがないからそのように呑気なことを言うてられるのだ。あれはまるで暖簾に腕押しの状態よ。こっちがいくら攻撃を放っても、その魔法を心地よさげに受けておるだけ。あれをどうにかしようと思うたら、物理的にどうにかせねば無理よな。」
マッコウクジラを剣で倒す。
いや、無理でしょう。
咲希は、顔をしかめてそう思っていた。あの巨大な体、まるで船底のような大きな白い腹に、小さく申し訳程度に手足がついていた。そこだけ見ると、ウーパールーパーを巨大化して見ているような感じだった。
そんなマッコウクジラに短い手足の話が通じないもの相手に、戦わねばならないかもしれないのだ。
せめてイルカぐらいならなあ…。




