選択
咲希が、疲れてふらふらとする足を必死に動かして、とにかく一度寝ようと自分のために用意された部屋へと向かっていると、同じように自分の部屋へと向かっていたラーキスがそれを呼び止めた。
「サキ。」
咲希は、振り返った。相変らずすっきりと疲れた様子もなく立っているラーキスに感心しながらも、自分にはとても無理だと疲れたまま言った。
「どうしたの、ラーキス?」
ラーキスは、咲希に追いついて、言った。
「サキは、研究所へ帰るか。」
咲希は、首をかしげた。
「悩んでいるの。あそこには美穂も居るし、戻れるような状況になったらすぐに送ってもらえることを考えたら、その方がいいのかしらとか、思ったり。でも、じっと待っているには、きっと退屈そうな建物だったし…ここなら、街だからいくらでも暇つぶしも出来るけれど。」
ラーキスは、頷いて言った。
「確かにの。ダッカも、ここのような大きな街ではないが、周辺には他の村もあるし林や湖もある。退屈はせぬと思うぞ。オレは、里へ戻るのだが、主も共にどうか?」
咲希は、驚いて眠気が吹っ飛んだ。ダッカという選択肢は無かったのだ。
「まあ…でも、ダッカでどこに住むの?舞さんに迷惑掛けたら悪いしなあ。」
ラーキスは首を振った。
「母上はそんなことを気になさるかたではない。もしも来たいのなら一緒に来れば良いし、研究所へ行くのなら、アトラスがラピンへ戻るので、ついでに乗せて参ると申しておった。どちらでも、好きな方を選べば良い。オレは、明日には発つゆえな。」
咲希は、それを聞いてハッと気付いた。つまりは…研究所へ帰ると決めたなら、ラーキスとはもう会えない。自分は、研究所に居て、状況が回復したならあちらの世界へ帰るのだ。帰ったら、恐らくもう二度とこちらへは来れない。あちらでは、異世界の研究は一般人には隠しているのだ。もしかしたら、記憶を消すようなこともあるのかもしれない。
咲希が呆然と考えていると、ラーキスは隣りの自分に宛がわれた部屋へと入って行った。咲希は、まだ考え込んだまま、自分の部屋へと入って行ったのだった。
咲希は、昼頃目を覚ました。
この部屋へ入ったのが夜明けぐらいだったので、結構寝た。もう慣れたように腕輪を開いて時間を見ると、ちょうど12時だった。こちらの世界の文字はたくさんあって、こちら独自の見たこともないような文字や、不思議なことにアルファベット表記や漢字やひらがなの表記もある。言葉はどうも日本語ではないようなのに、咲希が話すのがきちんと通じていて、相手の言葉も、日本語に聞こえて理解出来た。どういうシステムなのか分からない。だが、最初に来た時から言葉に関しては全く不自由していなかった。咲希は、腕輪の表記は、日本語にして数字はアラビア数字にしていた。
そんな訳で、言語でストレスを感じたことはなかった。
起き上がって服を着ると、バルコニーから外を見た。
さすがに王城だけあって、首都の街が遠く端まで見渡せた。小高い場所にあるので、あまり高い建物もないここでは、地平線まで見える。咲希は、その景色にため息をついた。まるで、外国の町へ旅行に来たみたい…。こんな景色は、あちらでは見れなかった。
ふと下の庭を見ると、克樹とラーキスが剣と槍を振って戦いの訓練をしている。咲希は、旅が終わったばかりなのにすぐにまた訓練をしている二人に、感心してしばらくそれを眺めていた。
すると、咲希部屋の戸が、小さくトントンと鳴った。それがノックだと気付いた咲希は、慌ててドアに寄った。
「どなた?」
すると、小さな声が聴こえた。
「私よ。」
リリアナだ。
咲希は、慌ててドアを開いた。
「リリアナ?どうしたの?」
リリアナは、咲希と視線を合わせずに、下を向いたまま言った。
「…これ。」
リリアナは、腕に抱いたあの目が無くなっているクマを、体を少しこちらへ向けることで咲希に見せた。咲希は、あ、と口を押さえた。
「ああ!そうだったわ。直してあげなきゃね。入って。」
リリアナは黙って頷くと、中へと入って来た。咲希は、ウェストポーチから、自分がこの世界へ来る時に持って来た教科書の詰まったカバンを出して、大きくした。途端に、ベッドの上にはあの重いカバンが転がった。
咲希は、慣れたようにそのカバンを探ると、携帯用の小さなソーイングセットを出した。急にボタンが取れたりしたら困るからと、母親が持たせてくれていたものだった。
「あった!これこれ。ええっと、石はある?」
リリアナは、ポケットから石を出した。
「ショーンからも、取って来たの。もう要らないだろうって言って。」
咲希は頷いて、その石をひっくり返して見た。金具が着けられているが、どうやらこれは接着剤で貼り付けられていたようだ。糸が掛かるような穴はどこにも無かった。
「石は、後で貼り付けるしかないわね。今は、クマの破れちゃった顔を縫ってあげようか。いい接着剤がないか、克樹に聞いてみるから、大丈夫よ。」
咲希はそう言うと、クマの色に合わせたアイボリーの糸を選び、針に通した。そして、空いた穴を埋めるために自分のタオル地のハンカチを切って添え、糸に二本取りで玉結びを作ると、表から見えないようにと慎重に縫い始めた。
リリアナは、じっとその様子を見ている。咲希は、少し緊張したが、縫い進めながら黙っているのもとリリアナに話し掛けた。
「綺麗に直りそうで、良かったわね。」
リリアナは、まだじっと咲希の手元を見ながら、頷いた。
「そんな方法、どこで覚えたの。」
咲希は、びっくりしながらも、答えた。
「え、学校で。」と言ってしまってから、こちらでは家庭科の授業とかもあっちの世界とは違うのかもと思い直して、続けた。「私が、小学生と中学生の時だったわ。あちらの世界の私の居た国では、みんな習うの。あんまり得意でもないけど。」
リリアナは、まだ咲希の手元を見つめている。まるで、それを覚えようとしているようだった。咲希は、手を止めた。
「リリアナ、縫い物に興味があるの?」
リリアナは、少し驚いたように目を上げたが、すいっと横を向いた。
「別に。またこの子が破れた時に、自分で直せたらいいと思っただけよ。」
咲希は、素直でないリリアナに、くすっと笑うと、針を差し出した。
「そうね。私、あっちの世界へ帰ってしまうかもしれないし。やってみる?ちょっと練習してみようよ。」
リリアナは、ためらいがちに差し出された針を見つめていたが、思い切ったように手に取った。咲希は微笑んで、糸を出した。
「これをね、この穴に通すの。」
リリアナは、頷いた。
「分かるわ。見ていたから。」と、リリアナはすっと糸を通すと、するすると糸を伸ばして、そして二本そろえるとハサミで切った。「ここ、どうやって結んだの?」
咲希は、自分が持っていた針を針山に刺すと、違う糸の端を指へくるくると巻きつけた。
「こうやって巻いて、親指で押さえて、引っ張るのよ。」
リリアナは、真剣な顔でそれは慎重に糸を巻いて引っ張った。しかし、糸はするりと解けた。
「指先で、丸めるようにしたらいいかも。」
リリアナは、それこそ必死に玉結びと向かい合っていた。だが、なかなか上手く行かなかった。それでも、リリアナは真面目に何度も繰り返している。そうしているうちに、ついに綺麗に玉結びが出来た。少し糸が長めに後ろに残っていたが、初めてにしては上出来だった。ほっと息をついているリリアナに、咲希は手を叩いた。
「綺麗に出来たじゃない!」と、さっき切ったハンカチの残りを、手渡した。「これで、練習してみようよ。これとこれを、繋ぎ合わせるの。」
リリアナは、頷いて切れたハンカチを手に取った。咲希は、針山から自分の針を取ると、クマの穴を埋めるための針を進め始めた。リリアナはそれを見つめながら、自分もハンカチに向き合って、そうして、初めての縫い物に没頭したのだった。
そうしているうちに、咲希は片方の穴を塞いで玉止めをした。リリアナも、ハンカチを綺麗に縫い上げた。リリアナらしい几帳面な細かい縫い目を見て、咲希は頷いた。
「凄いわ、リリアナ!私、初めての頃こんなに綺麗に縫えなかったわ。」
リリアナは、少し顔を赤らめた。
「そんなの…あなたが初めて縫ったのって、小学生の頃でしょ?私は小学生じゃないし。」
咲希は、それでも気を悪くする風でもなく、クマを差し出した。
「じゃあ、もう片方の穴は、リリアナが縫ってみる?」
リリアナは、じっとクマを見つめた。そして、頷いた。
「やるわ。」
そして、また針に糸を通すと、リリアナはクマを膝に乗せて、また慎重に針を進めたのだった。




