それぞれの夜
ラーキスは、晴れて雲一つない空を、本来ならその辺りに雲があるだろう高さを維持しながら、夜空を背に飛んでいた。
その隣りを飛ぶシャデルは、それを見越していたのか黒い上着を着ている。アーティアスが言った。
「シャデル、今は夜であるから良いが、その黒い服で日中空に浮いておったら目立つのではないか?」
シャデルは、苦笑した。
「中には白い服を着ておるし、昼間は上着は脱ぐゆえ良い。それに、アンバートでもあるまいに、人の身一つが遥か上空にポツンと浮いておっても、地上の誰も気付かぬわ。明日には雲も出るやもしれぬ。主は我を案じるより己を案じてはどうか。軍が居ったら、将軍クラスなら主を見分けるぞ。まあそれまでに、ギードが連絡をして来ようか。実は今も、サラデーナに入ったゆえ自由になった気を使ってギードがどこに居るのか探っておるのだ。近づけば、あやつに連絡が着こうぞ。メニッツに入るのは、なのでしばし待て。」
ラーキスが、隣を飛ぶシャデルを見て言った。
『では、オレはどこへ降りたら良いのか。メニッツの地形が分からぬのだがな。』
シャデルは、前の方を指さした。
「そちら。主がこのまま飛べば、メニッツ盆地が見えて参る。その中全体が、メニッツぞ。大小五つの湖があり、その西の端の一つ、ルー湖の端に街の中心がある。」
アーティアスが続けて言った。
「だが、その盆地の中が厄介なのだ。そこへ入るには、西側に一つだけある山の切れ目、そこにある大きな門をくぐるよりない。上空から入ることも可能だと思うやもしれぬが、メニッツの上空は大地の気が乱気流のように渦を巻いておって、無理ぞ。それに命の気の源とあって、軍の守りも堅い。なので中へ入るには、西側の門を通るよりないのだ。」
シャデルが、頷いた。
「なので主が降りるとしたら、西に近い辺りの森の中であろうな。そこで機を待つのだ。アラクリカから流れる川の方は軍が多いゆえ、そこまでは行かぬ方が良いが…。」
クラウスが、考え込むような顔をした。
「メイ・ルルーの方から回り込むと、余計に軍が多いしの。ならばやはり、西南西の位置に待機するのが一番やもしれぬ。」
ラーキスは、頷いた。
『ならばそこを目指そうぞ。』
ラーキスは、正確にそちらへと方向を変えた。グーラの体内には方位磁針があると克樹が言っていたのが、あながち間違っていないのではないかとアーティアスは思った。
シャデルが、それを見てさらに高く昇った。
「では、我はこれよりは念で主らにコンタクトを取ろうぞ。見えぬでも、念が届かぬ位置には行かぬゆえ、空に向かって心を開け。我はそれを読み取って、こちらから思念を送って意思疎通を図るゆえな。」
アーティアスが、どんどんと昇って行くシャデルに向かって叫んだ。
「待たぬか!せめてどの辺りに居るのか言わぬか!」
シャデルは、笑った。
《案じるでないわ。場所はメニッツより西、アラクリカより東。ちょうど中央ほどの上空ぞ。あちらの者らも山脈からサラデーナへ入った。向こうも見て置かねば何があるか分からぬからの。ではな!》
はっきりと聞こえたが唇は動いていない。叫んだ様子もなかった。今の声は、念の声なのだ。
そうして、ラーキスは音もなく、シャデルが指定した通りの場所へとスーッと滑空して降りて行ったのだった。
降りた場所は、サラデーナの強い気の中でも、更に濃い気が流れる場所だった。
アーティアスとクラウスの二人を下ろして人型に戻ったラーキスは、さすがの自分の体もきしむような気がして、急いで意識して調節機能を上げた。自然に調節していた力では、追いつかないほどの圧力の命の気だ。まるで、空気全体が体の表面全体から食い込んで来ようとしているようで、そんな感覚に慣れないラーキスは顔をしかめた。
アーティアスが、体を広げて深呼吸した。
「おお、何やら清々しい。何と濃い気ぞ。キジンで感じるのと同じ純度を感じるが、こちらの方が密度が濃い気がするの。」
クラウスも、頷いた。
「体調が良くなるように思いまするな。」
それを聞いたラーキスは、やはりこの二人は、こちら発祥の魔物なのだと実感していた。自分は、こちらでも難なく生きては行けるが、それでもこの気は押しつけがましく感じて、とても清々しいとは思えない。
ラーキスが黙っているので、アーティアスが振り返って言った。
「何ぞ、主は不機嫌そうに。同じ魔物と言われる種族同士、命の気は好むのであろう?」
ラーキスは、憮然として答えた。
「オレはこちらの発祥ではないではないか。濃いというて、これでは過ぎておるわ。何事も過ぎたるは何とやらと人が言うておった。確かにその通りだと思う。」
せっかく機嫌が良かったアーティアスは、気分を害したように顔をしかめた。
「まあ分かり合えずでも仕方がないの。早うこっちでの仕事を終えて、主も己の発祥の地へ帰れば良いわ。」
ラーキスは、回りに休む場所は無いかと視線を動かしながら、不愛想に答えた。
「そうするつもりよ。」
クラウスが、場を和ませようと急いで言った。
「王、あちらに良い感じの岩の窪みが。あの辺りに潜んで、シャデル王の連絡を待ちましょうぞ。」
ラーキスも、そちらを見た。確かに、あそこなら回りに低木もあっていいかもしれない。
アーティアスは、途端に機嫌を直して、頷いてそちらへ足を向けた。
「おお、すぐに見つかるとは幸運な。少し休もうぞ。」
クラウスが、ラーキスを見てそちらへ促しながら言った。
「さあ、我が最初の見張りに立つゆえ。主も少し、休むが良い。寝ておかねば、またいつ飛ぶ必要があるか分からぬからの。」
ラーキスは頷いて、アーティアスについてそちらへと歩いて行った。クラウスは、ホッと息をついて、その横を歩いている。
ラーキスは、きっとクラウスは、ずっとこうして生きて来たのだろうと思った。アーティアスについて歩き、アーティアスと他の誰かとの軋轢を取り除き、場を保つ。幼い頃から一緒なら、きっと慣れているのだろう。
せめて自分ぐらいは、世話を掛けずにおけるようにしなければ、とラーキスはそれを見て思っていたのだった。
「そこ!その辺りがいいんじゃない?」
咲希は、アトラスの背中で言った。克樹も、森の上を木々すれすれに飛んでいるアトラスの上で、下を覗き込んで言った。
「森の中は案外に何も無さそうだから。歩いてアラクリカの入口近くまで行けるんじゃないかな。」
アトラスは、きょろきょろと下を見回した。
『待たぬか、オレだって降りれる場所が限られておるのだ。木々の隙間が空いておらねば、翼が当たる。』
少し飛ぶと、いい感じに木々が途切れて、見通しの利いた草地が見えて来た。克樹が、そちらを指さして言った。
「あ、あそこ!」
アトラスは、そちらへ向けてスーッと飛んで行き、そして足を地上へと向けて、ばっさばっさと羽ばたいた。後ろに乗っていた克樹と咲希は、急に揺れたので上下に揺さぶられた。
「うわわわわ!ダメだって!」
克樹が、手を滑らせてアトラスの背から跳ね上がり、そして草地の上へと転がって行った。咲希は、必死にどうやったのか自分でもわからないが、体から光の帯のような物が出てアトラスの体に巻き付いて固定され、吹き飛ばされることは無かった。
「克樹!」
咲希は、転がって行った克樹を目で追って叫んだ。アトラスは、地上に降り立って慌てて言った。
『サキ!早う降りよ、人型に戻れぬ!カツキはどこぞ?』
咲希は急いで帯を引っ込めるとアトラスから滑り降りた。それを確認したアトラスが、見る間に人型へと変わる。
「克樹!大丈夫?!」
咲希は、草地の上でうずくまっている克樹の元へと一目散に駆け寄った。アトラスも、その後を必死に走って来る。克樹は、うーん、と唸って体を起こした。
「…いってぇ…」と、座って姿勢で顔をしかめ、尻を擦った。「お尻から落ちたから別に怪我はしてないみたいだけどさあ…めっちゃ痛いって。」
咲希は、気の毒そうに顔をしかめた。
「もう地上すれすれだったとはいえ、5メートルぐらいの高さはあったものね。」と、ハッと思い出して、手を翳した。「そうそう、治癒魔法!巫女の治癒魔法を、ショーンに教わったのよ。任せて。」
咲希から、光が流れて克樹を覆って行く。克樹は、見る間に体が全く痛まなくなって行くのを感じた…ここまで劇的な治癒魔法は初めてだ。
「お…凄いよ!」克樹は、ぴょんと立ち上がった。「もう全っ然痛まない!こんな凄い魔法初めて見た!」
咲希が、不思議そうに克樹を見た。
「治癒魔法ってこんなものなんじゃないの?私、魔法と言うからにはこんな感じに利くものだと思ってたんだけど。」
克樹は、首を振った。
「違うよ。魔法が治すんじゃなくて、患者の中の治す力を使って、それを手助けするのがオレ達が使う治癒魔法なんだ。だから、治るのは早まるけど、こんなに何事も無かったかのように軽く治るのは難しいんだよ。ショーンぐらいの術士だったら、そんな魔法も使えるかもだけどね。」
そうなんだ…。
咲希は、まだまだ知らないことが多いのだと痛感していた。アトラスが、ホッとしたように肩の力を抜いた。
「しかし良かったことよ。肝を冷やしたわ。急に降りよと申すから、オレだって慌ててしもうたのだ。」
克樹が、頬を膨らませて抗議した。
「それにしたって、揺れるって言ってくれたらいいじゃないか。咲希みたいに咄嗟に魔法で縛るなんてできないんだからね、オレは。呪文を詠唱してるうちに落ちちゃってるよ。」
咲希は困ったように微笑んだ。
「私だって、意識してやったんじゃないの。きっと、ナディアの記憶が勝手に発動してああしたんだと思うわ。今やれって言われても、きっと出来ないもの。」
克樹の表情が、急に固まった。それは…つまり、それだけ女神ナディアに近付いているということなんじゃ。
だが、何も言わずに、慌ててアトラスを見た。
「で、アトラス、これからどうする?思ったより早く着いたし、少し寝ておいた方がいいかなってオレは思うんだけど。」
アトラスも、克樹の意図を知って慌てて答えた。
「ああ、オレもそのように。では、オレが見張りに立つゆえ、脇の茂みで寝袋でも使って交代で眠るか。」
克樹は、首を振った。
「いいよ、オレが先に見張りに立つ。アトラスは、ここまで飛んで疲れてるんだから、先に寝ていいよ。」
だが、咲希が言った。
「ああ、みんな寝ても大丈夫よ。」二人が驚いて咲希を見ると、咲希は続けた。「巫女の結界の呪文を覚えたの。これを張ると、中の命の気が外へ漏れることがないのですって。なんでも、前のメイン・ストーリーの冒険の中で、とても役に立った巫女の術なのだとショーンが言っていたわよ?」
アトラスと克樹は、顔を見合わせた。確かに、その術のことはメイン・ストーリー・オブ・ディンダシェリアの中で読んだ。でも、まさか咲希が使えるなんて。
二人が怪訝な顔をしているので、咲希は腰に手を当てて、憤慨したように言った。
「ちょっと!今治癒の魔法に感心してたんじゃなかったの?信用して!私巫女の術はうまいってショーンに褒められたんだから。」
咲希は、手を翳して呪文を唱える。すると、ぱあっと大きなドーム状の半球が形作られ、その草地いっぱいにこれみよがしに大きく広がった。
克樹が、慌てて言った。
「咲希、凄いのは分かった!でもこれじゃ大きすぎるから、逆に目立つ!もっと小さく!」
咲希は、ばつが悪そうな顔をしながら、指先をちょいちょいと動かした。その半球は、見る見る縮んで手ごろな大きさのテントぐらいになった。
「そっちの茂みに置くわね。」
咲希は、その結界を慎重に移動させ、茂みの中へと隠すように置く。こうしてみると、なるほどいい感じだ。
克樹とアトラスは、恐る恐るそこへと入った。咲希は嬉々として後を追って中へと入り、腰のポーチから寝袋を出して大きくする。
「ね?ね?凄いでしょう。ショーンにも褒められたの。私、巫女の術なら、使えるんだー。」
咲希は、嬉しそうだ。
半信半疑だったアトラスと克樹も、咲希があまりにウキウキとしているので何も言わずに寝袋を出し、横になった。
しかし、アトラスはそれからしばらく半覚醒で外を見て、何か入って来ないかと警戒だけは怠らなかった。
だが、咲希が張った結界は、野生生物も虫ですら、その中へと通すことはなかった。




