約定
シャデルは、はるか上空からククルを見ていた。
自分の体は何やら心もとなくて、実物があるようには思えない。夢を見ているのかと思ったが、そこまで現実離れもしてはいなかった。
ためらいながらも見ていると、ククルには、大勢の軍人達が押し寄せて、僅かなクーガ族の男達が出て来て必死に応戦している。
もうかなりの時間そうして来たのだろう、辺りには傷ついて倒れたサラデーナの軍人達や、クーガ族の男が倒れていた。
圧倒的に数が有利なはずのサラデーナ軍は、明らかに押されて倒れているのもサラデーナ軍の兵士ばかりが目立つ。
しかし、クーガ族の男達に限っては、隙を見て他の者達が進み出ては、里の結界の中へと引きずり込んで行っていた。
どうやら、里の結界はまだ、健在のようだった。
東の空が薄っすらと白んで来たのが見えると、先頭切って戦っていたひと際身なりの良い男が、皆を見回して叫んだ。
「退け!結界の中へ!夜が明ける!」
すると、戦っていた男達が、一斉に結界の中へと駈け込んで行く。
追いすがるサラデーナの軍人達は、結界の膜が見えないようでそれを追って走っては、結界の膜に弾かれて草の上に転がっていた。
どうやら、自分が知っているミールの結界とは違うようだ。
シャデルは、急いであの、先頭の男について結界内へと飛んで行った。
すると、里の中では、負傷者の手当が行われていた。
その男に駆け寄って来た若い男が、頭を下げて言った。
「シーク様、怪我人の手当は順調でございます。死んだ者は一人もおりません。」
シークは頷いた。
「気を抜かずに手当を続けよ。オレは長の所へ。」
相手の男が、深々と頭を下げた。
「はい。もう、先ほどから起き上がられることが出来ずで居られます。」
シークは、表情を硬くした。
「そうか。」
そして、急いで神殿の奥へと向かった。
奥へと向かうと、あの岩場の光が差し込む場所の水盆の近く、岩の上に褥を敷いて、ミールは横になっていた。シークは、ミールに駆け寄ってその手を握った。
「長、ただいま戻りました。おっしゃる通り、夜明け前に引き上げて、全員無事でございます。結界は完全に余所者を遮断し、我らは脅かされることはありません。」
ミールは、目を開くこともなく頷いた。
「ようやったの、シーク。これで、主の力とこの力の玉の力が証明された。里は、これで安泰ぞ。」
シークは、しかし眉を寄せた。
「しかし、シャデル王は何を考えてこのようなことを。納得して帰ったのだと思っておりました。」
すると、ミールは小さな声で言った。
「真実を知る努力をするのだ、シーク。これはシャデルの命令ではない。あの王は、愚かではない。しかし少し、気付くのが遅かったのやもしれぬな。恐らくは今窮地に立たされておるのは、この里ではなく、あのシャデル王であろう。だがしかし、己で道を見出して、先へ進めるはず。それをここで、静かに見守るのじゃ。」
シークは、頷いた。
「はい、長。」
シャデルは、そんな様子を涙を浮かべて見ていた。ミールは、最後まで自分のことを信じて見ていてくれたのか。
ミールは、長い息をついた。そして、穏やかに眠りに入って行くようだったのに、ハッと突然に目を開いた。
「長っ?!どうなさいましたか?!」
ミールは、まだじっと上の方を見ている。上からは、朝日が降り注いで来ていた。
「おお…案じて参ったか。まだ少し、主の力は残っておるようよ。」
シークは、何のことだかわからないまま、ミールの視線の先を見た。
「何を言うておるのですか?何もありませぬが…。」
シャデルは、まさか、と浮いたままミールへと近づいた。
《ミール?我が分かるか。》
ミールは、薄っすらと微笑んで頷いた。
「この見えぬ目でもその命の刻印は見えておりまするぞ。そうか、そんなものをまとわされたか。」ミールは、震える腕を持ち上げた。「取って差し上げましょうぞ。わしの、最後の力じゃ。死出の旅の、置き土産に。」
シャデルは、ためらうようにミールを見た。
《無理をするでない。我は、己で手だてを考える。》
ミールは、微笑んだまま首を振った。
「なりませぬぞ。あなたの力が無ければ、これを正すことは出来ぬ。今度こそ、真実を見失わないように。ただ、わしの力ではたった一つの枷しか取れませぬ。残りは、あなた自身が己の内側と話して解決なさるが良い。」
ふんわりと、ミールの手から光が湧き上がった。それは、宙に浮かぶシャデルの右腕に巻き付いて、そうして、その枷はきしむように抵抗したかと思うと、いきなりパアンという音を立てて砕け散った。
シャデルは、自由になった自分の右手を見た。
《おお…!》
ミールは、ぱたりと腕を落とした。
「長!」
シークが、もはや血の気のないミールに必死に呼びかけている。ミールは、目を閉じた。そして、唇をわずかに動かして、言った。
「わしは、逝く。後を、頼んだぞ。」
そして、朝の光がパアッとその岩場に差し込んで行く中、ミールの体はその光に包まれた。
「長!長ー!!」
シークの叫びが聴こえる。
シャデルは、自分の体が何もしていないのに、ぐんぐんと上昇するのを感じた。
《ミール…我は、必ず世を正しい方向へと導いて見せる!》
そして、そのまま気を失った。
明るくなって来た空を窓越しに見上げながら、シュレーはマティアスからもらったパンを食べていた。
レンも、隣で熱いキリーと共に、その朝食を取っている。マティアスはというと、パンには見向きもせずにひたすらハムとローストルクルクを口に入れ、そして未だ目覚めないシャデルの事を見ていた。
「パンは食べないのか?」シュレーが、声を掛けた。「オレ達はこんなに食べないから、気を遣わず食べてくれ。」
マティアスは、首を振った。
「オレは肉しか食わない。それは馴染みの客が置いてった物だ。食わないとは言えないから、もらって置いてたんだ。」
シュレーとレンは、顔を見合わせてそのパンを見た。
「…いつ貰ったんだ?」
マティアスは、うーんと眉を寄せた。
「一昨日だったかその前だったか…近所の世話好きの八百屋の女将が、老人の一人暮らしってんでいろいろとな。しょっちゅう掘り出し物の料理本を探しに来ては、買ってってくれる良い客なんだが。」
何日前のパンだろう。
シュレーとレンは思ったが、それでも食えるのだからとまたパンに食いついた。
すると、シャデルが低く唸ったかと思うと、急に右手の蔦の枷が光った。
「陛下?!」
慌ててシュレーとレンが近寄るその前で、その枷はいきなりパアンと音を立てて粉砕された。
「え…何が起こって…」
シュレーが思わず顔を庇って呆然としていると、マティアスがじっとシャデルを見て言った。
「…何か別の力がこれを消したのだ。」と、その辺りの気を読むように目を凝らした。「覚えがあるぞ。あやつ、生きておったか。」
「…今、逝った。」落ち着いた声が、マティアスに答えた。「これを解いて、すぐに。」
見ると、シャデルが目を開いてこちらを見ていた。
「陛下!お加減はいかがですか、どこか具合が悪い所は?」
手を貸そうとするシュレーに、シャデルは軽く手を上げて制して、起き上がった。
「いや、大丈夫だ。シュレーか…戻ったのか。」
シュレーは、頷いた。
「はい。ディンメルクでいろいろなことを見て参り、陛下にお知らせせねばと思っていたのですが、こちらの様子がおかしくなっているのを知って…ラーキスとレンとマーラ、スタンとサルーを連れて出るために、こちらへ潜んで参りました。」
シャデルは、厳しい顔で頷いた。
「それが正解ぞ。我が愚かであったために、このようなことになってしもうて…主らには申し訳ないと思うておる。」
シュレーは、首を振った。
「陛下のせいではございません。それよりも、何が起こっているのが把握しなければと思っております。陛下は、どこまでご存知であられますか?ラーキスの話は、どこまで聞かれましたでしょうか。」
シャデルは、立ち上がろうとして少し、顔をしかめた。思えばバークにしこたま蹴られた跡があちこち痛む。それでも、何とか立ち上がると、側のソファに腰かけて、気が自由になった右手を、自分の痛む箇所へと向けた。そして、一つ一つ傷を消して行きながら、シュレーに答えた。
「すまぬな、あちこち痛めておって。ラーキスの話であるが、恐らくほとんどは聞いたはず。あれは、命の気の循環を作るために、我の力の結晶が欲しいと申しておった。我は、民を守らねばならぬから、全ては無理だが幾らかは使っても良いと答えた。だが…そこで、バークの反対にあって、あやつは牢へ籠められてしもうたのだ。あれらの同意を得るために、説得しようと尽しておる最中に、正体を現したバークに術で封じられてしもうた。」
マティアスが、ため息をついた。
「強固な結界が揺らいだと聞いて、オレが気取ったからお主は無事なのだぞ。」
シャデルは、治療を終えたらしく手を下ろしてマティアスを見た。
「なぜに、主は我を助けたのだ。10年もここに住んでおったと申しておったの。なぜにラウタートが我に気付かれずにそんなことが出来たのだ。そもそも、ラウタートが我を助けるということ自体が信じられぬ。全て説明せよ。」
マティアスは、首を振った。
「今はダメだ。」
シャデルは、不機嫌に眉を寄せた。
「なぜだ。時はあるだろう。」
マティアスは、どっかりと側のソファに腰かけた。
「あっちへ帰って同じことを話さなきゃならないからだ。オレはそんな面倒なことはしない。」
シュレーは、横から口をはさんだ。
「面倒だったらざっと要点だけでいいから。ラウタートのことはオレはもう全然疑ってちゃあいないが、落ち着かないんだ。」
マティアスは、大きくあくびをした。
「ざっと?ああ、オレは戦の後あっちこっち彷徨ってから、ここに住んでたんだよ。なんかあった時に対応がすぐ出来るしな。そして、昨日の夜それが起こった。だから対応した。」
そしてソファにゴロンと横になるのに、シュレーが慌てて言った。
「違う!ざっくりし過ぎだろうが、どうして何か起こることを知っていたのかとか、どうして王座を蹴ってまでここに残ったのかとか、そんなことだ!」
「王座?」シャデルが、それを聞いて顔色を変えた。「マティアス…主、まさかあの時、アントンと共に居ったラウタートか。山脈を越えて逃れたのではないのか。」
マティアスは、横になったままシャデルを睨んだ。
「…あんな子供だったのによう覚えておるの。まああれからいろいろあったのだ。」
シュレーがイライラと言った。
「そのいろいろを知りたいと言っているんだ!」
マティアスは、ふんと横を向くと、目を閉じた。
「だからそれは、息子に話す時に一緒に聞けばいい。夜中に起こしておいてまだ寝かせないつもりか。恩人に対してむごい仕打ちをするの。今夜はお前達三人を乗せてディンメルクまで飛ぶのだぞ。オレはもう休みたい。明日出来ることは、明日やるのが合理的ぞ。」
「しかし陛下に…!」
「良い。」シュレーが食い下がるのに、シャデルが横から首を振った。「マティアスが明日だと言うておるのだから、我は待つ。確かにまだ、安心は出来ぬ。我も片腕の枷が残ったまま、力はまだ十分の一ほどしか戻っておらぬ。その辺の術士よりは大きな術が放てようが、これでは大軍を相手に出来ぬだろう。移動にマティアスの手は煩わせずに済みそうだが、それでも主らを連れては今の我には無理だ。マティアスに主らを任せる限り、これ以上私情で無理はさせられぬ。明日まで待つ。主らも休むが良い。何があるか分からぬぞ。バークが我を探して何をするか分からぬからの。」
シュレーとレンは、顔を見合わせたが、仕方なく頷いた。マティアスは、それを聞いていたのかいないのか、黙って目を閉じている。
そうして四人は、夜になるまで体を休めて過ごしたのだった。




