(1)ゆら姫 十五歳 ④
「今日は思わぬ人がおいでになるわ」
高らかに笑いながら柳生が部屋に戻ってくると、そのあとから危うく鴨居に頭をぶつけそうになっている背の高い侍が入って来た。
「んげっ」
姫君らしくない叫び声を上げた、ゆら。
その侍は誰あろう、目付け役の宗明だったのだ。
「まあ、清水さま。ご無沙汰致しております」
「おしずどのも息災で何より」
ゆらは二人が挨拶を交わすのを、呆然と眺めることしか出来ないでいる。
「わたくし、お茶を入れて参りますね」
そそくさと出て行くおしずが、ゆらにだけ分かるように目配せし、声を出さずに唇の動きだけで何かを伝えてきた。
おしずが部屋出て行くと、途端に胸がズシンと重くなる。
おしずは確かに「頑張って」と言い置いて行ったのだ。
言わずもがな、宗明とのこれからを思っての言葉だろう。
ゆらの事はそっちのけで談笑する宗明と柳生。
どうやら宗明もまた、柳生に師事していた事があるようだ。
そう思うと、このお師匠。何気に凄い人なのだと実感してくる。
「ゆらさま」
またぼうっとしていたゆらを、不意に柳生が呼んだ。
「は?はい!」
「清水どのに先程の話をざっとだが申し上げてある。ゆらさまからも何かあるかな?」
「え?えっと……」
隣に座す宗明をちらっと見れば、その顔には先程まであった笑顔はなく、何の表情も読み取れなかった。
(怒ってる~)
彼が目付け役となって、ひと月。彼の無表情は怒りを内包しているのだと、いくら鈍いゆらでも気付いていた。
出来るなら、このまま逃げてしまいたい。
幸い、ゆらのすぐ側に縁側がある。
だが、ここで逃げても何もならないのだと、さすがのゆらも学習していた。穏便に済ませられるならその方がいいと、ゆらはいつもよりもやや高めの声で宗明に言った。
「ごめんね」
前を見据える宗明の形の良い眉がピクリと動いた。
ゆっくりと、ゆらに顔を向ける宗明。彼女の顔を見た途端、宗明はその場に平伏した。
「ご無事で何よりでございます。姫さま」
「え……?」
絶対叱責されると身構えていたゆらは、拍子抜けしたように脱力した。
「お怪我はありませんか?」
「な、ないよ」
「よもやと思い、柳生さまの道場に伺ってようございました。何か怖い思いはされませんでしたか?」
「してないわ」
平伏したまま問うてくる宗明に、ゆらは居心地の悪さしか感じない。
頭ごなしに怒鳴られる方がましだった。
「さ、三郎太。顔を上げてちょうだいよ」
昔からの癖で、ゆらはいまだに宗明のことを幼名で呼ぶ。
助けを求めるように柳生を見ると、人のよさそうな笑みで二人を見ていた。
「ゆらさま。臣下とはこのようなものですぞ。何よりも主人の身の安全が一番なのじゃ」
「……」
もう一度宗明を見たゆらは、彼の広い肩に手を置いた。着物が汗ばんでいた。必死にゆらを探していたのだと伝わった。
「顔を上げて、三郎太。黙っていなくなって、ごめんなさい」
こんなに心の底から申し訳なく思い、謝ったのは初めてだった。
「お師匠さまにいろいろ教えて頂いたの。だから、もう黙ってお城を出たりしないわ。ちゃんと言って行くから。ね?」
宗明が顔を上げた。その顔はもう無表情ではなく、安堵の色が濃く表れていた。
「姫さまには、ご自分が思っておられる以上に大切なお身体だという事を分かって頂きたいのです。姫さまのお姿が見えなくなる。それだけで胸がつぶれるような思いをする人間が城にはたくさんおります」
「……うん……」
自分などいなくても誰も困りはしないと心のどこかで思っていた。所詮は側妾の子だからと。自分でそう思っていた所があった。
「三郎太。わたしのお目付け役なんかになって、嫌じゃなかったの?自分のお役目もちゃんとあるのに、わたしなんかの世話をしなくちゃいけなくなって、面倒じゃなかった?」
(この子は何をいまさら……)とでも言いたげな顔で宗明は小さな溜め息を一つついた。
「姫さまをお守りすることこそ、私の使命でございます。余計なことはお考えに
ならずともよろしい」
「そ、そう……?」
二人の視線が絡み合った。その間に割って入るように、一つの咳払い。
「この男が、ゆらさまから離れることはありますまい。頼みに思いなされ」
水戸のご隠居を思い出させる柔和な顔をさらに緩めて、柳生は微笑んでいた。
その日はそれで道場を辞し城に戻ったゆらは、柳生に言われたように、あやめを始めとした側仕えの者たちに謝罪とこれからの行動についての約束事を口にした。
そうして柳生と宗明に上手く丸め込まれたことに気付かぬまま、お忍びとは名ばかりの市中散策を楽しむことになったのだ。