(1)ゆら姫 十五歳 ②
その頃からゆら姫は城を抜け出し、市中を徘徊し始めた。それまでは城内を所狭しと駆け回るだけで満足していたのに、ある日、誰にも告げずに城を抜け出したのだ。塀に破れ目を見付けたことがきっかけだった。
初めて江戸の市中に出てみると、そこは活気に溢れていた。城中はもちろん、水戸の城下とも違う。
江戸はやはり、この国一番の大都市だった。
このところ頻繁に続く地震の被害にあってもなお、この都市は元気いっぱいであるようだ。
完全におのぼりさん状態になったゆらは、きょろきょろと辺りを見回しながら、通りを歩いて行く。そこは商家が立ち並ぶ通りであったのか、随分人通りも多く、老若男女が入り乱れるように歩いていた。
店の呼び子の声も高らかに、また振り売りの言上も辺りに響く。
(おお!お祭りみたいだ)
うきうきと棚に乗せられた商品を眺めていると、ふと美味しそうな団子が目に付いた。
(ぬぬっ)
それは団子の屋台だった。
真っ白い団子にかけられた甘じょっぱいタレ。
無類の団子好きであるゆらは、もうすっかり釘づけだ。
「らっしゃい!」
屋台の主人に威勢よく声を掛けられ、ゆらは思わず、
「一つ。あっ。こっちの饅頭も」
と声を出していた。
「へい、お待ち」
差し出された団子と饅頭の包みを受け取ると、ゆらは顔を綻ばせながらその場を立ち去ろうとした。
「おいおい、お嬢ちゃん。ちょい待ち」
「へ?」
さっそくみたらしを頬張ろうとしていたゆらは、口を開けたままの間抜け面で振り向いた。
「お代がまだだぜ」
「おだい?」
一瞬考えて、ゆらは「あっ」と声を上げた。
そう言えば、街で物を貰う時は銭というものを払うのだと、あやめに聞いたことがある。
水戸にいた時の街中での買い食いは、全てあやめが支払いを済ませてくれていたので、ゆらは店においての一連のやり取りには全く無頓着だった。
「ご、ごめんなさい」
「いいからさ。早く代金払ってくれよ」
(ど、どうしよう)
城を抜け出すのに必死で、銭のことなど頭になかったゆらは、当然無一文だった。
「おい、おい。食い逃げかよ」
主人が声を上げれば、道行く人が立ち止まり、屋台の周りは瞬く間に人垣が出来てしまった。
そんな状況に、ゆらはますます混乱し、おどおどおろおろするばかり。
「おい。嬢ちゃん。払わねえなら、そこの自身番(交番のようなもの)に行ってもいいんだぜ」
「あ、あの……」
主人が屋台から道の方に出てきて、ゆらの手首をつかんだ。
「ひっ」
「おお、玄さん。しょっ引くのかあ」
「おうよ。身なりがいいって油断するもんじゃないぜ」
そう言いながら、玄さんと呼ばれた主人はゆらを引きずって行こうとする。
「あの。今から帰って、ちゃんとお代持ってきますから!」
慌てて言えば、玄さんはものすごい形相で
「うるせい!そう言って逃げようったって、そうはいかねんだよ。大体お前みたいな可愛い顔して、男に取り入ろうって奴は信用ならねえ」
(ええ?偏見ですう)
泣きそうになるのを堪えながら、とうとうゆらは玄さんに引き摺られるように連れて行かれた。
「ちょっと、玄さん」
しかし、そこに救いの神が。
「そんなお嬢さんが食い逃げなんてする筈ないでしょう?今日はわたしに免じて、お嬢さんを解放してあげてよ」
凛とした良く通る声に振り返れば、ゆらよりも頭一つ分は背の高い、綺麗な女の人が立っていた。
形の良い唇の端をくいっと上げて微笑んでいる様は、何とも艶っぽい。
「お、おしずさん」
ゆらに対するのとは明らかに違う態度で、玄さんは声を上ずらせた。
「その手、離して」
「でも、おしずさん。こいつは!」
「こんなあどけないお嬢さんを自身番に突き出すなんて、まさか玄さん、そんな人でなしな事するようなお人じゃないだろう?今日はたまたま財布を忘れただけかもしれないし。ここはひとつ、あたしに預けておくれよ。お代もほら、あたしが払うからさ」
言って、おしずという色っぽい女性は、玄さんの手の平に銭を握らせた。
「足りるだろう?」
「あ、ああ。済まねえな、おしずさん。あんたにここまで言われたら、俺も引くしかねえよ。おい、嬢ちゃん。おしずさんにしっかり礼を言うんだぞ。この人が来てくれなきゃ、お前さん今頃盗人扱いだったぜ」
心なし青ざめているゆらに、少し柔らかくなった言葉を投げかけて、玄さんは屋台の中へと戻って行った。
「大丈夫かい?お嬢さん」
呆けているゆらの肩を、おしずはぽんと叩いた。
「え?あ……。本当にありがとうございました。あの、お代金はまた払いますから、お家を教えてもらえませんか?」
殊勝気に言うゆらに、お静はくっと笑うと、「お嬢さん。この辺りの人間じゃないのね」と言った。
「はあ。深川に来たのは初めてで……」
「だったら、ちょっとわたしの家によって行きなさいな。すぐそこだから」
そういうと、おしずはゆらの返事も待たずに歩き出した。
「あ、おしずさん!」
本当におしずの家はそこからすぐの所で、なかなか立派な門構えの屋敷だった。
その門の横には、『深川剣術指南道場』と書かれた看板が掲げられている。
(あれ?この道場の名前、どっかで聞いたことがあるような……)
ゆらは小首を傾げたが、おしずがさっさと門を入って行くので、慌てて後を追う。
門を入ると、たちまち道場と思われる建物の方から、威勢のいい掛け声が聞こえてきた。
「おしずさんのおうちは道場なんですか」
「ええ。父が道場主なの」
おしずは道場とは別の建物に入って行く。そこが母屋のようだ。
薄暗い建物に入ると、空気がひんやりと冷たかった。
「ああ、寒い。春と言うのに、家の中はまだ冷えるわねえ」
おしずが独り言のように言うのを、ゆらはぼんやりしながら聞いていた。
この建物に入った瞬間、頭に霞がかかってしまったように意識がはっきりしない。
「……さん。お嬢さん?」
揺すぶられ、はっとして顔を上げれば、おしずの心配そうな顔がそこにあっ
た。
「大丈夫?お嬢さん」
「あ、ごめんなさい。何だかぼーっとしちゃって……」
元気だけが取り柄のようなゆらには珍しいことだった。
「こちらに座ってて。今、白湯を持って来るわ」
心配そうに眉を寄せながら言うと、おしずは玄関脇の一室にゆらを押し込んで、一人廊下を歩いて行った。
そこは四畳半ほどの狭い部屋で、飾り気一つなく、普段はあまり使われない部屋のようだった。薄暗く、肌寒い。
ゆらはぶるっと体を震わせた。
「なんか、変……」
そう言えば、水戸にいた時も一度、こんなことがあったような気がする。
忘れるくらい前の事だ。
確か、水戸のおじいさまと一緒にいて。
こんな風に薄暗くて寒い、古井戸の側だった。
(それから、何があったっけ……)
ああ、そうだ。
おじいさまの知り合いだという京のお公家さまが一緒だったんだ。その人は古井戸を見た瞬間から顔を強張らせて、何か文字がたくさん書かれた紙を手にした。
(そして、その人は、わたしに言ったんだ)
何て?何て言ったっけ……?
記憶が混濁する。そんなに昔の事ではない筈なのに、上手く思い出せない。
「お嬢さん?」
また、おしずさんに肩を叩かれた。
「お医者を呼んだ方がいいかしら?」
「大丈夫。少し疲れただけで」
おしずの差し出した茶碗を受け取り、白湯を飲めば、冷えた体が温まり、先程よりは幾分寒気もましになった。
「お嬢さん。名前はなんて言うの?」
ゆらが少し落ち着いたのを見て、おしずが尋ねたのに答えると、
「ゆら……いい名前。気分が良くなったら、父に会ってもらえるかしら?」
「はい。もちろんです」
それからしばらくして部屋を出た二人は、明かりの乏しい廊下を通って、幾分日当たりのよい縁側に出た。
「日当たりの悪い家でしょう?冬には本当に凍えてしまうの」
おしずは恥ずかしそうに言った。
道場主の部屋は、この屋敷で一番日当たりのよい場所にあるようだ。先程の狭い部屋よりも気温がぐんと上がり、ゆらもほっと息をついた。
「父上。お客さまよ」
開け放たれた障子の向こうの部屋に、白いひげを蓄えた老人が座していた。小柄ながら辺りを払うような貫禄がある。
それが、ゆらとお師匠さまの出会いだった。
「ふむ」
部屋の中に入り、おしずの隣に座ったゆらが名を名乗ると、道場主である柳生が感慨深そうに声を出した。
「父上?」
不思議そうな顔をしたおしずに、柳生は「師範代を呼んで来い」と指示を出した。
「師範代は今稽古を付けてらっしゃるわ」
「構わん。呼んで来い」
有無を言わせぬ言いように、おしずはしぶしぶという感じに部屋を出て行った。
「さて、ゆらさん」
「は、はい」
「上さまはご息災かのう?」
「う、う、う、うえさま?」
「ほほほ。あなたさまのお父上じゃ」
「……!」
ゆらは奇異な物でも見るような目で柳生を見つめた。
その動揺が柳生に確信を与えたようで、「やはりのう」と言いながら、鷹揚な仕草でキセルに煙草を詰めている。
「お顔を見た時に似ておられると思うたが、お名を聞いてもしやと思うたのです」
「ど、ど、ど……」
言葉にならないゆらに、にっと笑うと、
「わしはここに道場を開く前に、恐れ多くもお父上と兄君に剣術を指南申し上げていたのですよ。ゆら姫さまは水戸におられたのですなあ」
ゆらはがくっと肩を落とした。
(世間、狭すぎっ!)
「こうして、お会いできたのも何かの縁のように思われるのう。有難い事じゃ」
「はあ」
力なく答えるゆらに構わず、柳生はにこにこと何処までも朗らかだった。
「それで?姫さまはどうしてここにおいでになった?」
「それは……」
ゆらが言い淀んでいる間に廊下に足音がし、おしずの他にもう一人、やや強面ながら整った顔立ちの美丈夫が部屋に入って来た。