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姫恋華~ひめれんげ~  作者: 藤原ゆう
出会い編  ※  第一章 将軍の姫 
5/45

(1)ゆら姫 十五歳 ①

 人にはそれぞれ転機となる年がある。

 

彼女の場合はまず五歳の時にその転機というものがやって来た。母が病床に伏し、一人娘である夕羅ゆら姫は水戸の縁戚の元に預けられたのだ。そこで八年余りを過ごし、再び戻って来たのが十三の時。


 そして十五歳。この年から彼女の人生は大きく動き始めたのだった。




 将軍の側室 志乃は寵愛を受け、一人娘であるゆらを授かった。しかし産後の肥立ちが悪くそのまま床に伏しがちとなり、姫が五歳の折にいよいよ起き上がれないほどになったために、江戸市中で商家を営む実家に一度戻されることになった。が、志乃と離れがたい将軍は彼女を城内に留め置き、手厚い看病を受けさせることにしたのだった。

 

 そこで問題となったのは姫の処遇だった。


 移る類の病であってはいけないと心配する旨から再三の申し出があり、幼い姫は水戸の親戚筋に預けられることになった。「幼い姫を遠くにやらなくても」と継母となる御台所などは言ったけれど、ゆら自身はまるで物見遊山でも行くような気分で大奥を出立した。水戸には大好きなおじいさまがいる。いまだ頑是ない年頃のゆらは、母との別れよりもその事に気を取られ、その時起きていることの半分も理解してはいなかったのだ。

 

 水戸での暮らしは気楽なものだった。

 大奥のような厳しい規律がある訳でもなく、自由気ままに、まるで町人の子供のように日々野山を走り回って過ごした。


 おじいさまは学者肌であったから、勉学には殊の外厳しい方だと評判だったけれど、ゆらのことは目の中に入れても痛くないほどの可愛がりようで、ゆらが講義をすっぽかし屋敷を抜け出しても、目尻を下げてにこにこと微笑むだけだった。


「ご隠居様はゆら姫さまがおいでになってから、お人が変わったようだ」と、周囲の者は微笑ましく見守っていた。

 

 そうして自由を謳歌していたゆらが、江戸に帰って来たのは十三の年。女性としての成人を迎えた為でもあったが、何よりも、母の病があまり良くない方に向かっていた為だった。

 

 そんな母が比較的体調が良い日。水戸から帰って六日余りたった日の事。

 久しぶりに対面した母はやつれ、手足は細り、目に光はなく、病は殊の外篤いように思われた。


 震える手を差し伸べる母を、まるで恐ろしいものでも見るように動けなくなってしまった、ゆら。

 腰元たちが見守る中で、乳母の娘であるあやめが声をかけた。

「ひめさま。お手を取って差し上げてくださいな」

 

 その声に我に返ったように顔を上げたゆらは、すっくと立ち上がると部屋の外に駈け出して行ってしまった。

「ひめさま!」


 あやめの声を無視して走り去るゆらの姿はあっという間に見えなくなり、あとには腰元たちのひそひそと批判的に繰り広げられる会話が部屋の中に広がっていった。


「やはり鄙育ちでいらっしゃるから……」とか、「水戸でどのようなしつけを……」など、あやめの耳に痛い声ばかりが聞こえてくる。


 誰にも気付かれないようにそっと息をついた時、また廊下を走る音が聞こえてきた。と、思う間もなく、どたどたという音は大きくなり、最後にはすいーっと廊下を滑って急停止。

「ひ、ひめさま!」

 

 着物ははだけ、髪は乱れ、息も荒い。

 あやめは感じたことのないような頭痛に襲われながら、ゆらの元ににじり寄った。

「ひめさま。ご病人さまのお側でございますれば……」


 すると、ゆらは怖いくらいに真剣な顔つきで敷居を跨ぐと、薄目を開ける母に手をグイッと差し出した。

「ひめさま?」


 腰元たちが慌てた声を上げるのも無視して、ゆらはその手に持っているものを母の枕元に置く。


「早咲きの桜です。水戸から帰って来た時に咲きそうだなって思って見たの。かあさま。お好きだったでしょう?」

「……」


 たちまち志乃の目が潤み、ゆらが膝に置いた手にそっと己の皮ばかりの手を乗せた。


「おかえり。ゆら」


 ゆらの大きな丸い目にも涙が溢れる。そのままゆらは声もなく泣き始めた。その涙には、彼女のさまざまな感情が込められていて、見る者の胸を打った。


 離れていた長い年月。幼子が母を恋しいと思わない筈はなく。また、病を心配しない筈はなく。


 お気楽そうに過ごしながらも、ふとした瞬間にゆらの瞳に悲しみが宿ったり、書いては送らずにしまってしまった文が何通もあることを、あやめは知っている。


 ここに来てようやく他の腰元たちも、そんなゆらの心に思いを至らせたことだろう。

「これからはいつでも母上さまにお会いできますよ。ひめさま」


 あやめが声を掛ければ、ゆらはこくこくと頷いた。

 志乃は小さな一枝ですら重たそうであったが手に取ると、そのひとつふたつ咲いた花を、飽くことなくいつまでも愛おしそうに眺めていた。

 

 しかし母との再会を果たしたあと、ゆらに何か変化があったかと言えばそうでもなく、水戸にいた時と同じように部屋を抜け出しては、乳母やあやめを辟易させていた。


 若年寄やお中臈と言った身分の高い奥女中たちの目は冷やかだったが、お目見え以下の者たちにはすこぶる人気があるようで。ゆらが台所や洗い場に顔を出すたびにお菓子だのなんだのと分けてくれる。


 成人を迎えた姫であるのだから、簾中で大人しくしているようにと再三再四言われても、ゆらは一向に聞く耳を持つ気はないようで、どうやら落ち着きがないのは母に会えない寂しさを紛らわせる為だけでなく、彼女の生来の性格というのも多分に関係しているようだった。



 

 母の病が一進一退を繰り返す中、ゆらの城での生活が軌道に乗りしばらく経った頃異例の人事が発表された。


 大目付清水の嫡男 宗明が、ゆらの目付け役として大奥に上がることになったのだ。

 将軍以外の男性が立ち入ることを禁じられている大奥において、これはまさに異例の事態。


 その背景には、宗明がかつて小姓として側に仕えていた、ゆらの異母兄である若君と、ゆらとはなさぬ仲であるのに江戸に戻って以来何かと気にかけてくれる御台所の後押しがあったと言われるが、当のゆらには詳しいことは知らされない。


 ただ、目付け役が幼い頃から見知っている宗明であったことに、少しほっとしたくらいだった。


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